朝が来た。視線を感じる。寝返りを打ち、寝ぼけ眼を薄ら開ければ、またもや大きな黒い目がじっと九十九を覗き込んでいた。
「……なんだよ」
 同じことを繰り返しているな、と彼は頭の端で思った。ひとつ異なっていたのは、珠夜が逃げることなくその場に留まっていたことだ。ゆっくり身を起こせば、彼女は首を伸ばして九十九の顔を見つめた。
「言いたいことあんなら言えよ」
「……おひげ」囁くような声が聞こえた。
「あ?」
「おひげ!」
 短い指を向けながら、珠夜はきらきらした眼差しで彼の口元を示した。何だ、と九十九は眉を顰める。こちとら男だ。朝になれば髭くらい生えるわ。文句あんのか、とでも言いたげに彼は「うるせえ」と珠夜の頭をこついた。
 ぼう、と未だ覚醒しない頭のまま廊下へ出る。てちてち、と小型犬が歩くような音に振り返れば、パジャマを来た珠夜が後ろをついて来ていた。今までは「来い」と言わなければ、ずっと部屋に篭りきりだったというのに。戻れ、と指示することもできたが、別段邪魔にもならず、そのままにしておいた。
 人気のない洗面台で顔を洗い、九十九はその場にあった剃刀に手を伸ばした。鏡を見やり、刃先を肌に当てる。瞬間、ぐい、と足元が引かれ彼は目を瞠った。
「っぶねえな、何だよ!」
「……おひげ、ないない?」
 秘密を語る如くひそやかに、加えてどこか残念そうな表情で伝えられた言葉に、九十九は固まるように手を止めた。

「おー、何だ九十九、髭なんか伸ばして」
「煩え、何でもねえよ」
 和食が並ぶ朝食の席で琥珀が声をかけてきた。むすり、と長机に肩肘をつく九十九とその隣で口いっぱいにおにぎりを頬張る珠夜を交互に見やった若頭は、大方何かを察したように満足げな顔をした。
「上手くやっていけそうじゃねえか」
「……さあな」
 それ以来、珠夜はどこへ行くにも彼についてくるようになった。別段何をするわけでもない。駄々をこねるわけでも、ぐずり泣くこともなく、ただ淡々と。急に人が変わったような懐きように戸惑いはすれど、不思議と嫌な気はしなかった。体調にさえ気をつけていれば、なんとも扱いやすい子どもだ。
 琥珀は、この娘は組の連中の手に余ると言っていた。あれは一体何をさしたものだったのだろう、と九十九はたまに思い出しては首を捻る。



 人見知り具合は相変わらずだが、彼女は琥珀と九十九には人並みに懐いているようだった。そして、やはり外よりも部屋で遊ぶことを好む少女だった。
 その日も珠夜は「若頭からのプレゼントだ」と渡された絵本を食い入るように見つめ、子ども用にしては大きく分厚いその本をよろよろしながら机へ運び、ページを開いたが最後、その場から動かなくなった。
 時折、ページを捲る音が聞こえる。一度没頭すると周りが見えなくなる癖があることは、この短期間の間に学んでいた。横合いからせっつかなければ、彼女は寝食をも忘れる節がある。身体が弱い原因はそこにもあるのではないか、と思わないこともない。
 九十九は大きな欠伸をひとつして、珠夜に目をやった。今なら席を立ってもバレないかもしれない。腹が減った、と立ち上がり、食堂へ向かう。
 食料をかっぱらって部屋に戻ろうとすれば、一人の料理番が「お嬢に」と菓子を差し出してきた。おう、と何気なく受け取れば、菓子には緑茶だなんだのと別の者が世話を焼き、急須や湯呑みを乗せた盆を押し付けてきた。自分の虫押さえのために忍び込んだというのに、これではまるで彼女のために間食を取りに来たようなものではないか。九十九は頬を引き攣らせながら、まあ、それも悪くないか、と踵を返した。
「棚ぼたで上がってきた奴は気楽でいいねえ」
「おい、しょうがねえだろ。ガキの相手はガキにしかできねえんだから」
 渡り廊下を進む途中、当て付けがましく吐かれた声に彼は歩みを止めた。見れば、いい歳をした組員が数人より集まって、下卑た笑みを浮かべている。視線の矛先から見て、それは明らかに九十九に向けられた言葉だった。そのくせ、柱の影からこちらを盗み見るような陰険な態度が気に入らない。
 こんなことをやるのは自らを棚上げした表の世界の住人の特権だと思っていたが、これを見るとどうやらそうでもないらしい。女の腐ったような奴らだ。癇に触る。
「文句があんなら直接言えよー。それともそんな度胸もねえのか」
「あァ?」
「いい気になんなよ、新入り!」
 いきったツラがぞろぞろ出てきた。揃いも揃って小物じみた風格だ。
「若頭がテメエを引き立てたのはただ子守の枠が空いてたからだ。目をかけられてるなんて勘違いすんじゃねえぞ」
 なるほどそういうことか、と口から乾いた笑いが零れる。男の嫉妬は醜い、とはよく言ったものだ。人の底が知れる。
「その子守ひとつ任せられねえんじゃ、この組の奴らもたかがしれてんな」
「何をっ」
「──おい、待て。お前まさか、知らねえのか?」
「あ?」
 九十九の言葉を受け、男たちは「なるほどな」と、勝ち誇ったような笑みを覗かせた。その態度が気に入らず、一発伸してやろうか、と進み出た彼は、次の瞬間顔色を青く変えた男たちの様子に眉を顰めた。彼の後ろ、更に言えば足元の方に皆が目を向けている。視線の先を辿れば、そこには真っ直ぐこちらを見つめる珠夜の姿があった。黒々とした眼に射抜かれ、彼らは怯んでいるように見えた。
「今回は、どれだけ保つか楽しみだな」
 捨て台詞を吐き、そそくさと去っていく背中に舌打ちを送りながら、九十九は棒立ちのまま深く俯く珠夜の前にしゃがみ込んだ。
「何だよ、もう読み終わったのか」
 こくり、と彼女がひとつ頷く。
「腹、減らねえか。饅頭かっぱらってきたから食おうぜ」
 ややあって、少女がまたひとつ頷いた。前髪に隠れて表情が見えない。緩く服を掴む小さな手を引き剥がして繋ぎ直し、彼らは部屋へと戻った。

