カウンターの隅で祈るように座る。周囲に壁を作った私に、話しかけてくる者は誰もいない。
 九十九さんが失踪してから、だいぶ時が過ぎた。何日経ったかはわからない。説明もなく、ふっと彼は煙のように姿を消した。前触れがなかったわけじゃない。あれは、コブラくんたちがお見舞いに来た日のことだ。彼らが帰った後、やけに思い詰めた表情をするものだから、どうしたのかと尋ねたけれど、彼は口をつぐんだまま何も応えてはくれなかった。その視線は、かつての仲間の写真といつの間にか増えた酒のボトル、二つのショットグラスの間を彷徨って、纏う空気の重苦しさに得体の知れない不安がよぎったことを覚えている。
 彼がいなくなってすぐにコブラくんたちを問い詰めたけれど、混乱しているのは二人も同じのようだった。
 やっと、彼の目が開いて、嬉しくて、毎日のように訪ねていっては、欠けた時を結ぶように、少しずつ、心を通わせて──そう、思っていたのは、私だけだったのかもしれない。

 思い当たる場所はすべて探した。今はもう荒れてしまったムゲンの溜まり場。人気のないお気に入りの港。足を運ぶことが躊躇われる、龍也さんのお墓も。整然とした石碑の前には、まだ供えられて間もない花束が二つあって、無造作に置かれた白い百合とカーネーションからは、何故だかあの人たちの香りがした。
 ヤキモキとした想いを抱え、当てもなく町を奔走していた折、友人から一通のメールが届いた。彼女の知り合いが、九十九さんらしき人を見たらしい。それは、無名街で原因不明の爆発が起き、町中が騒然としている、そんな最中のことだった。
 達磨の陣を襲撃した、その筆頭に彼がいた、と。
 訳もわからず、疲弊した身体を引きずって、もしかしたら足を伸ばすかも、と僅かな希望を持って居座っていたイトカンで、私はことの次第を知った。朝比奈ガレージへ差し入れを持って行ったナオミちゃんが帰ってきた夜、後ろには真剣な顔をしたコブラくんがいた。つい先ほど、九十九さんが現れた、と彼は声をひそめて教えてくれた。
 九龍に命を奪われた龍也さん。復讐に目を曇らせる琥珀さん。その想いを汲みとって、九十九さんは彼の傍らにいる。目まぐるしく明らかになる事実に頭痛が止まず、ムカムカする胃を押さえて、私はカウンターに額を付けた。



 龍也さんの命日。弔いに来る者は誰もいない。
 墓石の前では、縁が少しずつ萎びてきた白い花々が揺れていた。私はその手前に新しい花束を添えて、小さなウイスキーのボトルを割れないようにそっと置いた。
「冷たいもんですよねえ。せっかくの日だってのに、皆まーた喧嘩ですって」
 一人その場にしゃがみ込み、薄く目を開けて語りかける。仕方ないな、と苦笑しながら、優しく笑う彼の顔を、声を鮮明に思い出して。
「龍也さんならきっと、“熱いやつらじゃねえか”って、言うんだろうな」
 一周忌とか、三回忌とか、そんなものは生者のための飾りだと思う。死者からしてみれば、一年に一度とってつけたように思い出されるより、人生の中に根付くように、いつでも隣にいる方が嬉しいに決まっている。と、私は思っている。
 それでもそんな飾りが必要なのは、彼らを大切にしていた人々が集まって、過去を持ち寄って、自分の知らない彼らを伝え合うことで、消えてしまったその輪郭を再度濃くすることができるからではないだろうか。
 だから、あの人たちは、そういう意味であの人たちは、立派に弔いをすることになるのかもしれない。拳を突き合わせ、想いを交わらせ、懐かしい日々を思い返すように、歪んでしまった時を擦り合わせるように、心を抉ってぶつかるのかもしれない。
「いいな……」
 膝を抱えて息を吐くと、右手の方で人の気配がした。
「あれえ、一人ぃ?」
 間延びした女性の声に顔を上げる。横を向くと、綺麗な紅で弧を描く小竹さんの姿が目に入った。こちらへ歩いてくる彼女に、立ち上がって会釈をする。
「なぁんだ。せっかく来てやったのに、誰もいねぇじゃん」
「あー。なんか、皆、他に用事があるみたいで」
 拳を振り下ろす真似をすると、彼女は吹き出すように笑って、「だってね」と呟いた。「ヒサコから色々聞いた」
 ヤマトくんのお母さんのヒサコさんと彼女は、腐れ縁の親友なのだと聞いたことがある。イトカンが山王連合会の溜まり場となり、徐々に疎遠になってからというもの、私はたびたび小竹さんの店へ顔を出した。事情を知りつつ、多くを訊いてこない彼女たちの側にいるのは、どうにも居心地がよくて、お酒も飲まずに雑談しにいく私なんかを「少額だけど希少な金蔓」と、冗談めかして受け入れてくれた。

