抑揚のない呆れ声には、確かに怒りが混じっていた。変化した空気に戸惑いながらナオミちゃんが私の名を呼ぶ。
「あんたらはいいよー、勝手に暴れ回って発散してさ、これからも思い出しては今日の馬鹿馬鹿しい戦いを酒の肴にするんでしょ? よかったねえ、年取って笑い合える思い出がまた一つできてさ」
「ちょっとアンタ、そんな言い方っ」
 斜向かいの席から、横にかきあげた髪を固めた少年が口を挟む。眼光鋭く睨み返せば、怯んだように彼は唾を飲んだ。無意識に鼻で笑い、口角が持ち上がる。
「その間、こっちはずっと待ってたよ。解決方が話し合いでもなく殴り合うだけなら、待ってるしかないからさ」から笑いをひとつ浮かべて、前髪をかきあげる。「そういう人間がどういう感情でいるかなんて、考えてもないんだろうな……簡単に命削って、女は陰で黙ってろ、かよ。いつの時代や。時代錯誤甚だしいわ」
 完全に静まり返ってしまった室内で、私の目線は床のあたりを彷徨っていた。
「ねえ」と、誰に向けるでもなく視線を上げる。「いつ終わる? いつまで待てばいい。毎日のように喧嘩、喧嘩、喧嘩。もういい加減飽きない?」
「それはっ」と、ヤマトくんが声を荒げる。
「向こうが吹っかけてきたから? ……違うよ。好きでやってんだって。武勇伝にして酔ってんだよ。栄光として掲げてんだよ。だから進んでやれんだよ。生傷作って、死にかけて……もういい加減にしてくれ。人生は自分の選択なんだよ。終わらせる、って決めない限り、一生続くんだよ。美談にしたらなんでも丸く収まると思ってんじゃねえぞ、馬鹿どもが」
 口を開いたが最後、止まることない本音が溢れ出す。大きく息を吐いて、悔しさに頬を噛み締めた。
「も、いい。疲れた。もう勝手にやってろ。さっさとくたばれ」
 九十九さんにぶつかるようにして、私は外へ飛び出した。

 朝靄の混じる冷たい空気を切るように、俯き加減で進む、進む。進むうちに、早足は小走りに、小走りは駆け足になった。情けなくて、やるせなくて、視界が滲む。景色が歪む。
 商店街を抜けて、当てもなく走り、辿り着いたのは寂れた公園だった。徐々に空高く移動する朝の陽光の中で、まだ薄らと明かりが灯る町を一望できるフェンスに近づく。
 いつからだろう。もう、先ほどからずっと、頬が冷たい。手のひらに落ちた丸い水滴の中に、表情の抜け落ちた自分の顔が小さく写っていた。
 あの日、病室を開けた時の空虚感を、彼は知らない。あの時の虚脱感など、誰も知ることはない。
 目を瞑って、所々青い塗装の剥げかかった、錆びたフェンスにもたれかかる。嗅覚を刺激する微かな鉄の匂いが血液の匂いを想起させ、心臓が掴まれて、私は一人項垂れた。
 背後に人の気配を感じて小さく振り返れば、思い詰めたような表情の九十九さんがこちらへ歩いてくるのが見えた。
「……なんですか」
 拒絶するような私の言葉に、彼ははたと動きを止めた。ポケットに手を入れ、地面を睨む。進みも戻りもしない彼と身動きしない私との間に、気まずい沈黙が流れた。
「九十九さんが、」
 最初に口を開いたのは私だった。
「琥珀さんをどれだけ大事に思っているかは、わかっているつもりです。どれだけ、恩義を感じているかも……でも、私は、どうしても許せなくて」
 真一文字に口を結んだ彼が、眉根を寄せてこちらを見やる。視界に入った彼の顔に、私はまっすぐ目を向けた。
「──死のうとしてましたよね?」
 彼の唇が薄く開き、右目が大きく見開かれた。

