タブレットとキーボード、ノート、スマホに財布……必要なものをバッグに詰めて、私は外へ出た。片道二、三十分歩くのは、今となってはもう日課だ。あまり赴いたことがない方面で、最初は道に迷いそうにもなったが、散策を重ねるうち、お気に入りのお店もできてきた。今日の帰りは、最近できた食パン専門店に行ってみようか。
 そんなことをぼんやり考えながら先を進んでいると、前方に見知った人物の姿が見えて、一瞬、足がすくんだ。目が合う。声が聞こえる距離まで近づいたところで、コブラくんが「おう」と、挨拶をした。表情から気まずさが透けて見える。それは私も、同じだったかもしれない。
「久しぶりだね」笑顔でかけた声は、辛うじて震えていなかった。
「最近みんなは、相変わらず?」
「あぁ。ナオミたちもヤマトも、うるさいぐらい元気にやってるよ」
「そっか。それは、よかった」後に続く言葉を探しながら、早々に立ち去る準備をする。「今からまたイトカン寄るの?」
「あぁ。お前は──」と、彼が問いかけるような目を向けた。
「私はちょっと、病院に」
 へらり、と作り笑顔を見せると、彼は眉根を下げ、言葉を飲むように喉を上下させた。
「今日も、行くのか」
「え? うん」
 そうか、という呟きが耳に届く。居た堪れない空気が流れるのがわかる。それを蹴散らすように私は早口で「あ、ごめんねっ、わざわざ引き止めちゃって! なんか、約束とかあったでしょ」
「いや、」
「そう? それならいいんだけど……じゃあ、私もそろそろ行くね。今日、他に寄るとこあるから」
 あぁ、と頷き、「気をつけろよ」と当たり障りない忠告をする彼に「そっちもね」と手を振って、私たちは各々の方角に分かれた。
 固いコンクリートを踏みしめながら、彼の言葉がこだまする。
 ──今日も行くのか?
 
 そんなの、当たり前じゃないか。
 季節はあれから巡ったけれど、九十九さんは目覚めない。



 自動ドアをくぐると、消毒液の匂いが鼻をついた。受付のお姉さんに軽く会釈をして、病室へ足を運ぶ。何度も通った道は考え事をしていても容易に辿り着く。頭を使わずとも、もはや身体が記憶していた。
 ドアを開けると、ちょうど看護師さんが彼の体温を測っているところだった。いつしか名前まで覚えてしまった彼女に会釈をすると、笑顔まじりに挨拶をして「九十九さーん、彼女さんが来てくれましたよー」などと言う。思わず零れた苦笑いは、きっと彼女が思うところと意味が違うはずだ。
 あの日から、毎日、とは言わないまでも足繁く通ううちに、当然ながら顔を覚えられてしまった。彼らにとっては、世間話のつもりだったのだろう。昏睡状態の人間に、見舞いを欠かさない稀有な存在。私の心が参らないように、明るく振る舞ってくれた可能性もある。自分たちの方が日夜大変なことをしておきながら、なんとも頭が下がる話ではあるが、彼らの一人がある日、私に問いかけた。「彼女さんですか?」と。
 親族ではない、と言っていたから、そう推測されてもおかしくはない。普通は、そう考えるものなのかもしれない。違います、と律儀に答えることは確かにできた。しかし、であればお前は誰なのだ、と不審に思われてしまえば、これから気軽に見舞いに来ることができなくなる。瞬時にそんな計算を叩き出した私は、曖昧な笑みを浮かべ、彼らはそれを肯定の意として汲んだ。
「大切な方なんですね」
 その言葉には、「はい」と本心から頷くことができたことを覚えている。

