「お前、ウチに来るか?」
 薄ら寒い高架橋の下で、その日、彼は拾われた。

 男の風貌から、その手の人間であることは容易に想像がついた。自分のようなやさぐれた餓鬼とは違う、身なりからもある程度、上の階級であることが窺える。施設を出てからというもの、その日暮らしの金を稼ぎ、喧嘩に明け暮れ、行く当てもなかった九十九にとって、差し伸べられた手を振り払う理由などないに等しかった。自分はいずれそんな道に進むのだろう。いつからかぼんやり思っていたことがとうとう現実になったのか、と。
「ここだ」
 琥珀と名乗った男が門を潜る。九十九は眉間に皺を寄せ、そのやけに立派な構えに目を向けた。今時、こんな典型的な屋敷に住む極道がいるのか。まるで映画だな。そう思いながらも、彼は石畳の上を歩く琥珀の後をついていった。
「若頭! お疲れ様です!」
 屋敷の中で幾人の男たちが彼の帰りに頭を下げる。彼らは見慣れぬ新参者の姿に戸惑うそぶりで顔を顰めた。見せもんじゃねえぞ、と九十九は内心舌打ちをする。
「あんた、頭だったのか」
 彼の問いかけに琥珀は「ん?」と、肩越しに視線をやった。「まあ、名目上はな。と言ってもそんな大したもんじゃねえよ。先代の気まぐれで、たまたま俺が選ばれただけだ」
 謙遜をしているような気がした。屈強で、一本筋の通ったような眼。近寄り難い雰囲気もありながら、人と壁を作らない度量を感じさせる。この男は、信頼に足る何かがある。これまで対峙してきたチンピラとはまるで違う漢の風格を、九十九は肌で感じ取っていた。

 奥へ、奥へと進む琥珀を前に、一体自分はどこに連れて行かれているのか、と頭を捻る。極道の通過儀礼など知らないが、先に何が待ち受けていようが構わない。そんな諦めに似た思いが彼の中にはあった。
 真っ当に神経をすり減らして生きたところで、自分のようなはみ出し者に世間の風当たりは冷たい。傍をよぎる光は手を伸ばすと同時にかき消され、そのたびに人生が喧嘩を売ってきているような気にさせられた。渦巻く苛立ちを周囲にぶつけてきた人間に幸せが待ち受けているとも思えない。売られた喧嘩は買ってやる。そう意気込んで生きてきた九十九には、およそ恐怖心と呼べるものが欠けていた。
 中庭に架けられた細長い渡り廊下を進み、表玄関から一番遠い離れへと辿り着く。
「お前に頼みたいことがあってな」
 閉じた障子の前で、琥珀が言った。何だ、と九十九は眉を潜める。口角を上げて戸を開き、敷居を跨いだ琥珀は部屋の中を見回した。
「珠夜? おーい、珠夜、どこ──お、何だそこにいたのか」
 年季の入った鏡台と本棚の隙間、その狭い空間の前に琥珀がしゃがみ込む。九十九は首を捻った。この男は一体、何に話しかけているのか。訝しげに部屋に上がって覗き込めば、その正体はすぐにもわかった。
 少女だ。いや、少女と呼ぶにもまだ早いような、年端もいかぬ幼児が膝を抱えて座っている。小さな身体をさらに丸めているせいで、少し大きめのぬいぐるみがぴたりと収まっているような印象を受けた。彼女は足元に絵本を広げ、黒々とした眼で琥珀をじ、と見上げていた。
「今日は一人にして悪かったな」と、彼は幼児の頭を撫でる。幼児は笑いも怖がりもせず、ただその手を受け入れた。
「お前に紹介したい奴がいるんだ」と、琥珀は背後を振り返り、九十九を指した。「あいつがこれからお前の面倒を見てくれる、九十九だ」
「は?」
 晴天の霹靂だった。
 少女は上目遣いの一瞥を寄こし、すぐにも視線を逸らして紅葉のような手で琥珀の服の裾を握った。唇が真一文字に結ばれる。
「おい、どういうことだよ」
 眉間に皺を寄せ、畳を踏み鳴らすように近づけば、幼児がびくりと身体を震わせた。
「おい、あんまコイツを怖がらせるな。珠夜、悪いがちょっと待っててくれ」