 一昨日、コブラくんの手の中に、私は見慣れた鍵を見た。
「それ……」
「あぁ。九十九さんが、な」
「兄貴が持ってたんだよ」と、ナオミちゃんが後を続ける。「なんの鍵かは、教えてくんなかったんだけど」
 コブラくんが手のひらで回す小さな金属に釘付けになりながら、「それ、」と私は呟いた。「昔、九十九さんの入院費のために、琥珀さんが売ったバイクの鍵なの」
 二人の視線がこちらに向いた。
 それを初めて目にしたのは、あの事故の日のことだった。
 知らせを受け、全速力で向かった病院で案内された手術室の前には誰もいなくて、最初私は間違った場所に来てしまったのかと一人焦っていた。すぐにも、琥珀さんたち他の面々は龍也さんの眠る霊安室にいることがわかったけれど、心許なく待っている私に声をかけてきた看護師さんは、手術をするに当たって切り取った衣服だとか、手持ちのものが無造作に入ったビニール袋を手渡してきた。開いた口から見え隠れするその服が赤黒い血で濡れていることに、卒倒しそうになったことを今でもよく覚えている。
 壁際のソファに崩れ落ちながら、呆然とする私の目に入ってきた、きらりと反射する銀の光。看護師の彼女は、ずっと九十九さんがそれを拳の中に握り込んでいたと教えてくれた。それが、件の鍵だった。
 私は長らく、それを九十九さんのバイクの鍵だと思っていた。品のいい革のキーホルダーは、彼好みのものではないように思ったけれど、誰かからプレゼントをもらったのかもしれない。無くしてしまうと困るから、私は彼が眠る病室の据え置きの引き出しの中に、それを大事にしまっておいた。だから、彼が目覚めて、それを手渡したときに聞かされた逸話には目を丸くした。
 龍也さんの、最後の、琥珀さんへのプレゼント。それは、私が思っていたより何倍も、無くしてはいけない価値のあるものだった。彼があの日、死の瀬戸際を彷徨ってもなお、頑なに握りしめていたという謎が解けた瞬間だった。
 ──それが何故、コブラくんの手の中にあるのだろう。
 龍也さんが、九十九さんに託したもの。彼らの間に結ばれた絆を見越して、仲間を慕う心を信じて、彼は九十九さんを選んだ。意図せず、それは最後の約束になってしまったけれど。その重さを、わからぬ彼ではないはずなのだ。

 すべてが終わったら琥珀さんに渡してくれ。

 元のあいつに戻ったら琥珀に渡してくれ。

 話の中で聞いただけの、頭の中の想像に過ぎない彼らの声が糸を結ぶ。ひとつ、嫌な仮定が脳裏によぎった。
「コブラくん」と、泣きそうな声がこぼれ落ちる。「九十九さん、もしかして、九十九さん」
 末まで言わぬ私を前に、彼は何だと眉を潜め、すぐにハッと気づいたように手元の鍵に目をやった。
 九龍に復讐を果たそうとする琥珀さん。思い出の町を、その思い出ごと破壊せんとする破れかぶれのやり方は、もはや自暴自棄なものまで感じてしまう。
 昔から、彼は龍也さんしか見ていなかった。もちろん、側にいる仲間は大切にしている。それはわかっているけれど、幼い頃から傍らにいた親友に精神的な支柱を預けていたことは、改めて語る必要がないほど、皆周知の事実だった。そして、九十九さんも。
 琥珀さんが龍也さんしか見ていなかったように、彼は琥珀さんしか見ていない。そのことを私は知っている。九十九さんしか見ていなかった、私が誰より知っている。

