「散歩行くぞー」
 昼飯を終えて号令をかければ、珠夜はぴん、と背筋を伸ばして、いそいそと準備を始めた。琥珀によると、九十九が来てからというもの彼女が外に出る回数が格段に増えたらしい。出不精を絵に描いたような彼女の変わりように「すげえじゃないか」と褒められはしたものの、何がすげえのかがいまいちわからず、九十九は内心眉を顰めた。しかし、幾分気分はいい。なので、言葉だけは頂戴しておくことにした。
「どこか行きてえとこあるか」
「んー。ないっ」
「そうかよ」
 いつ訊いても答えは同じだ。彼女はあくまで九十九と過ごす時間に重きを置いているに過ぎない。公園に寄って、駄菓子屋へ行って、久しぶりにバイク屋へ、後は適当でいいか、と道筋を頭に描いていると、門のところで肩がぶつかった。すれ違い様に舌打ちをして後方を睨めば、いつぞやの態度の悪い組員だ。
「おー、新入り。お嬢と仲良くお散歩かぁ?」
「だったら何だよ」
「いやぁ、大したものだと思ってよ。すぐに尻尾巻いて逃げるのがオチだと思ってたが、存外長く居座ってっから驚いてるところだ。テメェは運がいい。子守りも板についてんじゃねぇか。こんな家業に身を置くよりベビーシッターのがお似合いだぜ。あー、でもそのツラじゃ、どこも雇っちゃくれねぇか」
 相変わらずよく喋る口だ、と九十九は怠そうに顔を顰め、珠夜を促し踵を返そうとした。
「おい、待てよ」男が肩を掴み、引き寄せる。「あんまり舐めた態度とってっと、足元救われちまうぞ?」
「生憎、舐めていい奴と悪い奴はこっちで選んでんだよ」
 温度のない目で見下せば、男は怒りに引き攣った顔で奥歯を噛み締め、掴んでいた手を乱暴に離した。
「忠告はしてやったからな」
 大股に去っていく背中を見やり、何だあいつ、と貧乏ゆすりでもしたい気持ちでいれば、こちらを見上げる珠夜と目が合った。
「……行くか」

 さらさら、と水のせせらぎが聞こえる川べりを歩く。珠夜は先ほど公園で摘んだタンポポの綿毛を握り締めながら、鼻歌を歌う勢いでスキップしていた。どうやら、風に舞う種を見るのが気に入ったらしい。
「おい、危ねえだろ端寄るな」
 古びた橋へと差し掛かり、錆びた欄干の隙間から落っこちやしないか、とヒヤリとする九十九をよそに、何がそんなに楽しいのか、彼女は幸せそうに顔を綻ばせて後ろを振り向いた。その笑みにつられ、表情を緩めそうになったその瞬間──姿が消えた。
 足を滑らせたわけではない。九十九は、荒々しい男の手が珠夜の身体を掴む様をはっきりと見た。電柱とフェンスの死角。影となった場所に、男が身を潜ませていた。
「っおい!」
 掴み損ねた手が空を切り、視界には突然の出来事に顔を強張らせる珠夜の姿が映った。エンジン音と耳障りなブレーキの音が道路側で聞こえ、激しくバンのドアが開く音が続く。数人の男たちの足音が反響し、九十九は向かってきた二人の男の胸ぐらを掴んで頬と鼻面に拳を浴びせかけた。よろめいた彼らの胸板と顎を靴底で蹴り倒し、先を進む。前方には、今にも車内に押し込まれそうな珠夜の姿があった。
 小脇に彼女を抱えた男が九十九に気づき、ポケットから小型のナイフを引き抜いた。その腕が振り下ろされる直前に蹴りを入れた九十九は、体勢を崩したその手から珠夜を奪い取り、距離をとった。声をかける暇もなく、別の輩が襲いかかる。攻撃の手を緩める気配はない。
 九十九は路の脇に珠夜を降ろし、数人の男たちと力任せの攻防戦を繰り広げた。
 人一人を守りながら闘うというのは、こんなにも厄介なことなのか。
