月明かりの無い夜だった。重く立ち込める黒雲は空を飲み込まんばかりに広がり続け、罪の意識を拭うが如く、静かに雨が降っていた。
 暗がりに、男の怒号がこだまする。無数と続く殴打の音が痛々しく響く。灰色のスーツに身を包む幾人もの男たちの真ん中に、女が一人、倒れていた。黒いボストンバッグを抱え込むよう身を丸める彼女の背中を男たちは容赦なく蹴りつける。水滴を飛ばす靴底が身を抉る度、噛み締めた奥歯の隙間から彼女の苦痛の呻きが漏れた。
「しつけぇなっ」
 苛立つように男が高く足を上げ、彼女の後頭部を踏みつける。みし、という鈍い音の後、必死の抵抗を続けた女の身体の力が抜けた。
 街灯が照らすほの灯りの中に、攻撃を止めた男たちの下卑た笑みとぼろ布のように横たわる女の背中が浮かぶ。
「手こずらせやがって」
 筋肉を緩め、腕や肩を回す男たちの元に、その足音は、確かに、近づいていた。獲物に気を取られた小さき獣は、背後から迫る猛獣の気配に気づかない。男の一人が身体の下敷きになったボストンバックへ手を伸ばした、その時──
「邪魔」
「あ?」突如聞こえた声に男は眉をひそめた。振り返れば、夜の闇の先にぼんやりと形を成すひとつの人影がある。「何だ、てめえ」
「じゃまァだ、っつったんだよ。耳ついてねぇのか」
 途端に殺気立つ男たちの前へ、気怠げな闊歩の音と共に彼は姿を現した。紫色の唐傘の下、煩わしげに睨みを効かせる血走った眼が彼らを射抜く。肩にかけた真っ赤な法被には、白い「達磨」の字があった。
「人のシマで随分勝手してんじゃねぇか。何だその女」
 天道地区。この辺り一帯を取り仕切る日向紀久の登場に、男たちは一瞬たじろぎを見せた。警戒する小動物のようにその背がぴん、と伸びる。「こいつは俺たちの問題だ。部外者に話すことなど何もない」
「……まぁ、別に興味もねぇからいいけどよ。やるならてめぇらのシマでやれや。デカイ図体並べやがって、目障りなんだよ」
 オラ、そこ退け、と肩にぶつかることも厭わずに、日向は道の真ん中を行った。舌打ちや鋭い視線をものともせず悠々と進む彼の背後から、吐き捨てるような声が言う。「スウォードの闘いで牙を抜かれた狂犬風情が」
「あ?」と、足を止めた彼の顔が歪んだ。「オイ。今、言いやがったのどいつだ」
 円になった男たちをぐるりと見回すように睨みを効かせれば、その場の誰もが口を噤む。「っは、だんまりか。てめぇらみてえな女々しい奴らが下にいる時点で、大将の器が知れんなァ」
 ぴし、と空気に亀裂が入るように辺りの温度が下がる。「……あまり、我々を愚弄するなよ」
 威圧感を漂わせ、周りを取り囲む男たちの姿に、日向は口の片端を上げた。「面白ぇ。丁度暇してたとこだ。やるなら最後まで付き合えよ?」

 ──日向は、地面に落ちた唐傘を拾い上げた。そのすぐ横で咽せる男が紅を吐く。辺りの汚れを洗い流すが如く、雨脚は徐々に強さを増していく。鉄臭さに満ちた空気を吸い込み、日向は空を仰いだ。憂さ晴らしにはなったか、と返り血もそのままに、彼は小さく笑みを浮かべた。
 開いた傘を肩に掛け、倒れ臥す男たちの中で一人身を丸める女に目を向ける。片眉を上げた日向は、近くへ歩み寄り、おい、と下駄の底で彼女の腹を突いた。「あ? 動かねェ」
 息を吐きながらしゃがみこみ、彼は些か乱暴にその髪を掴んで持ち上げ「生きてんのか、死んでんのか」
 微かに眉を動かして、女が苦しげに咳をする。「んだよ、生きてんじゃねぇか……コイツら九龍の連中だろ。何があった」
 朧げな意識の中、彼女は血の滲む唇でどうにか言葉を紡ごうとしているようにみえた。しかし、漏れる空気は声にもならず、ただ白い息だけが辺りに漂うだけ。
「……要領を得ねぇな」と、日向はひとつ舌打ちをした。彼は無造作に女の襟首を掴むと、そのまま力任せに担ぎ上げ、片方の手でバッグを引っ掴み、ちらりと彼女に目を向けた。「話はじっくり聞かせてもらうぞ」
 


 どさ、と目の前に放られた一人の女と一つの鞄を彼らは呆気にとられた表情で見つめた。
「おい、日向。何じゃ、この女」と、右京が顔をしかめる。
「拾った」
 拾ったってか、と左京は顔を引きつらせ、気怠げに首を回す日向と女とを交互に見やった。
「運んでくる間に気絶しやがった。口がきけるようになったら呼んでくれや」
 多くを語らず、言いたいことを言うだけ言って、自らの定位置とでもいうべき場所へ引き返していく頭を、彼らは信じられないような面持ちのまま目で追った。板張りに転がる傷だらけの女を前に、お荷物を預けられた加藤たちはがしがしと頭を掻き、ため息を吐いた。
 
