〆切の仕事を早く終わらせて、身支度をして食事の準備をする。冷蔵庫のドアを開きながら、私は本当にこれでよかったのだろうか、とまだ首を捻っていた。

 去年の今頃は何をやっていたか、今ではもう思い出せない。大切な人の特別な日をあの時、私は知らなかった。
 あれは、イトカンで催されたノボルくんのバースデーパーティーでのこと。昔馴染みということで招かれた私は、遠巻きに騒がしい山王の面々を見つめる九十九さんの傍にいた。
「そういえば九十九さんって誕生日いつなんですか」
 さりげなく、ふと思い至ったように口にした。
 本当はずっと気になっていたけれど、聞くタイミングがわからなすぎて先送りにしていました、とは口が裂けても言い出せず、緊張と手汗にどうか気づいてくれるなと願いながらポーカーフェイスを装った。
 まあ、鈍感な彼がそんなことに気づくはずもなく。ん? と、こちらを一瞥した彼は「四月十二」と、簡潔に声に出し、フライドチキンに手を伸ばした。
 桜はもうとうに散った。つまりは普通に過ぎていた。
 まあまあショックを受けながら、肉を咀嚼する彼を見つめる。「へえー」と、冷静に頷きはしたものの、しばらく動悸が治らなかった。
 お祝いしたかったとか、もっと早く聞けばよかったとか、そもそも何でみんな教えてくれないの、というか知らないの? とか、様々な感情が内側を巡り、私はスマホに手を伸ばした。その日はどんな風に過ごしていただろうか。そもそも彼とは会っていただろうか。スケジュールを開いても特に何の用事も書き込まれてはおらず、ラインを開けば面白みのない日常の会話が繰り広げられていた。
 頭を抱える。
 来年はもっとちゃんと、ちゃんとお祝いするんだ、と決意を胸に今日この日に至ったというのに──

 会う予定を取り付けて、どこか行きたい場所はないかと尋ねてみれば「別に」という何ともあっさりとした返事。多少なりと食い下がってみた私に九十九さんは怪訝な顔を向けた。
 いや、確かに「お祝いしたい」とはっきり伝えられなかった私も充分悪いのだけれど、自分の誕生日に約束を取り付ける人間を見て大まかに何かを察してくれても……とは言えないか、去年まるっきりの無視だったものな。しょげて押し黙る私に彼は一言「飯が食いてえ」と、呟いた。

 九十九さんは、食事にさして興味がない。興味がない、というかこだわりがない。今まで食事をつくって出したことはあるが、特に感慨もなさげに黙々と腹に溜めていく。初めのうちは、無理して食べてくれているのでは、と何度気にしたかしれない。
 しかし、口に合わなかったかと謝れば「別に。うめえよ」と、きょとんとした表情が返ってくる。
 口下手なのだ。知っていた。
 しばらくして私は、必要以上に心配するのを極力やめた。

 「こんなもんか」
 好き嫌いがわかりにくい人ではあるが、箸の進み方で何となく、好みの傾向は掴めるようになった。食卓に並んだラインナップを見ながら、子どもの誕生日かよ、と頬が緩む。
「あ、とは」
 冷蔵庫を開けてビールが冷えているのを確認して、ドアを閉める。甘いものが苦手な彼にケーキはいらない。記念日に合うお酒といえばシャンパンやワインなのだろうが、彼は悲しいことに味音痴だった。
 以前、琥珀さんが知り合いからもらった高いお酒をイトカンで振る舞ったことがある。黙々と飲み進めるものだから、てっきり違いがわかるのだろう、と誰もが思っていた。
 どうだ、と誇らしげにショットを傾ける琥珀さんに向かって彼は「……日本酒だな」
 その場にいた多くの人間が固まった。飲ませ甲斐がない、と非難轟々の嵐の中、むすりとした表情で「酒は酒だろ」と拗ねていた表情はとても可愛らしかったが──話が逸れた。
 ビールが好きだ、とは聞いたことはあるが、おそらく彼は目の前に出されたものを飲む。文句も言わず、淡々と。だからといって、普段仕様のスーパーの品を買うのも気が引けて、結局は海外メーカーのおすすめ品を何種類か揃えてみた。テイスティングをしようにも、普段お酒を飲まない私にとっては何がいいかの基準もわからず、とりあえずは勘と運に頼ってみた。しかし、
「いつもとあんまり変わらんな」
 誕生日感薄いなとか、もっと他にやりようがあったんじゃないかとか、でもムードとか如何にもな雰囲気苦手そうだしだとか、頭の中は朝からぐるぐる回って、正直もう疲れている。
 喜んでくれたら、いいのにな。