 独りで自由に暴れていたときとは訳が違う。己のプライドやメンツのためではなく、絶対に折れてはならない理由がある。頬に相手の拳が入り、揺れる脳内を立て直しながら九十九は己を奮い立たせた。
 男の一人が強い力で彼を押さえつける。珠夜に伸びる魔の手の盾となるように、彼は敵を振り払い、彼女を腕に閉じ込めた。容赦なく背中に振り下ろされる靴底が、焼けるような痛みを幾度ももたらす。奥歯を噛み締め耐え忍ぶにも限界が見え始めたとき、彼は、断末魔のような叫び声を聞いた。
 眉を顰めて後ろを振り返れば、男の一人が腕を押さえ、別の者が首を押さえ、苦しみに悶えていた。その手には紅く血が滴っている。
「この、この餓鬼っ」
 九十九は珠夜を振り返った。息が止まる。彼女は虚な眼で、男たちを見つめていた。その手には、一体いつ奪ったのか、男が手にしていたナイフを握っている。冷たい刃先がどろりとした液体に濡れ、不気味に光を放っていた。
「ふふっ」
 愛おしそうに紅を眺めながら、幼い少女が声を殺して笑う。やがては自制が効かなくなったように狂ったような嗤い声を上げる様に、男たちは怯んで後退を始めた。
 それでも命があるのだろう。勇気をもって一歩踏み出した男は、すぐに後悔することとなった。ダーツの矢のようにナイフが空を切る。相手の腹目掛けて一直線に飛んでいった刃は、鋭く肉を抉り、彼らは弱腰の叫びをあげて、一目散にバンへ乗り込み、退散していった。
 力の抜けた身体を引きづり、ガードレールに凭れかかる。乱れた息を整え、戸惑いを落ち着かせようとする九十九の耳に、金属が跳ね返るような音が届いた。傍へ寄り、心配そうにこちらを覗き込む珠夜の頭を雑に撫でてやる。
 小さな手のひらが彼の頬に触れた。血の滲む唇に指を這わせ、彼女はそっと、その紅を舌で舐めとった。目を瞠り、彼女の顔を見やる。熱に浮かされたような眼。澱みの中に光る飢えた獣のような何かを見つけ、九十九は深く息を吐いて空を見上げた。
 隠し事とは、これだったか……
 強い風が吹き抜け、彼らの頭上にタンポポの綿毛が舞った。



「もう、決めたんだな」
「ああ」
 琥珀の部屋を後にして、廊下を進む。肩に巻かれた包帯に動きづらさを感じながら、彼は屋敷の奥、珠夜の待つ離れへと向かった。
 障子の隙間からは、闇が零れ出していた。しん、と静まり返った部屋からは人の気配を感じない。しかし、そこに彼女がいることはもうわかっていた。ゆっくりと戸を開ければ、とうに陽も落ちたというのに電灯の明かりもつかない灰色の空間が広がっていた。壁に手を這わせ、探し当てたスイッチを押す。ぼんやりと浮かび上がる影絵のような室内を九十九は一瞬にして光で満たした。
「またそんなとこいんのか」
 出会ったときと同じ暗がりに珠夜は身を潜めていた。膝を抱え、殊更丸くなっている姿は今まで一番小さく見える。打撲の痛みに顔を歪めながら、九十九は彼女の近くに腰を下ろした。
「もう飯時だぞ。腹減らねえのか。さっさと食堂行こうぜ」
 黙り込む珠夜から返事はない。
 九十九は横目で一瞥した。震えている。どうしようもない恐怖と孤独が、内側から染み出しているように見えた。
 珠夜はおそらく、すべてを悟っている。自分が人とは違うこと。この世界では受け入れ難い、危険を孕んでいるということを。だから彼女は、意識的に人を避けている。おそらく人と関わることは、彼女の中で恐れられることと同義なのだろう。
