リビングでぼんやりと一人テレビをつける。映画でも観ようか。それとも録り溜めたドラマでもかけようか、と思案していると、隣の部屋から微かに着信音が聞こえてきた。こんな時間にかかってくるのは珍しい。思わず「誰だ?」と、眉を寄せて、席を立つ。
 机の片隅で振動するスマホを手に取る。ディスプレイには、鷹村九十九さん、と表示されていた。誰が見ているわけでもないのに、背筋を伸ばして、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「あ、よかったあ。繋がった」
 女性の声がした。

 顔を上げ、薄暗い路地を見渡して、手元の眩い光を見やる。方向はこちらであっているはずだ。地図アプリと照らし合わせながら道を進めば、画面上の矢印が歩幅に合わせて緩やかな動きを見せた。
 程なくして、ネオンで縁取られた看板が目に入り、コートのポケットにスマホを滑らせた。緊張気味にBAR ODAKEのドアを開ける。
「いらっしゃぁい」
 店内に響くベルの音と共に、甘く凛とした声がした。恐る恐るといった具合で、中に足を踏み入れる。ぎこちないその姿に、彼女は一瞬、不思議そうな表情を見せた。
「なに飲むー?」
「あ、いや私、客じゃなくて、あの……連絡いただいた、九十九さんの」
 あぁ、と合点がいったように頷いて、彼女は「あっち」と店の奥を指した。会釈して、空席ばかりのカウンター脇を抜けると、壁際の隅にあるソファの上で、崩れるようにしなだれかかる九十九さんの姿を見つけた。
「ごめんねえ、こんな遅くに」
 グラスを拭きながら、ママさんがこちらを見やる。
「なあんか、この頃ペース早いから心配でさ。龍也に連絡したら、店終わるまでアンタに付き添ってもらえ、って言うから。でもよかったあ、つかまって」
 のんびりした声色に眉を下げる。
 正直のところ、何故私? など、言いたいことは山ほどあった。大した役には立たないのになあ、と苦笑混じりになりつつも、このところのムゲンの現状を思えば、なんとなく、察しはつく。
「店終わったら迎えにくるらしいから、それまで相手してやって」
 ひとつ頷いて、一礼してからテーブルへと向かう。
 半分眠りかけの酩酊状態で、九十九さんは前も見ずにグラスへ手を伸ばしていた。空を彷徨う手のひらを掴んで、そっと膝へ戻してやる。気怠げに、気分を害したと言いたげに、前髪の隙間から不機嫌な睨みが覗いた。妙な間隔をあけ、同じ長椅子に腰掛けると、彼は少し驚いたような顔をして、すぐにも険しい表情を浮かべ、「なんでいんだよ」と掠れた声を出した。
「龍也さんに頼まれまして。今日はもう、お酒はやめにしませんか?」
「……お前に関係ねえだろ」
 身を起こしてボトルを掴む、寸前のところで瓶を奪った。隣のテーブルに避難させれば、ひどい目つきと舌打ちと共に、勢いよく後ろへ倒れ込む。
 自暴自棄、一歩手前、といった様子が心配で、不安が膨み出す。不意に、初めて声をかけた日の映像が脳裏によぎった。そういえばあの時も、盛大に拒絶されたっけ。
 今考えてみても、引き下がることなく近づいた自分の振る舞いが不思議でならない。この瞬間も──放っておけないのだ。そう、思ってしまったのだ。事なかれ主義のくせに、諦めが悪い。私の琴線に触れてしまったのだから、もう、止められないのだ。
「どいつも、こいつも」
 ため息に似た深い呼吸と低い呟き。吐き捨てるような言葉の響きに、思わず顔を覗き込む。
「口を開きゃ、龍也、龍也、って」と、彼は目を閉じる。

 ……俺じゃだめかよ。

 そんなわけない。
 咄嗟に浮かんだ言葉を飲み込んだのは、求める相手を分かっていたからだ。
 何かを振り払うようにグラスを掴み、九十九さんが氷水と成り果てた液体を煽る。小さく呻きながら、半ば倒れるように、彼はテーブルの上に突っ伏した。妙な体勢で規則正しく動く背中に手を伸ばし、引っ込める。
 私ではない。私ではないのだ。
 心の穴を埋めるには、最適なピースがあることを知っている。別のピースが、また別の穴を埋めてくれることはあっても、埋めたい場所の代わりになることはない。
 崩壊していくチーム。恩人が変わる憂い。どうすることもできない自分を呪い、溢れ出す苦しみが肌を伝う。
 あの人でなければ、意味がないのだ。あの人でなければ、どうすることもできないのだ。チリッ、と火に触れたような嫉妬が、一瞬、胸の内を焦がした。
 私であればよかったのに。この人の、心を埋める欠片が、私であればよかったのに。私が、救いになれればよかったのに。
 そんなことを考えるうち、無意識に彼の背をさすっていた。静かに、そっと、なだめるように。これでは一体、誰を、何を慰めているのか、わかりやしない。
「お前は……」と声がした。手を止め、耳をそばだてる。「お前は、変わんなよ」
 喉に答えを詰まらせて、指先に力がこもる。
 程なく聞こえてきた寝息に、私はどこか安堵している自分に気づいた。