「今日は外あったかいですよねえ」
「ねえっ。ほんと春の日差しみたいで」
 窓際のベットに近寄って、バッグを下ろしながら一言二言会話を交わすと、彼女はカルテを持って、「ごゆっくり」と病室を出ていった。他に患者のいない部屋は、もはや個室と変わりない。
 一時期、腕を骨折した男性と手術を控えた老齢の男性がいたこともあったが、彼らはとうに退院して、もう姿を見ることもない。目の前に横たわる九十九さんだけが、変わらず、毎日ここにいる。
「さっき久しぶりにコブラくんに会いましたよ」
 小さな丸椅子を引き寄せて、ベッド脇に腰掛ける。手のひらに消毒液を吹きかけて、水分が気化するのを待ってから、私はそっと彼の手を取った。筋を痛めないように慎重に、指を曲げたり、伸ばしたり。その大きな手のひらは、私の両手をもすっかり握り込んでしまえそうで、たまにじっと見入ってしまう。黒いオイルで汚れていた皮膚は、今はすっかり綺麗になって、ほんのりとあの頃とは違うアルコールの香りがした。指先から伝わる温もりが、かつて自分の頭を撫ぜたことを思い出し、ふと恥ずかしくなって、すぐに心臓が切なくなった。
 手首、腕、終わればもう片方、そして脚。これも日課になってしまった。筋力が落ちてしまわないように、動く、ということを忘れてしまわないように、看護師さんがケアしているところを見て、自分にもできることはあるか、と声をかけた。私はあくまで、補助の役割しかできない。一部といえど、大きな身体を動かすのは一苦労で、色々調べては見たけれど、彼を傷つけてはいないか、とヒヤヒヤしているところもある。何より、眠っている間に、ただの知り合いにベタベタ身体を触られるなんて、後で気味悪がられるかもしれない。でも、いい、別に。嫌われたって、いい。それでも、赤の他人にすべてを任せきってしまうのは、なんだか嫌だったんだ。
「山王は、最近なんだか大変みたいです」
 ゆっくりと腕を曲げ伸ばししながら、私は彼に語りかけた。
「まあ、全部人づてに聞いた話なんですけど」
 彼らとは、あの事件から疎遠になった。
 なった、と言うと、なんだか自然現象のようでいただけない。これは、私が自ら選んだゆえの結果なのだから。

 ムゲンが解散に追い込まれ、ここら一帯は、前にも増して随分と治安が悪くなった。地区ごとに新たな勢力争いでトップが決まり、今ではいくつかのチームがテリトリーを守り、均衡を保っているらしい。
 らしい、というあたり、私はその辺の情報に疎かった。もとい、興味がなかった。耳に入ってくるのは、ひょんなことから知り合いになった各チームと親密な友人たちから得た断片的な情報だけ。それも大して深追いすることもなく、いつもほどほどに聞き流している。
「そうだ。この間知り合いになった女の子がいる、って話したじゃないですか。あの、山王の近くで迷子になってた、って子。よくよく聞いたらその子、雨宮さんのところに居候しているらしくて。彼女は、ムゲンのことはよく知らなかったらしいんですけど、というか、覚えてない、って言ってたのかな? でも、なんだか不思議な縁ですよねえ。その前に友達になった子も達磨一家と懇意にしているらしいですし。あ、達磨一家って覚えてます? ほら、皆さんが昔傷だらけで帰って来たときの確か、日向会? あの息子さんが頭張っているらしくて」
 そこまで言って、動きが止まる。瞼を閉じて、私は空気を吸い込んだ。
「……今も毎日、喧嘩ばっかですよ」
 コブラくんが、山王のトップになった。新しい仲間たちと、あいも変わらず、今も暴れ回っている──理解ができなかった。あの日から、すべてが大きく変わったというのに、懲りずに、変わらず続けていることが、よりにもよってそれなのか、と。ため息にも似た何かが、身体の奥から溢れてくる。
 また同じ道を辿るんじゃないか。また仲間を失うんじゃないか。大切な人が、傷つくんじゃないか。蚊帳の外に追いやられた人間の苦悩など、どこ吹く風で、虚勢を張る姿に、嫌気がさしてしまった。もう何も見たくなくて、私は彼らから、また逃げたのだ。