 小竹さんが狭いスペースに花を手向ける。無彩色の束の中で、彼女が持ち寄った色とりどりの花弁がやけに明るく目を惹いた。
「ツケも払わずさっさとバックれやがって。こんなことならもっと早くに取り立ててやるんだった」刻まれた名前を指でこつきながら、彼女は軽やかに文句を言う。「仲間たちも相変わらずだよ〜?ちょっとは、ほら、化けてでも出て説教してやんなっ」
 くるりと振り向いた小竹さんが「あんたもなんか言ってやんなよ」と、私の肩に腕を回す。ふわり、と香水の匂いが鼻をついた。
「いや」と、苦笑する表情を見てか、彼女は小さく眉根を下げる。
「……言いたいことがあるヤツは、他にいる、か」
 ぽんぽん、と左肩が叩かれ私は、緩く吹く風を浴びながら踵を返して伸びをする後ろ姿に目をやった。
「飲みにくる、今から?」
「ぁ、今日は、ちょっと」
「ん。そっか」
 再度龍也さんに向き合って、それから来た道を引き返すと、「あ、ねえ」と何気ない呟きが聞こえた。視線をやって、首を傾げる。
「ちゃんと伝えたいことがあるなら、しっかり言葉にしときなさいよ? 人間なんて、いつでも側にいてくれるわけじゃないんだからね?」

 イトカンのカウンターに座り、彼女の声を思い出す。
 背後では、苺美留狂という面識のない特攻服姿の少女たちが闘いの実況に耳を傾けては、一喜一憂としていた。その甲高い声が今は、とても耳障りだった。
 スウォードだとか、九龍だとか、マフィアだとか、この町を守るための闘いなんて、どうでもいい。私は、ただ──



 どれほど時間が経ったのだろう。数時間にも数十分にも思える。体感があやふやに曖昧で、けれど、店のドアの隙間から覗く灰色の光が、確かに空が白み始めてきたことを物語っていた。
 背後では、勝ち鬨に騒ぐ声が聞こえる。琥珀さんが落ちた、と報告が上がる。黄色い声を張り上げる彼女たちの中で、私は気が気じゃないかった。琥珀さんが負けた? じゃあ、九十九さんは? 彼らは、彼らは一体どうなったのだろう。身体から血の気が引いて、青い顔で震えそうな私を案じてか、ナオミちゃんが気遣って声をかけてきた。
「おにぎり、作ろうと思うんだけど」
 その呟きに頷いて、傍らで黙々と作業する。それでも心はここに在らず、私はただ鬱屈と居た堪れない想いを噛み殺していた。

 程なくして、山王連合会の面々がドアベルを鳴らした。店内に流れ込んできた男たちは、皆一様に晴れやかな、清々しい顔をしていた。
 コブラくんとヤマトくんと目が合う──九十九さんは? その一言が声にならず、頬を引き攣らせて見つめていると、口を結んだコブラくんが小さく微かに頷いた。満面の笑みを浮かべるヤマトくんが痛いほど肩を強く叩く。力が抜けて、私はスツールの上に座り込んだ。ガヤガヤと騒音まがいの声を聞きながら、ようやく息が吸えた心地がした。安堵、といえばいいのだろうか。その感情の名前を私は知らない。
 顔を上げる。ふ、と昔の思い出がフラッシュバックした。
 龍也さんが作った料理を、ナオミちゃんがテーブルへ運ぶ。傷だらけの顔で、押し合いへし合いしながら皿に手を伸ばし、たらふく食らう男たちの姿。けれど今、彼らはもうここにはいない。
 コブラくんも、ヤマトくんも、ナオミちゃんも、確かにそこにいるけれど、その周りには新しい仲間がいて。そして、思う……ああ、もうここは、私たちの場所ではなくなってしまったのだ、と。
 緊張の解けた感覚と同時に芽生える、言い表し難い別の感情。いや、もしかすると、抑えていた何かが、表面に現れただけなのかもしれない。

 カラカラと、ベルの音がした。
 松葉杖をついた青年がドアの向こうから姿を見せる。
「おう、ノボル!」
 手をあげたヤマトくんが、こっち来いよ、と手招きをした。柔和な笑みを携えて背後を気にかけるノボルくんの視線の先をぼんやりと辿れば、そこにはタバコを片手に佇む、九十九さんの姿があった。
 息を呑んで、彼を見やる。左瞼が腫れ上がり、頬には痛々しい十字傷。眼がかち合った、と同時に、彼は視線を逸らした。
「九十九さん……」
 ヤマトくんの呟きに、瞬間、イトカンが静まり返る。
「店の前で会って」と、ノボルくんが左右に目を泳がせた。「まずかったかな」
 立ち上がったヤマトくんがこちらへやってくる。
「九十九さん! こっちきて一緒に飲みましょうよ!!」
 ナオミちゃんが新たなお皿を運んできたことで、辺りにはいくらか騒がしい雑音が戻ってきた。
「いや」と、言葉を濁す九十九さんのしゃがれた声が耳に届く。
「なんでっすかあ」へらりと顔を綻ばせたヤマトくんが「ほらな」と、私の肩を叩いた。「何も心配する必要なんてなかっただろ? いちいち考えすぎなんだよ、お前は。んな辛気くせえ顔してねえで、お前もこっちで飲めよ。せっかくだから、パーッと祝おうぜ!!」
 周囲の騒音が、笑顔が、一睡もできなかった頭に響く。武勇伝の如く、誇らしげに傷を見せつける男たち。互いを讃える眼差し。
 そのすべてに、腹が立った。
「……ふざけんな」平坦な声がした。
「え?」と、半笑いのヤマトくんが目を丸くする。
「お前らほんとふざけんなよ」

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