 人を傷つける者が、何も傷つかないわけじゃない。普通という枠の中で、己の異端さに気づき、なおかつ常人と同じような優しさを持つなら尚更だ。
「……心配しなくても俺はどこにもいかねえよ」
 珠夜が微かに顔を上げた。
「俺のためにしたんだろ」と、九十九は彼女に目を向ける。「違うのかよ」
 ゆっくり彼を見上げた珠夜が顔を歪めた。今にも大声で泣き出しそうな、苦痛な想いを堪えるような、そんな酷い顔だった。
「さっきはお前に助けられた。まあ、ありがとな」
「──きらいじゃない?」
 ひどくか細い声がした。
「あ?」
「きらいに、ならない?」
「……ならねえよ」
 ぐしゃ、と更に表情が崩れる。
「ずっと、いっしょに、いてくれる?」
「今更だろ」と、九十九は呟く。「お前といれんのは、俺しかいねえだろ」
 飛び出すようにしがみついてきた身体を片腕で抱きとめる。嗚咽混じりに泣く声が、両目から溢れる涙が、胸を締め付け、それでいて安堵感をもたらした。
 どこにも居場所などなかった自分を求めてくれる存在がいる。こんなに小さく熱い命が懸命に手を伸ばしている。それだけで、九十九は生きることを許されたような気持ちになった。お前はここにいてもいいと、いてくれなければ困るのだ、と。そんな都合のいい解釈で、多くが報われた気分になった。
 珠夜の背をあやすように叩きながら、彼は琥珀との会話を思い出す──



「お前らをやった奴らの目星は付いてある。後はこっちに任せとけ」
「ああ……」
「珠夜のことだが」と、琥珀は言いにくそうに眉を顰めた。「もう、気づいただろ」
「まあ、どうしたって普通とは言えねえな」
「ああ……あいつには、人とは違うトリガーがある。それが生まれつきのもんなのか、この世界で育つうちに染みついちまったものなのかはわからねえ。何にせよ、あのまま放っておくにはあまりに危険だ。血に魅入られた幼い獣を放つのは、アイツのためにもならねえ。傍で見守るパートナーが必要だった。だが、組の連中はアイツの正体を知ったが最後、ビビっちまって話にならねえ」
「それで俺を拾ったってわけか」
 琥珀は自嘲するような笑みをひとつ浮かべた。
「情けねえ話だけどな」と、彼の表情が真剣なものへと変わる。「俺は、珠夜を縛りたくねえんだ。この先、アイツがどんな道に進みてえと思ったとしても、その場所への後押しをしてやりてえ。自由に、人生を選んでいって欲しいんだ。それが俺のダチとの──先代との、約束でもあるからな」
 そうかよ、と九十九はぼんやり宙を眺めた。
「俺は、お前を縛るつもりもねえよ」と、琥珀は言う。「元々半分、騙すような真似をしちまった。フェアじゃねえことは百も承知だ。アイツに付く任を解きてえ、と言うならそれでもいい。そうなったとしても、ここから追い出しもしねえし恨みもしねえよ」
 タバコの煙が室内を流れるのを九十九は何となしに目で追った。苦い空気で肺を満たして、深くゆるりと息を吐く。
「……俺がいねえと、あいつは独りになんだろ」
 琥珀が真っ直ぐ九十九を見つめた。畳に置いた灰皿に火種を押し付け、彼は姿勢を正す。
「拾ってもらった恩はいずれ返すつもりだ。けど、それ抜きにしても、もう任とかそういう類いの話じゃねんだよ」
 重い身体を持ち上げて、背後の障子に手をかける。珠夜の待つ部屋へ向かうため、九十九はその戸を開けた。
 遠くに、薄暗く、未だ光が灯らぬ離れが見える。
「──明かり、点けに行ってやんねえとな」

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