「聞いてねえぞ」
「だから今言ってんだろうが」
 渡り廊下で不機嫌に睨むように九十九は言葉を吐き捨てた。
「餓鬼の子守りさせるために俺を拾ったのかよ」
「ただの餓鬼じゃねえ。先代の忘れ形見だ」腕を組み、琥珀が厳しい顔をする。「珠夜は少し、他の奴らと違ってな。組の連中の手に余る。あいつの親が死んでしばらく経つが、その間ずっと適任者を探してたんだ」
「……それが何で俺なんだよ」
「ん? まあ、勘だな」
 溌剌たる笑みを浮かべる琥珀に反して、九十九は戸惑いの混じる渋い顔をした。
「騙し討ちみたい真似しやがって」
「あそこで事情を話したら、ここまで大人しく着いて来たか?」
 九十九は小さく舌打ちをし、目を逸らした。
「黙っていたことは悪かった。でも、お前がウチの組に相応しいと思ったことは本当だ。そこに嘘はねえ。アイツは、俺にとっても大事な餓鬼なんだよ。だからこそ信頼できる奴に任せてえ」
 ひとつ、頼まれてくれないか。そう告げる彼の眼が真剣で、九十九はいつになく狼狽した。
 面倒だとは思えども、ここにいる限り衣食住は保証される。鉄砲玉のような命を削る仕事を押し付けられたわけでもない。ここで嫌だと断って、あの生活に戻ったところで一体何が残る。苛立ちに合わせて揺れる秤が、ぐしゃりと音を立てて崩れた。もう、どうにでもなれ。
「わかったよ」

 大人二人で過ごすには少し広い、しかし三人では少し手狭なその一室で、九十九は彼らと共に夕食をとった。これから幼児の世話をさせようかという男に「祝い酒だ」と、盃を差し出す琥珀もどうかと思ったが、こんなもの一杯や二杯飲まないとやっていられない。
 珠夜と呼ばれた少女は、黙って時折様子を伺っては、九十九が視線をやった瞬間に秒速で目を逸らす、というのを繰り返していた。イライラする。よっぽど煙草を吸ってやろうかと思ったが、なんとなしに気が引けて、彼はそのモヤを無理矢理酒に薄めて流し込んだ。
 大雑把な身の上や世間話を琥珀と交わしていると、程なく女中がやってきて、二組の布団を手早く敷いてまた出て行った。大人サイズの真隣にちょこん、と並べられたキャラクター柄の寝具を前にして、九十九は自分の顔が引き攣るのを感じた。琥珀が含み笑いをしている。吹き出すのを必死に堪えている、といった具合だ。九十九は大きく舌打ちを飛ばした。
「じゃあ、まあ、俺は部屋に戻るとするか」
「おい、冗談だろ」
「心配すんな。何も寝かしつけろ、とまでは言わねえよ。ただ珠夜が怖がらねえように、傍にいてやって欲しいだけだ」
 九十九は名前の上がった件の少女の姿を見た。捨てられそうな子犬のような目で琥珀のことを見つめている──既に怖がっているではないか。
 彼は「大丈夫だ」と、根拠薄弱な励ましを子犬に送り、「何かあったら呼べよ」と、九十九に言葉を残して去っていった。
 沈黙が辺りを包む。
 ぺたり、と畳に座っていた珠夜が立ち上がり、先ほどまで収まっていた隙間にその身を捻じ込んだ。彼女の定位置なのだろうか。新しく開いた絵本を熱心に覗き込み、顔を上げなくなった様子を見つめ、九十九はため息を吐いて部屋の外に出た。
 一挙手一投足、身動きするたびに緊張したように身体を強張らせられたのでは、こちらもたまったものではない。適当に屋敷の中を見て周り、九十九は縁側で一服した。安い煙草の味が舌に広がり、細く伸びる煙が宵闇に消える。何となしにその先へと目をやれば、霞んだ月光が雲間から零れ出しているのが見えた。
 吸い殻を庭先に放って、部屋へ戻る。
 障子の引き戸を開けば、煌々と蛍光灯がつく中、珠夜が自身の布団の上で丸まるようにして眠っていた。睡魔の限界がきたのだろう。その手は、未だ絵本の両端を握りしめていた。九十九はその姿を見つめ、ライトのスイッチを探して明かりを消した。自分用に敷かれた布団の上へ寝転がると、隣から規則正しい寝息が微かに聞こえてきた。横目でちらりと一瞥し、片手で毛布を引っ張って雑に掛けてやる。
 全くもって静かな夜だ。九十九は久しぶりに得たまともな環境の中で目を閉じ、眠りについた。



 視線を感じる。本能が知らせる不快感に九十九は眉根を寄せた。外からやかましいスズメの囀りが聞こえてくる。もう、朝か。
 薄く瞼を開けば、傍でこちらを覗き込む大きな黒い目玉が見えた。打ち上げられたガリバーを警戒する小人よろしく、熱心に様子を伺っている。
「……なんだよ」
 寝起きの掠れた声で告げれば、彼女は飛び上がるようにして例の隙間へ逃げ込んでいった。
 気怠そうに身を起こし、大きな欠伸をしながら九十九は頭を掻いた。そうだった。今日からは子守が待ち受けているのだった。面倒くせえ、と彼は再びぴたりと閉じそうな瞼を強く擦った。

