音を立てぬように窓を開け、サンダルを履く。手にしたマッチを擦り、ベランダにある室外機の上に置かれた蚊取り線香に火を点けた。軽く手を振って炎を消せば、木片の焦げる匂いと独特の苦味のある香りが辺りに漂ってくる。一時の安心感を纏いながら私はフェンスに手をかけ、深い藍色の広がる空を見上げた。
 すっかり夜も更けたというのに、一向に眠れない。こんなことは今に始まったことではないが、シーツの上で静かに寝返りを打つのも飽き飽きしてきた。思考の止む兆しがない身体を起こし、ベッドから抜け出して、夜の空気を吸いにきた。
 首を伸ばし、ゆっくりと流れる雲と金色に輝く三日月や星々を見やる。汗ばんだ肌を撫ぜる夜風は心地が良い。遠くから電車の音が響き、私は耳を澄ませながら目を細めた。空の端に薄らと伸びる飛行機雲が、まるで銀河鉄道が走り行くレールのようで、穏やかなときめきに鼓動が高鳴る。
 しん、とした暗がりの中、ひとり静かに目を閉じた。
「……どこ行ったかと思ったわ」
 背後から聞こえた低く掠れた声に振り向けば、眉間に深く皺を寄せ、目を半分ほど開けた寝ぼけ眼の九十九さんが立っていた。
「ねむれねえのか」サンダルを履きつつ隣に並び、舌っ足らずに彼は言う。
「まあ、はい、ちょっと」
「起こせよ」
「よくお休みになっていたら悪いと思って。でも、結局起こしちゃいましたね。すいません」
 大欠伸をする彼を尻目に眉根が下がる。
 寄りかかるようにフェンスに腕を乗せた九十九さんが「気にすんな」と、粗雑に私の頭を撫でた。
「晴れてんな」
「ですね。空が澄んでいるから、今日は星が沢山見えますよ」
 視界に広がる景色を二人でぼんやり眺めていると、南から吹いたぬるい風に押され、白く濁った線香の煙がふわりと目の前に漂った。何の気なしに隣を見れば、靄を纏う九十九さん。ふと、脳裏に重なるものがあり、私は小さく首を捻った。
 ああ、とすぐに合点がいく──煙草だ。
 紫煙を吐き出す彼の絵が浮かび、思わず口の端が上がってしまう。苦みのあるあの匂いはどうにも好きにはなれないが、寡黙に煙を燻らせる彼の姿は案外好きだったりする。想いに気づいてまだ間もない、側に寄ることすら憚られた頃、何気なさを装って遠巻きにその姿を見つめていたことは、今となっては気恥ずかしい思い出だ。
 ふと、そこで新たな疑問が湧いた。
「そういえば……」
「ん?」
「ぁ、いや」独り言の呟きに反応され、ほんの少しだけ狼狽る。「あの、そういえば、最近あまり煙草吸わなくなったなあ、と」
 何故だろう、という思いのままに小さく頭を傾げれば、九十九さんは少し目を丸くして、どこか居心地悪そうにこちらに向けた視線を逸らした。言葉を濁すようにして手持ち無沙汰に指を動かす様に、どうしたのだろう、と眉根が寄る。
「……お前、嫌いだろ」
 ぽつり、彼が言葉を零した。
 え、と目を見開けば、ちらりとこちらを一瞥する不器用な眼と目が合った。
「苦手だ、っつってたじゃねえかよ」
「ぇ、なん、ぁ、私の、ため?」
 隠せぬ驚きを言葉にすれば、ついには顔を逸らされた。
「気、遣ってくれてたんですか」
「別に、んな大層なもんじゃねえよ」
 俯き加減に背中を丸める彼の姿に、胸の中心がとくり、と疼く。
 気まぐれに、いや魔が差して、一歩一歩にじり寄るように距離をつめ、そっと寄りかかってみた。相変わらずの高い体温が腕に伝わり、下手な緊張と、相反する安心感に鼓動が速まる。顔を上げることができず、私は視界のはるか下、歩道脇に植えられた街路樹に目を向けた。じわり、汗が滲む。
 不意に肩に手を回されてよろめいて、私は瞬間身を固くした。
 ──慣れない。慣れない。ああ、慣れないなあ、と目を閉じる。甘やかな空気も、誰かに守られることも、自分とは相容れない世界の話だと思っていた。頭脳よりも感情、知識よりも行動、温厚さよりも質実剛健。初めは彼のことだって、苦手だと思っていた、はずなのに。
 身体に体重をかけたところでびくともしない。長い間、一人で生きてきた故の逞しさ。支えたいと、思っているのに、私はいつも、支えられているばかりだ。沢山もらった煌めきの、お返しが、したい、のに。
 緩やかに規則正しくなってきた自分の呼吸に気がついて、眠気がやってきたことを悟った。瞼が、重い。
「つくもさん」
「ん?」
「……暑いっす」
 何だよ! そう言って、彼は私から手を離した。苦笑と不服が入り混じった、何とも言えない表情。拗ねたような反応に思わず笑いが零れた。
「眠ぃか」
 顔つきでわかったのだろうか。打って変わった落ち着いた声の問いかけに、私はひとつ頷いた。
「寝るか」
 もう一度、首を縦に振る。
 窓を開け、部屋へと戻る九十九さんを横目にしながら最後に空を見上げれば、いつの間にやら三日月には薄く雲がかかり、朧げに地上を照らしていた。その光と絡み合うようにして、絶えず風の形を描きながら辺りを漂っていた煙が真っ直ぐ空へと昇っていく。どこか美しくもあるその情景を、私はしばし眺めていた。
「おーい」と、部屋から低い声が呼ぶ。「来ねえのかよ」
「今行きます」
 窓とカーテンを閉め、廊下で立ち止まっていた彼の元へと駆け出した。
「……一緒に寝るか」
「あ、大丈夫です」
「何でだよっ」

 常識も、苦手意識も、すべてを壊して変えられた心の行き先はわかっている。安堵感を与えてくれる頼もしい人。彼がいてくれるなら、暗闇さえも怖くない。身を預けられる場所。その確かさの傍らで、私は明日も目を覚ます。

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