「まだ食べます?」
 お皿から消えていくお餅を見ながら、彼に尋ねた。大きな身体を丸めながら狭いコタツに入り、九十九さんは黙々と用意した朝食を平らげていく。録画しておいた紅白をぼんやりと眺めながら、彼は「いや、いいわ」と小さく首を振った。
 年末年始の過ごし方もだいぶ変わったものだなあ、と思う。昔は、家の掃除を完璧に終わらせ、大晦日は大晦日らしく! 正月は正月らしく! ということにこだわっていたように思う。でも今は、生活感しかないこじんまりとした家の中で、ただのんびりと時間を過ごしている。
 昨夜の私たちはイトカンに遊びに行って、山王連合や苺美瑠狂のみんなに混じって、ナオミちゃんや琥珀さんたちと一緒に年を越した。騒がしいところは得意じゃないけれど、知り合いがはしゃぐ姿を見ながら迎える新年は案外楽しいものなのだなあ、と初めて知った。毎年家族と年を越し、静かに新年の挨拶をするだけだった私にとって、その時間はとても新鮮なものだった。
 大切な人へ「明けましておめでとうございます」と一番に言える。返ってきた言葉は「ああ」だったけれど「今年もよろしくお願いします」の返事は「おう」だったけれど、何だかそれも彼らしくて、ただただ嬉しくなった。
 はしゃぎ疲れ、酔い潰れた面々をカウンター越しに眺めながらナオミちゃんと後片付けをしていると、今日は何だか特別な日だ、という感覚がふつふつと心の中に染み渡っていった。

 ぼたん雪の舞う道を行く。千鳥足の九十九さんを微力ながらも支えて家路を急ぐ。空を見上げ、この冷たい風も、頬に落ちる雪片も、それらが重なり宵闇に浮かぶ絵画も、すべてがこの先思い出になるのだろうな、とふと思った。うっすら顔を赤くした、アルコールの強い香りを漂わせるこの人の体温ですら、きっと私は未来のどこかで思い出す。ふわり、温かなベールをかけられたように、心が確かな熱をもった。



 窓の外では昨夜から絶えず形を変えて雪が降り注ぎ、遠くからは除夜の鐘が聞こえていた。そういえば、昔は近所のお寺が百八つの鐘を鳴らしていたものだけど、いつしかそれも聞こえなくなっていったなあ。近所迷惑だ、とクレームでも入ったのだろうか。風情と快適さは往々にして反発し合う。落とし所が難しいな、と私は砂糖醤油に浸したあべかわ餅を飲み込んだ。
「そういえば、初詣いつ行きます?」
「……は?」
「え。いや、初詣」
 呆けた目を向けられて戸惑った。何か変なことでも言っただろうか、と不安になる。あ、あれか? 今年は自粛した方がいいだろう、的な。
「はつ、もうで」
「初詣。あ、九十九さん人混み苦手ですか? でも、言っても今年はそこまで混まないと思うんですよ。経験上、夕方行ったら比較的空いてますし。まあ、ちょっと寒いんですけどね」
 お茶を飲みつつ彼を見やれば、何やら意味なく指を動かす姿が目に入った。何か居た堪れない思いがあるときに無意識に出る癖だということは、長い付き合いからもうわかっている。唇を少し曲げて、そっぽを向く彼を覗き込んだ。
「九十九、さん?」
「この辺、寺とかあったのか」
「え。ありますよ。裏手の方に、お寺と山王神社が。山切り崩したところにあるから、階段ある程度登りますけど」
「へえ」
「……さっきから鳴ってる除夜の鐘どこから聞こえてると思ってたんですか。ホラーですよ、なかったら、むしろ」
 そんなもの気にしたこともない、と少々むくれてしまった九十九さんに、それもそうか、と軽く謝る。「たぶんあの神社元々山王信仰の場所だと思うので、たぶんここの地名もそこからきてると思──え、ちょっと待ってください。ということは九十九さん、ここ来てから参拝とか」
「……したことねえ」
「おーぅ。そうですよ、ねえ」
 ちょっとびっくりしてしまったが、考えてみれば驚くことは何もない。自分の当たり前を何気なく押し付けてしまったことを少し反省した。
「行くの、やめます?」
「は? 何でだよ」
「いや、あの、付き合わせるのもどうかなあ、と思いまして」
「お前は」
「え。私、は、暇見つけて行くので大丈夫ですよ?」
「……どうせ行くなら、付き合うわ」
「え、っと、無理はしなくていいんですよ? なんか作法とかめんどくさいっていうなら──」
「うるせえな行くっつってんだろ!」
「はい、ごめんなさい!」
 ぴん、と姿勢を正すと舌打ちをされた。今のは、私が悪い。
「と言っても、私人混みが苦手なんで、三が日にお参りしたくないんですよねえ。ゆっくり神社の中も周れないですし。ぎり、三日の午後……いや、でも七日正月という言い方もあるし……」
 ああだ、こうだ、と考えこむ私に手を伸ばし、九十九さんは軽く眉間を突いた。
「皺」
「あぁ、すいません」
「別に、んな考え込むことでもねえだろ。行きたいときに行きゃあいいじゃねえかよ」
「確、かに、それもそうですね」
 だろ? と、口の端を上げる彼に、不覚にも胸が高鳴った。肩に力が入ったとき、いつも強張りを溶かしてくれる、すごい人。
「どのみち今日はちょっと、家に篭っていたいですね。寒いし。雪すごいですし」
「ん。だな」
「後でお腹空いたらお雑煮作りますね。あ、お餅続いちゃいますけど大丈夫ですか? 私、好きだから苦じゃないんですけど。あ、でもちゃんと鶏肉とかは入れるんで──」
「別に、食えりゃ何でもいい」
「すごくありがたいんですけど、作りがいはないですよね、本当」
 窓から吹き込んだ隙間風に身体を震わせ、私はコタツの掛け布団を手繰り寄せた。温度を少し上げて、テレビのリモコンを引き寄せる。後で、録った映画でも見ようか。あー、でも、二人で見れるようなものはあるだろうか。
「なあ」
 紅白も佳境に入っている。後どれくらいで終わるのだろうか、と思案しながら顔を上げた。
「……宜しくな、その、今年も」
 目を丸くして彼を見つめる。逸らされた視線すらも愛しい。
「はい! こちらこそ」
 小さく会釈して、笑いかけると九十九さんの頬が緩むのがわかった。
「あ、そういえば神社行く前に最低限の作法とか教えといた方がいいですよね。あの、参拝する前に手水舎ってところで手と口を清めるんですけど、これお水が出るところが龍の形を模してて、龍と蛇ってモチーフとしては同じような扱いなんですけど、蛇口って言うじゃないですか。あれここからきてる言葉で──」

 にやけそうになった口元に気づかれたくなくて、自分の土俵に無理やり持ち込んだ早口の知識の応酬は、照れ隠しということで、どうか許してもらいたい。

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