舗装されたコンクリートの道を睨みながら珠夜は歩みを進めた。
 先ほどのキジーとの会話が頭の中をぐるぐる巡る。日頃から「大好き」だ「かっこいい」と、包み隠さず一方的に想いを伝えてはいるが、改めて名前のつく感情に押し込めようとすると、どうも上手くいかない。広斗くんは、自分にとってどんな存在なのだろう。そもそも雨宮兄弟との関係すら、明確に答えられる自信がなかった。知り合い? 友達? 仲間? どれもしっくりこない。ただ、珠夜にとっては「とても大切な人たち」そして広斗は「大好きな人」だった。
 珍しく息をつめるように思い悩み、少し立ち止まって、顔を上げる。「ここは──どこ?!!」
 目の前に広がる見覚えのない街並みに、あたふたとその場で回転する。さっきまで、珠夜はネオンの灯らぬうすら寂しい繁華街にいたはずだ。それが今はどうだろう。辺りには木々が増え、周りには人気のない住宅街が広がっている。どことなく妖しげな空気を纏う古びた家々に、嫌な予感がした。スウォード地区の地図はあまり覚えていないが、まずい方向に来てしまったような気がする。挙動不審になる彼女の鼻腔に、ふわりと香の匂いが漂った。
「オイ」
 気怠げにかけられた男の声に、彼女は怯えながらも振り返った。
「……ここは私有地だぞ。お前、誰の許可得て入ってやがる」
 赤い法被を肩にさげた達磨の頭領の登場に、珠夜は内心「ですよね!」と叫び声を上げた。
「ごめんなさい! こんなところに来るつもりは毛頭なくて、あ、こんなところって言ったのはこんな怖ぇとこ誰がわざわざ好き好んで来るかよ、ということではなくて、珠夜ちゃんは幼気で善良な一市民だから賭博とかにも興味ないし、達磨さんとはあまり関わり合いになりたくないっていうか、ちょっとびっくりして今何言ってのるかわかんないけど、自分で自分の首を絞めていることは何となく察してはいるけれど、つまり何が言いたいのかというと、珠夜ちゃんは迷子です!!」
 弾丸のように言葉を紡ぐ女を見つめた日向は、ふと、思い当たることがあったように目を細め、ゆっくりとその距離を詰めた。
「お前、どっかで見たことあんな……雨宮んとこにいる女か」面白ェ、と唇に弧を描き、彼は珠夜の肩を掴む。「ちょうどイイ。ちょっと面貸せや」





 入り組んだ建物から伸びる鉄塔のような場所に腰掛け、スモーキーは空を眺めていた。西からそよぐ風に感じ入るように目を閉じる。背後に続くトタン板で造られた通路から足音が聞こえ、彼は薄く瞼を開いた。
「久しぶりだな、広斗」
 ポケットに手を入れながら近づく彼を振り向き見れば、広斗は無言でスモーキーの隣まで歩み寄り、所々錆びついた鉄骨にもたれ掛かった。
「力になれなくて悪かったな。居場所がわかれば俺も手を貸せたんだが」
「耳が早ぇな」
「俺たち家族は横の繋がりが強い。情報はすぐに届く。他所から来た者の話は、特にな」
 おそらくは珠夜のことを言っているのだろう。些か読めない男ではあるが、淡々とした語り口で進められる彼との会話が広斗は嫌いではない。
「わざわざ俺のところまで来るなんて、何か他に用でもあるのか」と、スモーキーが問うた。
「別に。ただ少し、お前の顔見に来ただけだ」
 訝しげに眉根を寄せるその顔を広斗はちらりと一瞥する。青白く、こけた頬。以前会ったときよりも少し色素の薄くなった髪と虹彩。光に透け、そのまま溶けて消えてしまうような錯覚にさえ陥る。
「体調、あんまりよくねえみたいだな」
 一瞬、目を丸くしたスモーキーが「そういうことか」と、表情を緩めた。「お前は、見かけによらず優しい男だな。だが、心配はいらない。与えられた命の期限は、自分が一番わかっているつもりだ。覚悟は、とうにできている」
 もたれていた両腕を離し姿勢を正した広斗は、納得いかない表情で、どこか遠くを見つめるようなスモーキーの横顔に目を向けた。
「家族たちが、心配してんぞ」
「ああ……そうだな」
「お前は、何でそう生きることを諦めてんだ」
「諦めているわけじゃない。ただ、その価値をわかっているだけだ」薄く笑みを浮かべ、彼は語る。「命の使い道を知っているか? それを悟ることのできる奴らが、世界にはどれだけいるんだろうなあ。運よく俺は、自分の価値を知ることができた。何も持たず生まれた男のたったひとつの死が、大切な家族を……いや、ひいてはこの国を、少しでも救うことができるかもしれない」
「……意味がわからねえよ」
「そうだろうな。今はまだ、その時じゃない」
 幾分晴れやかな顔をして、スモーキーはその目に夕日を映した。
「珠夜の手を離すなよ」と、彼は言う。「あの子はお前に、光をくれる」
「あ?」
「大切に想っているんだろう。見ればわかる」
 心を乱されたかのか、広斗の視線が鋭くなった。罰が悪い、という方が正しいかもしれない。
「想いがあるなら告げればいい。言葉にできないなら行動で示せ。伝える方法はいくらでもある。人生に、後悔を増やすなよ」
「……わかってるよ」
 穏やかに紡がれる響きの中に、広斗は在りし日の尊龍の面影を感じ取っていた。儚げで、強い魂をもった彼らは、どこか似たところがあるのかもしれない。まるで子供時代に戻ったかのような居た堪れなさに、彼はふいと目を逸らした。
 その時、金属を踏み鳴らす喧しげな足音が聞こえ、彼らは背後を振り返った。
「雨宮!」と、タケシが呼びかける。「さっき外にいるやつから情報が入った。珠夜が、達磨の陣に連れていかれたって」
 深く眉間に皺を寄せ、広斗は強く拳を握った。録に話も聞かぬまま飛び出して行った彼の耳には、後ろから叫ばれる制止の声など何ひとつ入ってはいなかった。