「琥珀さんのために、死のうとしてましたよね」
 珍しく歯切れの悪い返答をする彼が、「別に、死のうとはしてねえよ」と言葉を濁す。
「でも、死んでもいいと思ってた。万が一のために、コブラくんに鍵を託したんじゃないんですか?」
 黙りこくって、目の下に影を落とす彼の姿に思わず声を荒げてしまう。
「勝手すぎるんですよ、貴方は!」
 抗争が終結したと報告を受けたとき、帰ってきたら殴ってやる、と心に決めた。一度思い知らせてやる、と心に決めた。でも、満身創痍の彼を見たら、決意が削がれてしまった。
 生きていてくれたことに安堵して、ボロボロの身体が心配で、また姿を見せてくれたことが嬉しくて、そんな、こちらの一方的な好意に守られている彼が、憎らしくてたまらなかった。
「何も言わないで居なくなって、何の説明もくれなくて、一度も会いにも来てくれなくて、私がっ、どれだけ、探したかっ」
 ぎり、と頬に歯を立てる。その痛みをもってしても、タガが外れた嗚咽と滴は止まることを知らなかった。
「こんなの、私の勝手な想いだって、はた迷惑な考えだって、わかってるけどっ──貴方が琥珀さんを大切に思ってるように、貴方が居なくなったら生きてる意味なんてわからないくらい、大切に想ってる人間がいるってこと、ちゃんと知ってください!!」
 潰れて裏返る声で、押し殺せない震えを抱えたまま、服の袖で滴を拭う。
 これ、いつ止まるのかな。どこか冷めた態度で静かに焦る私の動きを閉じ込めるように、大きな熱が身体を覆った。
「ごめん」
 私の名前が紡がれて、少年のような響きを持った「ごめん」が頭上から降り注ぐ。
 あぁ、だから、そんな中途半端な、温かな熱で包まないで欲しい。
 額を押し付けたシャツからはタバコと汗と血の匂いがして、病み上がりのくせに、病み上がりなのに、とまだ言い足りない説教が、形にならない呻きとなって彼の中へ吸い込まれていった。
 もう、どこにも行かせてたまるか、とありったけの力を込めて腕を回す。私の力など、取るに足らないものなのだから、貴方から来てくれないと意味はないのに。
 僅かに残っていたエネルギーをすべてぶつけてふらりと目眩がしてきた私の身体を受け止め、滲む汗で張り付いた前髪を彼が静かに払い除ける。徐々に落ち着いてきた呼吸のまま見上げれば、そんな表情もできるのか、と驚くばかりの沈痛な面持ちがこちらを覗き込んでいた。痛々しい傷に手を伸ばし、そっと皮膚に手の平をかざす。九十九さんの左手が、私の指先を握り込んだ。柔らかな熱さが皮膚を伝う。指先をそっと、掴んだ。
 不意に手を引かれたと同時に、彼は身をかがめ、近づいてきた顔を前に、私は無意識に目を閉じた。まなじりに溜まった雫が一筋、緩やかな軌道を描く。温い水滴が辿り着いた先に、熱が触れた。
 手首が引かれ、背中を支える手のひらの強さから、一歩、距離が縮まる。彼の服に触れた手で、なぞるようにその布地を掴めば、さらに深く押し付けられ、私は少し背伸びをしながらその想いに応じた。
 小さく音を立て、離れていくと同時に瞼を開く。無骨な顔に似合わぬ甘やかな空気を纏い、愛しい男が静かにこちらを見下ろしている。
「……帰る」
 急な呟きに目を丸くする彼の袖口を引っ張って、公園の敷地を跨いで、黙って道を引き返す。街灯を曲がろうとしたそのとき、密かに立っていた人影にぶつかりそうになって、私は肩を震わせた。苦虫を噛み潰したような表情をした琥珀さんが、何か言いたげに口を開きかけて、何も言わずに口を閉じた。
 大きく息を吸い込んで、首をめいいっぱい伸ばしながら、彼の鼻先めがけて私はまっすぐ指をさす。「傷が治ったら!」
 不意をつかれたように、彼は両目を見開いた。
「一回ちゃんと殴らせてください」
 琥珀さんの唇が薄く開き、「あぁ」と、同意の声が漏れた。ひっそりと上がる口角を隠しながら、私は彼の右腕を掴み、そのまま無理矢理先を進んだ。
「小竹さんとこ行く! 愚痴聞いてもらう!!」
 両隣に捕まえた大柄な男たちの顔に目も向けず、目的地までの道を辿る。ただ前を見つめ続ける私の頭上から、微かな笑い声が聞こえた気がした。
 心は痛んでも、後悔はない。
 いつまで経っても変わることのない、その想いを引き連れて、私は彼らと共に立つ。
 なんて、かっこつけてるのは私も同じか。

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