「……んな怯えなくても噛みつきゃしねえよ」
 数時間後。布団の中で身を起こし、女衆に手当てをされていた彼女の前に日向は姿を現した。自分を見るなり、今にも震え出しそうな反応を示した女に顔をしかめながら、側に腰を下ろして胡座をかく。
 女は、名を如月珠夜と言った。狭い部屋の中に彼女と日向、そして加藤たち幾人かの側近だけが残されると、珠夜はもはや泣き出しそうな勢いで身を縮め、しかしおずおずと日向に頭を下げた。
「あの……助けてくださって、ありがとうございました」
「あ? 助けるって何のことだ」
 え、と困惑した表情で顔を上げる珠夜に彼は続ける。「お前が俺たちのシマに逃げ込んだおかげで九龍との間に小さな厄介事ができちまった。理由次第じゃァ落とし前つけて貰わねぇと割に合わねえから連れてきただけだ。勘違いすんじゃねェ」
 吐き捨てるように告げられた言葉に眉根を下げた珠夜は、俯き、膝の上で震える拳を握った。 
「それで? なんで追われてた」
 小さく息を吐いた珠夜は、どこを見るでもなく真剣な顔をして、意を決したように口を開いた。「私の父は、植野コーポレーションの子会社で、長らく会計士を勤めていました」
「植野コーポレーションつったら、九龍の金庫番してる植野会の表会社か」と加藤が言えば、彼女は静かに頷いた。
「父は、そこでずっと、上に言われるがままに裏金の帳簿をつけていました。違法な地上げや裏での売買。父は数十年に渡るそのすべて金の流れの、複製を、作っていたんです」と、珠夜はそっと首にかけていたロケットペンダントに触れた。「九龍に失敗は許されない。それは傘下でも同じこと。どれだけ小さな種であっても、彼らは根こそぎ刈り取ろうとする」
「父親は」と、日向は頬杖をつきながら、わかりきった質問を投げかけた。
「自殺、と、いうことになっています。表向きは」彼女はロケットを握りしめ、黒いボストンバックに目を向けた。少し開いたファスナーの隙間から分厚い紙の束が覗いている。「あの男たちは、父がつけた複製を奪いにきた。だから、私は……」
「んなもんさっさと渡しちまえばいいじゃねえか」と、右京の声がした。「それでテメェが死んだら本末転倒だろ」
「簡単に言わないでください!」と、珠夜は表情を変える。「これが向こうに渡ってしまうなら、父は何のために死んだんですか? 貴方たちには、馬鹿に見えるのかもしれない。父の最後は自業自得で、犬死にだ、って。でも私には、唯一の、大切な家族だったんです。お父さんが残したものを、あんな奴らに、そう易々と渡すなんて私はできないっ」
 くるりと向きを変え、珠夜は日向に向き合い、床に頭をつけた。「お願いします。ほんの少しの間でいい。私を、ここに匿ってください!」
 彼女の叫びに側近たちは顔をしかめた。
「それは都合が良すぎるんじゃねえか?」と、左京が声を荒げる。「俺たちにァ1ミリも得がねえだろうが」
「……これ以上の迷惑はかけません。私にできることがあるなら、何だってやる」
 白くなるほど唇を噛む彼女に答えを決めかねた面々は、先程から目を瞑りながら淡々と話に耳を傾けていた頭の言葉を待った。痺れを切らした右京が「日向」と、声をかける。
「……別にいいんじゃねえの」と、怠そうに彼は目を開けた。「んな餓鬼の一人や二人、いようがいまいがなんの支障もねぇ。どのみち植野の連中にはもう喧嘩吹っかけちまったんだ。後は向こうがどう出るか、待つより他はねぇだろ。でもなァ」と、膝を立てた日向は出し抜けに珠夜の頭を強く掴んだ。指に絡んだ髪を引かれ、頭皮にぎり、と痛みが走る。「お前、覚悟はできてんだろうなァ」
「ぇ……」
「やれることがありゃあ何だってする、っつったな。なら、てめぇは今から命を懸けろ」至近距離から見据える血走った眼に竦んだように、珠夜は思わず身を引いた。「植野会が帳簿奪ってハイ終わりとでも思ってんのか? 甘ぇよ。彼奴らに見つかったが最後、てめぇの最後は父親と同じ犬死にだ。んなことにならねェよう、俺が花道飾ってやる──安心しろ。ここにいる限り、植野の件では死なせねぇ。俺らの恩に報いるような、華々しい最後を遂げさせてやるよ」
 日向はニヤ、と口の端を上げた。「何を選ぶも自由だが、どのみちお前が背負ったのは逃れられねぇ酷い死だ。今更誰頼ったか、後悔は無しだぜ」


TOP