「鬼! 人でなし!! 泣いて青鬼になってしまえ!!」
 浴びせられる罵詈雑言を酒の肴にしながら、日向は杯を傾けた。少し離れた場所では右腕である加藤たちが珠夜の傍でニヤついた顔をしている。窓の向こうで傾く太陽に目を向けながら、彼はそろそろか、と胡座をかいた。
 遠くから派手に物が倒れる音と男たちの慌てふためく声が聞こえてくる。徐々に近づく足音に「やっとお出ましか」と、彼は満足げな顔をした。
「日向!!」
 乱暴に扉が開き、怒りの形相をした広斗が飛び込んできた。
「おー。遅かったじゃねェか」
「テメエ、珠夜をどこにやった」
「んな物騒な面してんじゃねェよ」
「広斗くん、助けて!」
 叫ぶような珠夜の声を聞きつけ、彼は反射的に視線を向けた。視界に入ってきた光景に、彼は瞬時に身を固める。「……あ?」
 机に乗った粉物、駄菓子、湯気をたてる数々の料理の前で、珠夜はもぐもぐと口を動かしていた。
「雅貴くんがご飯作ってくれてるかも、って何度も断ってるのに、みんな話を聞いてくれないの。こんなに美味しいものを用意して、達磨さんは珠夜さんを太らせる気なのかもしれない」
「おー、雨宮ぁ。こいつほんと食いっぷりいいなぁ」赤髪の加藤が笑みを深める。「うちは日向が全然食事とらねぇからよ、いっつも作りがいがないんだわ。うめぇうめぇって何でも食ってくれるもんだから、ちょっと作りすぎちまった。勘弁なっ」
「おい、珠夜。りんご飴食うか?」
「えー、食べるー」
 呆然とする広斗を前に、日向はにやりと口の片端を上げた。
「随分とまァ、血相変えてやって来たじゃねェか。うちの若いもンにも幾らか手ェ上げたみてえだな」
 奥歯を噛み締め「紛らわしい言い方しやがって……!」と、青筋を立てる広斗を彼は愉しげに眺めた。
「俺たちの地区をふらふら彷徨ってたんでなァ。危険なことが起きる前に保護してやったんだ。にしても、天下の雨宮が一人の女に入れ揚げてここまでするなんざっ。まったく、面白い余興を見せてもらったもんだぜ──お前、惚れてんのか?」
「ア?」
 食えない顔を浮かべる日向に大きく舌打ちを飛ばし、広斗は足を踏み鳴らして珠夜の元へ近寄った。
「帰るぞ!」
「え。ちょ、ちょっと待って広斗くんっ。痛い痛い!」
「お前が壊した品の代金は後で請求させて貰うからなァ?」
 片手にりんご飴を握りしめながら達磨の衆に礼を言い、彼女は広斗に引きづられるようにして陣の外へ連れ出された。
「広斗くん、広斗くん、ねえ、怒って、る?」
「あ? 別に怒ってねえよ」
「ほんと? ほんとに怒ってない?」
「ああ」
「よかった」
「腹が立ってるだけだ」
「それはあんまり変わらんやつ!」
 玉砂利の敷かれた境内に無造作に停められたバイクの前で立ち止まり、彼は珠夜にヘルメットを投げた。
「……あんま心配かけんな」
「え」
「帰るぞ」
「えっ、え、え。広斗くん、珠夜さんのこと心配してくれたの?」
「あ?」と、彼は苛立たしげに自分のバイクに跨った。「達磨のシマに連れられたなんて聞かされたら、また何かあったと思うだろうが。文句あんのか」
「文句、なんて、そんなそんな──えへ。そっかあ」
 破顔して鼻にかかった笑い声を上げる珠夜に広斗は顔を顰める。「何だよ、気持ち悪ぃな」
「えー。っへへ、広斗くんに心配されちゃったあ」
「訳わかんねえこと言ってねえで早く乗れ。俺は早く家に帰りてえんだよ」
「はーい!」
 二人乗り用のサドルによじ登り、彼女は広斗の服を掴む。「ねえねえ、広斗くん。あのね、珠夜さんはできることならずっと広斗くんの側にいたいよ?」
 無言でヘルメットを装着する後ろ姿に、彼女は構わず語りかけた。
「広斗くんが珠夜さんのこと嫌になっちゃうまではずーっと。だから、なるべく嫌になるのは先にとっておいてね? あ、そうだ。雅貴くんにも帰ったらそう言おー」
「……雅貴は余計だろ」
「ん? なんて?」
「何でもねえよ」
 広斗がエンジンをふかし、ジャケットの布地を掴む彼女の両手を引き寄せた。腰に回した腕をしっかり固め、彼は珠夜に声をかける。「振り落とされんじゃねえぞ」
「は、はーい!」
 じんわりとした体温に身を預けながら珠夜は思う。無口でクールで乱暴で、些かツンケンしている彼が自分を近くに置いてくれている。拒絶もせずに、ただ側に。この温かさを感じられるなら、言葉で表す肩書などすべて無意味なのではないか。
「広斗くん!!」
「あー?」
「大好きだよ!!!」
「──んなこと、とっくに知ってんだよ!」

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