粘着質なものを踏み締める音が鼓膜を揺らす。何度も、何度も、何度も何度も。そのうち右脚の太腿が悲鳴を上げ、女は荒い息のまま動きを止めた。汗で貼りついた長い前髪をかき上げる。
 目の前のコンクリートの壁には赤い飛沫が飛び散っていた。靴底から赤黒いものが糸を引く。足元に転がる虫の息の男を目に映し、す、と溜飲が下がった。口から嗤い声が零れる。
 道に付いた赤い靴跡を踏み消し、取りきれぬ血を砂利で拭っていると、微かな呻き声と共に男が手を伸ばした。足首を掠めた指を冷たい眼が見下ろす。路地裏に舌打ちが響いた。
「……触んな」
 肉の潰れる音がした。

「あ、すみません。救急車をお願いします。はい。男性が道で倒れていて──」
 救急隊に住所を告げ、通話ボタンを切る。何事もなかったように、女はその場を後にした。
 昔から、抑えきれない衝動があった。物心がついた頃から「お前はおかしい」「異常だ」と、周囲の者は口を揃えてそう言った。彼女自身、人知れず生き辛さを感じていた。自分は生まれながらの欠陥品。気づくのに、そう時間はかからなかった。己をコントロールする術を学び、理想的な「普通」の像を、頭に、身体に刻み込む。
 目立たぬように、埋もれるように、影を殺すように生きる。それは苦痛を伴ったが、「一般人」に溶けこむためには必要不可欠なことだった。しかし稀に、そのタガが外れてしまうことがあった。獣を鎮め、息を潜めて動く仕草を、従順で大人しいと勘違いする輩がこの世には一定数存在する。厳重に締めた錠を無理矢理こじ開けようとする能無し共。何のための鍵なのか、そんなことは考えもしないのだろう。広がる闇と交わって、薄ら残されていた影は跡形もなく消える──

 ゆらり、路を歩いていた女の脳が揺れた。フェンスに手をつき、立ち止まる。視界が白い。気持ちが悪い。胃がむかむかする。込み上げてくる生唾を飲み込み、彼女は鳩尾を押さえた。まずい。これは、だめだ。堪えきれず、膝をつく。
 呼吸を止めて、腹を動かさぬよう細く息を吸う。なんとかこの場をやり過ごそうと身体を丸める女の背に、荒っぽい手のひらが触れた。「いきなり派手に動くからだろ」
 びく、と身体を強張らせた彼女は、しかし低音の聞き慣れた声に反応し、すぐにも筋肉を緩めた。「九十九……」
「酒飲んで間もなく暴れてんじゃねえよ。自分の体考えろ」
「お前、どっから見てた」
「あ? 仕事終わって飲みに行って上司ボコって?」
「全部じゃねえか」と、彼女は眉を潜める。「私にプライベートはねえのかよ」
「行動にケチつけられねえだけ良いと思えよ。充分自由満喫できてんだろ」
「少なくとも、満喫はできてないけどな。見てたなら止めてくれてもよかったんじゃないの?」
「あ? 一般人の前で声かけてよかったのかよ──お嬢」
「その呼び方やめろ」
 力の弱った上半身を折り、女は鋭い視線を投げかける。
「……なんか、お前見てたら気持ち悪くなってきた」
「あ?」
「吐く」
「あァ?」
 心外だとばかりに機嫌を損ねた男を尻目に、違うんだ、と彼女は心で呟いた。
 ほっとしたのだ。安堵したのだ。それゆえ、すべての力が抜けた。

 どこかで貰ったポケットティッシュを取り出して、口を拭ってしゃがみ込む。膝に重ねた片腕がだらりと落ちた。
「楽になったかよ」
「まあ、少し……」
「歩けるか」
「もうちょい、待って」
 声を出すのもしんどいとばかりに切れ切れに話す彼女を見かねてか、九十九は深く息を吐き、すぐ目の前にしゃがみ込んだ。その姿はまるで──
「乗れ」
「は?」
「乗れって」
「馬鹿なのか」
 おぶってやるという仕草に、心底呆れた顔を返す。この男は一体自分を幾つだと思っているのか。
「嫌だよ恥ずかしい馬鹿じゃねえのもうすぐ歩けます帰れます子供扱いすんな」
「お前が帰らねえと俺が帰れねえだろうが」
 手間取らせんな、と文句を言われてしまえば、強く跳ね返すこともできない。渋々と言った表情で彼女は首に手を回した。立ち上がった視線から見える景色が思いの外高く、思わず腕に力が込もる。
「おい、動くなって」
「悪い」
 しょうがないか、と上半身を委ね、襟元に頬を寄せて、目を閉じる。心地よいリズムに揺られていると、ふと、幼い頃の記憶が蘇った。
 無限にも思える広い背中。その弊害は、小さな体では肩にすら手が届かないということだった。落ちないように、振り落とされないように強く服を掴んでは、理不尽にも怒鳴られていたことを思い出す。
 成長し、一端の大人になったつもりの今も、彼の背中は未だに大きい。この染みついた感覚は、一生変わることはないのだろう、と彼女は微かに口の端を上げた。
「お前」自宅へ帰る道すがら、九十九が呟くように声をかけた。「もう、こっちへ戻るつもりはねえのかよ」
 意図せず一笑してしまう。「戻れるわけがないだろ。何のために危険承知で逃げ出したと思ってる。日陰に生きる連中にすら異端扱いされたんだぞ。あの場所に身を浸しても、利用されるか、消されるか……どのみち碌な未来が見えねえよ」
「……今が真っ当だって言えんのかよ」諭すような声がした。
「お前、嫌なこと言うね」
 ため息にも似た空気を吐き出す。ゆっくり、前を流れる景色がぼんやりと視界に映る。「私はさ、普通になりたいだけなんだ。昔から、ただそれだけなんだよ」
 まあ、何が普通かはわからないけどな。乾いた笑みを零し、背伸びするように身を反らせば「危ねえって」と、また叱られた。何だか、子供に戻った気分だ。
「お前がただの家に生まれてりゃ、一生関わることもなかっただろうな」
 ぽつり、言われた九十九の言葉に「確かに」とひとつ肯いた。
「そしたらお前も、煩わしい子守をする必要もなかった、ってことか」からかい混じりに彼女は言う。「残念かよ?」
「……そうでもねえよ」
 虫の音が響く。そよ風が木々を揺らす。遠くからは、電車の走る音が聞こえた。
「なあ、九十九」
「ん?」
「ひとつ、我がまま言ってもいい?」
「何だよ」
 心音に耳を澄ませて目を閉じる。「もう少しでいいんだ。あと少しでいいから……このまま私の側に居て」
「……そんなん、今更だろ」

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