 つめていた息を吐くと、ふと、ママさんと目が合った。薄く笑みを引く顔に手招かれ、戸惑いながらも立ち上がる。九十九さんの肩に巻いていたマフラーを気休めに掛けて、私はカウンターへと向かった。
「何か飲むー?」
「あ、私お酒飲めなくて」
 ごめんなさい、と頭を下げると、彼女はソフトドリンクのメニューを開いて、私の方へ押しやった。
「お代は龍也か、そこの酔っ払いにツケとくからから、なんでも好きなの頼みさい?」
 軽く吹き出して、どうしたものか、と目を通す。
「じゃあ、あの、ノンアルコールの梅酒、頂けますか?」
 カラリ、と氷の音が心地よい。
 スツールに腰掛け、薄く色づく液体が満ちるグラスを傾ける。久しぶりに嗅ぐ梅の香りに、私は内心わくわくしながら、薄い甘さを口に含んだ。
「九十九のー、彼女?」
 気道が奇怪な音を立て、盛大にむせた。
「ではないか。それにしては、なあんか遠慮がちだったしねー」
 咳をしながら声も出せずに、しかし否定は肯定し、何度も何度も頷き返す。
「だけどー」悪戯っぽく、妖艶に、彼女は首を傾けた。「好きなんだ」
 きゅう、と不思議な音が喉から漏れた。
「苦労するよー。あんな男に惚れたら」
「……しますかね」
 そりゃあねえ、と訳知り顔でグラスを磨く。酸いも甘いも、すべてを目にしてきたかのように。私には到底理解できない景色を彼女はその目に映してきたのかもしれない。
 肩越しに、彼の姿を振り返る。
 苦労、するかな? するんだろうな。片想いでも、隠しても、伝わらなくても、フラれても。奥万が一、結ばれることがあったとしても。でも──
「後悔は、しないと思うんです」

 起きる気配のない九十九さんを後ろに控え、ママさんと世間話をしながら、龍也さんの迎えを待つ。少し眠くなってきたなあ、という頃になって、軽快なドアベルが目覚まし代わりになった。
「遅い」
 ママさんの一喝にくたびれた顔で「悪い」と龍也さんが肩をすくめる。
「九十九は?」
 あそこに、と振り返ると、彼は些か乱暴に歩みを進め、いびきをかく伏した身体を揺り起こした。
「九十九、おい、帰んぞっ」
 うめきながら眉をひそめる彼の肩を強く叩き、龍也さんが手を回す。千鳥足で立ち上がる心許なさに思わず駆け寄って、誰もいない空間に収まるようにして、私は腕を支えた。息を吐き出す九十九さんが大きな手のひらを肩口に置き、その重みに非力な身体は傾いてしまう。
「今日の分はツケとくから、また来なさいよー。逃げたら承知しないからねえ?」
「悪ぃな、いつも」
「気が向いたら、また遊びに来てね」と、綺麗な笑みを向けられて、何故だか照れてしまった私は、俯きがちに会釈した。ひらひらと手を振る彼女を残して、店の外へ出る。
 肌寒い夜空の下、ガタイのいい男二人と、形だけは彼を支える、か細い女が道を行く。
 遠慮がちに掴んだ腕は、布越しでも体温が高くて、心音すら聞こえそうな距離に、激しく鼓動は暴れ回った。染み込んだオイルとタバコの匂い。鼻腔を刺激するアルコールが、私に正気を保たせた。
「なあ」と、名を呼び、龍也さんが私に声をかけた。
「お前は、九十九のこと、諦めないでやってくれ」
「え?」
「コイツが黙って、一人で無茶しすぎないように、壊れねえように、ずっと見守ってやってて欲しいんだ」
 春の木漏れ日に触れたのだろうか。そう、勘違いしそうになる。今が冬だということも忘れさせる眼差しで、彼は柔和な笑みを携えた。
「お前が気づいてない、お前しか埋められない場所が必っずあるから。だから、約束してくれ。な?」
 そんな言葉に、私は、否定も肯定もせず曖昧に、不格好に口の端を上げてみせた。了承した、と言うには、あまりにも頼りない。
 彼の荷を、安堵という形で軽くすることができたかもしれない好機を、私は自分の手で放り投げてしまったのではないか。あんなに、生意気なことを言っておきながら。
 あの時どうして、もっと強く頷かなかったのだろうと、今でもひどく悔いている。

 それが最後になるなんて、思ってもみなかったから。

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