はちみつトラップ【後編】
一方、ラウンジに残された降谷は一人頭を抱えていた。泣かせるつもりはなかった。今回ばかりは諦めてほしいと、そう伝えにきたのがどうしてこうなったのかと大きく息を吐き出した。グラスの中身を煽ると懐から仕事用ではないプライベート用の携帯を取り出し懐かしい友人へと電話をかけた。

何度目かのコール音のあと友人は妙にかしこまったような声で電話に出た。

「………降谷か?随分久しぶりじゃないか…お前死んでるって噂だぞ」
「松田…俺はどうすればいい…」
「おい、どうした…仕事でなんかあったのか…」
「いや、ナマエを泣かせた…」
「…………」

突然黙り込んだ友人に降谷は電波が悪いのかと携帯のディスプレイを覗き込んだが電波状況はいたって通常だった。

「…お前また好きな女泣かせたのか」
「なっ…別に好きな女ってわけじゃあ…」
「久しぶりに連絡よこすから何かあったのかと心配したが相変わらずのようで安心したよ」

松田の呆れたような声色に眉根を寄せる降谷だったが、そう思われるのも当然かと己の行動を思い返した。

「連絡できなくて悪かったな…今の仕事上なかなか連絡できなくてな」
「ああ、わかってるよ…お前の仕事がどういうところなのかくらい、なとなくな…」

察しのいい友人だ。公安で任務にあたっていることは例え家族や親しい友人であろうと明かすことを禁じられているがなんとなく気付かれているのではと思っていた。こんな友人だからこそ未だにこういうとき頼ってしまうのだ。

「はぁ…松田…俺はどうすればいい…」
「お前、なんで他のことは馬鹿みたいにスマートにこなすのにナマエのことになるとてんでダメなんだよ…」

そんなのこっちが聞きたいと降谷は内心ごちた。昔からそうなのだ。大学時代は成績順位で対抗意識を持たれ警察学校に入ると目の敵のように扱われこちらもそれに対抗しただけだ。それなのにいつの間にか一人残って訓練を続ける彼女を目で追うようになり、優しくしたいと思うのになぜかいつも怒らせるばかり。はぁ…とまた深いため息が漏れる。

「素直に気持ちを打ち明けないからそうなるんだろ…自業自得だ」

昔から物事をはっきり言う友人ではあったがこんな時くらいもっとオブラートに包んでくれてもいいんじゃないかと降谷は思った。だが、松田の言うことは昔から間違ってはいない。そう思うと携帯を固く握りしめ、突然こんな時間に電話したことに謝罪を述べて立ち上がる。

「悪い松田…また改めて連絡するよ」
「ああ、ちゃんと報告しろよ…近々またみんなで集まろうぜ」
「…そうだな」

久しぶりに自然と口角が上がるのを感じながら電話を切ると会計を済ませナマエが消えた方へと走り出した。昔から負けん気が強くて誰よりも努力家な彼女の姿を降谷はずっと見てきた。公安に入ってからもそうだ。誰より早く入庁し、遅くまで仕事をこなしチャンスがあれば危険な任務へ積極的に赴こうとする。その度に心配でならないのだ。そのまっすぐな心がいつか折れてしまうのではないかと。

エレベーターホールに出るとようやく探し求めていた背中を見つけたが、隣に立つ見知らぬ男の姿に眉根を寄せた。まさか本当に他人に教えを請うつもりかと降谷の頭はカッと熱くなった。二人並んでエレベーターに乗り込むその姿を認識する前に自然と足は動き出していた。

扉が閉まる寸前、手を差し込むとその腕をとった。

「おい…まさかそんな男からレクチャー受けるつもりか」
「は?」

随分と必死な形相だったのだろう、ナマエとその隣にいた男は驚いたような顔で降谷を見つめた。

「ちょ…何か勘違いしてない?この人とはそこでぶつかってコーヒーがスーツにかかったから染み抜きしてもらおうと思って」

そう言ってナマエが見せた上着の裾には確かにコーヒーの染みがべったりとついていた。いつもの鋭い観察眼はどうしたのよと続けるナマエに、馬鹿か!と叫ぶと彼女よりもその隣に立っていた男の肩がびくっと震えた。未だ掴んだままの腕を勢いよく引くとエレベーターから強引に引きずり出す。

「だとしても、初対面の男の部屋に簡単についていくな」
「部屋?部屋って何言って…」
「うるさい、俺の部屋に行くぞ」
「はぁ?あんたほんとに部屋とってたわけ?」

ぎゃいぎゃいと目の前で喧嘩を始めた二人を見て残された男はオロオロとしていたが、すみませんでした…と消え入るような声で呟くと閉めるのボタンを押し去っていった。気の小さい男だ…と降谷は舌打ちする。

「あんな得体の知れない奴について行くなんてそれでも公安の人間か」
「護身術のテストで99点をとった私がどうにかされるとでも?」

降谷は学生時代の彼女の身のこなしを思い出して、確かに…と納得しそうになったがそういうことじゃないと首を横にふる。再び無人のエレベータが開くとのナマエの腕を引いたまま強引に乗り込み予め早朝任務のためにチェックインしておいた部屋のある階数ボタンを押す。