 玄関のチャイムが鳴る。約束の時刻を少し過ぎていた。
 ドアに駆け寄って覗き窓を確認すれば、ポケットに手をつっこんだ九十九さんが立っていた。唇を小さく噛んでノブを捻る。
「いらっしゃいませ」と、戯けて気恥ずかしさを隠した。
「おぅ」
 慣れたように廊下を進む彼の背を見送って鍵を閉める。

 リビングに入ると、九十九さんが固まっていた。じ、とテーブルに視線を向けたまま動かない姿に首を傾げる。「どうかしましたか?」
 ぴく、と肩を震わせて彼はこちらを振り向いた。
「……いや、別に」
「そうですか?」
 椅子を引く音を後ろに聞きながら、私は冷えた瓶をいくつか掴んで、カウンターの上に並べた。
「どれがいいですかっ」
「なんだよ、それ」
「ビールです。なんか、ドイツ産とかベルギー産とか色々あってよくわからなかったんですけど、とりあえず何本か買ってみました。これは苦味が強くて後味が爽やかなやつで、これは甘みが強いらしくて──」と、一通り説明してみる。「どれにしますか?」
「別にどれでもいいわ」
 予想通りの反応だった。
 どうせ最後には皆空けるんだろうなあ、と思いながら、私は一番端の瓶を掴んでグラスと共に彼の前に置いた。さてと私も、と唯一飲める梅酒を取り出して席につく。
「なんだよ、珍しいな。お前も飲むのかよ」
「ん? まあ、今日くらい一緒に飲みたかったので」
 ふーん、と何気ない相槌をうった彼の表情が、どことなく嬉しそうに見えて、高鳴る心臓をどうにか抑え込む。そんな柔らかい空気を出さないでもらいたい。身が持たない。
「あ!!」
 乾杯をしよう、とグラスを持とうとした私は声を上げた。突然のことにびくり、と彼が身体を震わせる。
「あ、ごめんなさい。あの、これ、忘れてました」
 椅子の上に置いて隠しておいた包みを九十九さんに差し出す。
「九十九さん、お誕生日おめでとうございます」
 丸い目をさらに見開いて、彼はぼんやりと「……おう」と呟き、プレゼントを受け取った。
「気に入っていただけるとよいのですが」
 正直、死ぬほど迷った。
 彼は興味のないことにはとことん興味がない。しかし裏を返せば、自分の好きなものには惜しみなくこだわりを発揮する。当初はバイク関連のものにしようか、と色々調べてはみたが、好みのメーカーなどが違っていた場合のハズレを引いたときが痛すぎる、と結局断念した。
 何周も巡り巡った頭は爆発寸前で、もはや正解がわからない。チョイスをミスったかなあ、と今更ながら泣きたくなってくる。
 ガサゴソと紙の包みを開いて、彼は一枚のジャケットを取り出した。
「これ……」
「に、似合うかなあ、と思いまして」
 衣服類は極力人には贈らないようにしていたはずなのに。私は何を血迷ったのだろうか。
 九十九さんは、よく色違いで服を揃える。気に入ったものがあれば、タンスの中には同じ柄や同じメーカーのものが並ぶ。ものをつくるのが好きな人だから、必要とあらばアレンジすることも厭わない。しかし、いかんせん趣味が派手だ。それはもう似合うから文句も言えないが、そんな彼からは何ともいえない威圧感が漂う。でも、シンプルな一着だって絶対似合うだろう、と密かに思っていたり。
「あの、ごめんなさい、気に入らないなら言ってくださいね! また、別のものを後日お贈りしますので」
 すると彼はおもむろに着ていた上着を脱いで、新たなジャケットに袖を通した。
「おお、ぴったりだわ」
 襟元や袖口に目を向けて、にやりと口の端を上げる。「似合うかよ」
 深い紺色のデニムジャケット。春先にちょうどいいかなあ、と。
 そしてちょっぴり、ムゲン時代の面影が懐かしくなって選んだものだ。
 きゅ、と胸を掴まれたような気分になる。
「──かっこいいです」
 素直に思ったことを伝えれば、気恥ずかしそうにはにかむその顔が、ああ、私は大好きだなあ、と。
「なあ」
「はい?」
「ありがと、な。今日」
 これからもお祝いさせて欲しい。ずっと一緒にいてください。生まれてきてくれてありがとう。出会ってくれてありがとう。選んでくれてありがとう。
 そんな、とめどなく溢れる想いは、口に出せずとも絶えずこの胸の中にある。
 いつか終わりが来るその日まで貴方の傍にいさせてください。
 そんな、自分だけに向けた誓いの言葉を飲み込んで、私は笑顔でグラスを掲げた。「乾杯しましょう、九十九さん!」

 私たちの尊い日に。

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