 少し疲れた、と思えば時間もだいぶ経っていて、今日のところはこれで終了、と私はペットボトルの紅茶に口をつけた。行きがけに自販機で買ったときは、持てないほど熱かったというのに、今ではすっかり冷めている。
 ふう、とひとつ息を吐くと、棚の上の写真立てが目に入った。私が出会ったあの頃の、ただ風を走らせるためだけに集ったムゲンのメンバーたち。最初にこれを飾ったのは、誰だったか。普段は見ないようにしているそれに埃が積もっていることに気づいて、私はウェットティッシュで彼らの姿をなぞり、薄くついた水滴を綺麗なハンカチで拭った。
「いい顔してますよねえ」
 枠の中で、ポーズをとる男たち。楽しそうに笑う九十九さん。
 あの頃は、他の者が入る余地などひとつもないような、固い絆で結ばれたような顔をしておきながら──無意識に握ってしまった拳を解き、元あった場所へ戻す。
 龍也さんの葬儀が終わって、一度だけ、この病院で琥珀さんを見かけたことがあった。ひとりで廊下を渡る、後ろ姿だけだったけれど。まるで闇に沈むような、影を背負った背中に声をかけることは躊躇われて、私は言葉を飲み込んだ。なんと声をかけていいか、迷ったからでもある。でも、それ以上に、その時は、声をかけることが恐かった。深く傷ついていることをわかっておきながら、私は彼に、恨み言の類を浴びせかけてしまうような気がしたから。
 小さく胸を上下させ、寝息をたてる九十九さんの顔を見つめる。長い睫毛の下に隠された、あの黒くて大きな丸い瞳を、もう長いこと目にしてない。深く息を吐き出して、私はゆっくり腰を折り、躊躇いがちにその肩に額を寄せてみた。固い骨と筋肉の感触。そして、確かな温かさ。血の通った人間の、生きているという確かな証。静かに耳をすましていると、自分の鼓動ともうひとつ、少しリズムの違う脈が振動として伝わってきた。
 生きている。生きている。彼は確かにここにいる。今はそれだけで充分だから。
 じんわり滲んでくる温度に身を委ねながら、私は呼吸を深くした。



 夢を見た。幼い頃の夢。
 両親は昔から仲が良くて、それは恋愛というより、同志的なものを感じさせる繋がりだったけれど、子供の私を差し置いて会話に熱中する姿がいつも羨ましくて、知ったように口を挟んでは「あんたはまだわからないでしょ」と怒られた。
 三人で散歩もした。私は二人の間にいて、手を繋いでいたはずなのに、いつの間にか追い出されるように一人になって、ぽつりと彼らの背中を見つめた。
 立ち止まって、遠く声を聞く。十メートルほど離れてようやく、彼らは私に気づいて振り返り、「何をしてるんだ」と手招きをした。

 学生の頃、身体はそんなに強くなくて、学校も休みがちだった。遅れて出向いた教室で「あれ、いたんだ」と言われたことは、一度や二度の話じゃない。
 仲がいいと思っていた友人との帰り道、少し会わない間に知らない話題で盛り上がる二人がなんだか遠くて、靴を結ぶフリをしてしゃがみ込みながら、彼らの気配を追っていた。
 離れて、離れて、遠く離れて──二十メートルほど先に行って、彼らはようやく振り返り、不思議そうな目でこちらを見た。
 うまく紐が結べなかった、と私は笑顔で嘘をつく。

 楽しそうに盛り上がる人たちに、憧れがないわけじゃないけれど、あの中に混じってしまったらきっと、気づいてしまう。いてもいなくても気づかれない私に、気づいてしまう。
 だから、そっと、距離をとる。
 離れて、離れて、遠く離れ──「何やってんだよ」
 その時、彼にぶつかった。
 イトカンの仲間たちを見つめながら、歩みを遅くする私の後ろで、彼は怪訝そうな表情でどもる私を見下ろした。行くぞ、と強く腕を引かれ、否応なく戻された居場所。それは真ん中ではなかったかもしれないけれど、なんだかきらきらして見えて、ひどく、特別なものに思えた。
 そんな風に手を引いてくれた。無愛想に、乱暴に、いつも仲間の元へ引っ張っていってくれた。そんな優しい彼が、一人になるようなことがあってはならないのだ。
 一人でいってしまうようなことが、あってはならないのだ。



 びくり、と肩を揺らして目を開ける。頬に固いマットレスの感触。勢いよく身を起こして、私は左目を擦った。「すいません、ねちゃってました」
 病院の窓が風で小刻みに揺れる音がする。声を投げかけた男は、身じろぎひとつしない。
「……九十九さん、そろそろ返事してくださいよ。これもう、スピーチですもん。私、結構喋る方ですけど、一方通行で話すのって割と恥ずかしいんですからね? 無口、って言ったって、限度があるでしょっ」
 空笑いが虚しく響く。
「早く、お話ししましょうよー」
 私の声だけが、いつも部屋に反響して、寂しくなって、私は布団を引っ張って、彼の身体を覆ってやった。

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