「ちょっとどこ行くのよ」
「俺の部屋だ…染み抜きするんだろう」

こういうところも昔から変わらないと、降谷はエレベーターの階数が上がっていくのをぼんやり見つめながら考えた。彼女は頭もいいし、警察学校での成績も優秀だったが残念なことにどこか抜けているのだ。そういうところもあって過保護になってしまうのかもしれないが…

部屋につくと降谷はナマエの上着を脱がせバスルームへと向かった。乾いたタオルでシミになった部分を挟んで叩き、濡れたタオルで叩いたあとにまた乾いたタオルで叩くを繰り返す。

「ねぇ、降谷…やっぱり何か勘違いしてない?」
「なんのことだ…」

いつの間にかバスルームの入り口に立っていたナマエに振り返ることなく返事をする。

「さっきの人、エントランスに行けば染抜きしてもらるかもって一緒に一階のロビーに向かってただけなんだけど…」
「…………は?」

甲斐甲斐しくも業者顔負けの手際で染み抜きをしていた降谷はその言葉に完全に固まった。勝手に勘違いして勝手に暴走していたのは自分の方だと気付くと固く絞ったタオルを握りしめたまま大きく息を吐きながら大理石のダブルシンクに項垂れる。

「俺はお前のことになるとどうも冷静じゃいられなくなる…」
「え…」
「だから今回の任務も外してもらったんだ」
「は…外してもらったって私の代わりに降谷が入ったんじゃないの?」
「いや、俺は最初から決まってた方の一人だ」

そう打ち明けるとバスルームの入り口に立っていたナマエは驚いたように瞬きを繰り返した。そのまま視線を彷徨わせるのは何かを考え込んでいる時の彼女の癖だ。

「悪かった…さっきは偉そうに説教したが、感情が抑えられなくなるのは俺の方だ」
「降谷…」
「さっき言ってたようにお前はお前の武器を存分に発揮できるところで戦ってくれ。それはこっちのエリアじゃない。ナマエには俺の帰る場所になってほしいんだよ…」

松田に言われた通り素直に気持ちを打ち明けるといつもギャンギャンと言い返してくるナマエは妙に大人しく降谷の言葉を受け止めた。それどころか見たこともない神妙な面持ちで降谷に近づくと申し訳なそうに目を伏せた。

「私も、ごめん…。降谷の言う通りだって本当はわかってたのに降谷には負けたくなくて。学生の頃から降谷は次元が違うってわかってたけど少しでも…その…近づきたくて」

言いながらかああっと赤くなるその頬に触れたくなって降谷は無意識に手は伸ばしたが、その手がたどり着く前にナマエは強い意志を込めた瞳で降谷を見据えた。

「でも…いつかは絶対降谷に近づけるように…ううん、追い越せるように頑張るから…」

一人で先に行かないでと、続けるナマエの昔とちっとも変わらない負けん気の強さに降谷はぷっと吹き出し伸ばしかけた手で自分の口元を覆った。突然目の前で笑い出した降谷にナマエは不機嫌な顔をしたが悪い悪いと誤魔化すようにその頭を撫でる。

「ねぇ、絶対馬鹿にしてるでしょ…言っておくけど色仕掛けだって今は未熟かもしれないけどこれからスキル磨いてあんたを必ず出し抜いてやるんだから」
「ああ、けど練習するなら俺だけにしとけよ」
「なんで…?」
「成長の過程がわかるだろ」
「なるほど…」

変なところで単純でよかったと降谷がほっとしていると、急に目の前に立っていたナマエの体がぐらりと揺れた。咄嗟にその体を受け止める。

「お、おい…どうした…」
「あれ…どうしたんだろ、急に頭クラクラして」

そう言って米神を押さえるナマエにそういえば彼女にしては珍しく強い酒を何杯も煽っていたのを思い出す。

「飲みすぎたんだろ…今頃酔いが回ってきたんだよ」
「そっか…」

肩を支えて立ち上がらせるとそのままベッドルームまで運び、ゆっくりと横たわらせる。ほんの少し上気した頬に触れると気持ちよさそうにすり寄ってきた。

「待ってろ、今水を…」

喉が渇いているだろうと冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってこようとその場を離れようとしたが、ぐっと上着を掴まれる。

「零…行かないで…」
「あ?」

思わず出た素っ頓狂な声もすぐに飲み込んだ。見れば潤んだ目でナマエがまっすぐ降谷を見つめており、そのどこか泣きそうな顔にごくりと息を飲んだ。

「…今日は朝まで一緒にいて?」

不意打ちだった。いつもだったらありえない名前呼びや見たこともない潤んだ瞳にそれが演技だとすぐに見抜けたが、ぶわっと赤くなる頬をどうすることもできずに固まる降谷にナマエは不敵な笑みを浮かべてみせた。

「…成長した?」

そうだ、こいつは異様に飲み込みが早いんだった…

降谷はその場で頭を抱えると、遠い訓練の日々を思い返した。降谷や伊達に続いていつも好成績を残していたナマエは自主練の鬼で、最初は苦手な分野であろうとその飲み込みの早さは異常だった。

好きな相手に例え演技だとしてもそんなことをされて嬉しくないわけがないが、他の誰かにそのスキルが使われると想像しただけで壁を殴りたくなる衝動にかられるわけで、しばらく降谷が頭を抱えたくなる日々は続きそうだった。


(2017.6.27)
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