 珠夜は放っておくと絵本ばかりを眺めている少女だった。子どもというのは何がなくても外を駆けずり回っているものだと思っていた九十九にとって、彼女は理解しがたい存在だった。外はこんなにも青空が広がっているというのに、何を好き好んでこんな薄暗い部屋に引きこもっているのだろうか。気味が悪い。
 言葉も通じず泣き喚かれるより都合はいいが、これが続いては息が詰まる。壁にもたれてぼんやり座っていた九十九が立ち上がると、彼女はまたものも言わずに目を向けた。視線が追ってくるのを感じながら、彼は部屋の外に出て廊下を渡っていった。
「おい、どこ行くんだよ」
 気晴らしに出かけようとしたところ、琥珀に声をかけられた。
「別に決めてねえけど。外行くくらいいいだろ」
「それは構わねえが、行くなら月読も連れてけよ。なに一人置いてってんだ」
 ……面倒くせえ。
 目を離すなよ、無理をさせるな、変わったことがあったら守れ、と再三受けた忠告に適当に頷いて、彼は部屋へと戻った。乱暴に障子を開け、「外行くぞ」と告げれば、彼女は目を見開いてぽかんと小さな口を開けた。

 もたもたとズックを履く珠夜を腕を組みながら見下ろす。日除けに、と被った帽子のせいで、この角度から見ると身体の半分以上が隠れてみえた。すとん、と彼女にとっては段差のある玄関に降り立って、珠夜は彼を見上げた。
「履けたかよ」
 こく、と頷いた彼女は、そっと両腕を伸ばしてきた。まるで「抱っこ」とでも言うように。
「あ? 甘えてんじゃねえよ」
 彼女は少し驚いた様子で、戸惑いながら九十九の後ろをついてきた。おそらくはお嬢だなんだと今までちやほやされてきたのだろう。そうはいくか、と彼は鼻を鳴らして、眩しい太陽に顔を顰めながら歩みを進めた。

 近くの公園のベンチに腰かけ、ぼんやりと風の流れを感じて空を見やる。程よく熱を覚ますようなひんやりとした温度が心地よい。九十九は手にした缶コーラを流し込みながら、遠くの砂場で一人きりで遊んでいる珠夜に目を向けた。何やら一生懸命土を掘り返し、石や葉を集めて何かを作っている。おそらくは彼女なりの設計図があるのだろうが、独創的すぎるそのフォルムでは何を作りたいのかさっぱりわからなかった。
「──おい! もう帰んぞ!」
 気分転換にはなった、と缶を捨てて砂場へ近づく。制作途中の何かと九十九の顔を交互に見やり、名残惜しそうな顔をする珠夜に「なに作ったんだよ」と問えば、彼女は二、三度瞬きをして小さく首を捻った。
「……ま、いいわ。おら、行くぞ」
 踵を返そうとした九十九の目の端に、またも両手を上げる珠夜の姿が映った。「だから、甘えんなって」
 彼女は少しの間動きを止め、やがて不安そうに彼の後ろをついてきた。
 早足で、時に小走りになりながら、珠夜は歩幅の違う九十九に必死で追いつこうとする。息を切らし、頬を上気させ、ふらふらとなりながらも一行は屋敷の門まで辿り着いた。
「おー、帰ったか」
「おう」
 石畳を渡って無造作に玄関の扉を開ければ、居間から出てきた琥珀がちょうど廊下を通りかかった。珠夜の砂まみれの両手を映し、彼は笑みを浮かべて「楽しかったか?」と自分の手のひらほどの大きさしかない頭を撫でた。
 ──その時だった。
 ゆらり、と小さな身体がくず折れ、珠夜が床に倒れ伏した。固く目を閉じ、眉間に小さく皺を寄せ、不規則な呼吸で、微かに呻く声まで聞こえてくる。
「珠夜!」と、琥珀が声を荒げた。「珠夜! 大丈夫かっ? おい、九十九お前何しやがった」
「な、何もしてねえよ」
 しかし、目の前には苦しげな息をした幼児がいた。突然の出来事に彼は目を白黒とさせ、素早い動作で彼女を抱え、部屋へと運ぶ琥珀の背中を戸惑い追った。

「こいつは身体が弱ぇから無理させんな、ってあれほど言っただろ」
 離れで胡座をかきながら、九十九は静かに背を丸めた。そういえば、そんなことを言われたような気がする。正直、ほとんど覚えていない。そもそも聞いてもいなかった。
 彼らの前には、布団に横になり、静かに寝息を立てている珠夜の姿があった。容態は、今は落ち着いている。
「まあ、今回は深く説明しなかった俺にも否はある。でも、これでよくわかったろ。次、同じことをやったら、お前……殺すぞ」
 組員に呼び出された琥珀がその場を去り、九十九は珠夜を見下ろした。青白いその顔を見つめていると、流石に罪悪感が募ってくる。
「……悪ぃ」と、俯きながら呟けば、「──いーよお」
 か細い声に驚いて顔を上げれば、いつの間にか緩く瞼を開いた珠夜がぼんやりと九十九に目を向けていた。初めて聞いた彼女の音は、思ったよりもずっと子どもらしいものだった。
 喉につかえた唾を飲み込んで、軽く頭を撫でてやる。目を細めた彼女は桜色の唇に薄く弧を描き、彼の袖口をぎゅ、と握った。川べりに転がった石ころほどの大きさしかない拳を弱い力で包んでやれば、程なくして彼女は安心したようにまた寝息を立てだした。

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