 盆を机にのせて胡座をかく。湯呑みに茶を注ぎ、彼がせんべいを食らい出しても珠夜は側を離れようとしなかった。固く拳を握ったまま、腰も下ろさず仁王立ちになっている。
「食わねえのかよ」
 だんまりだ。起動停止した機械人形のようにびくともしない。九十九は先ほどの情景を思い起こした。彼女は、一体どこから話を聞いていたのだろう。その幼さからすべてを理解できるとは到底考えられないが、あの場の空気から何か不穏なものを受け取ってしまったことは確かだろう。その原因に自分が絡んでいることも。
「気にすんなって」と、九十九は小さな頭を乱暴に撫でた。「お前は何も悪くねえよ」
 一瞬、全身の筋肉が強張るのが見て取れた。
「っと」
 遠慮がちに方向転換したと思った矢先、彼女は少し背伸びをして、九十九の首元にしがみついた──震えている。小さく息を吐き、珠夜の身体を抱えてやれば、彼女は更に力を込めて彼の肩口に擦り寄った。
「……心配すんなって」
 あやすように背中を軽く叩いてやれば、耳元で微かな声がした。「ん?」
 息を漏らすような空気の振動は言葉にならず、九十九は「聞こえねえよ」とせっついた。
「──ちゅくも」と、囁く声が呼ぶ。
「あ?」
「ちゅ、く、もっ」
 今度は、はっきり耳に届いた。
「……言えてねえよ」
 至極冷静に返答すれば、珠夜は愕然として顔を上げた。ショックを受けた表情を見るに、彼女にとっては勇気を出した行動だったのかもしれない。恥ずかしさからか悔しさからか、彼女の頬には赤みが差し、唇が小刻みに震え出した。
「ちゅ、ちゅくも……」
「だから言えてねえって」
 への字に曲がった唇を前歯でぎり、と噛んだ後、彼女はやぶれかぶれとも言うべき大声で「つ、つゅくも!!」
「……もうそれでいいわ」
 小っ恥ずかしさを飲み込んで、彼は静かに動揺を隠した。大切なものを口にするように、そっと紡がれた自分の名前が、身体の芯に触れるように柔らかさをもたらした。軽口を叩いて凌いでみるも、微かに早まった鼓動は隠せない。気を落ち着けようと流し込んだ茶の熱で、彼は派手に舌を火傷した。



 彼女を寝かしつけるのも板についた。風呂に入れて、歯を磨かせて、トイレに連れていって、と決まったルーティーンをこなせば、あとは大人しく珠夜は布団に入って絵本を読みながら眠りに落ちる。
 この日も彼女は、本棚いっぱいに並べられた背表紙を真剣に眺めながら、お気に入りの二冊を引き出して枕の上に立てかけた。楽しげに足をぱたぱたと動かす姿を観察しながら、九十九は布団に横になって頬杖をつく。「お前、字読めんのかよ」
 くるり、と丸い目が彼を見た。
「──あめは、にじのタネなのよ、と、きつねのおかあさんは、いいました。おひさまの、ひかりにてらされて、なないろのみちを、さかせるの」
「へえ。すげえじゃん」
 てっきり絵を眺めているものとばかり思い込んでいた九十九は、突如披露された朗読に感心し、素直に思いを口にした。珠夜はどこか自慢げに背を逸らし、なお一層ばた足を強くした。右に左に尻尾を揺らす小犬の姿が頭をよぎる。
「つゅくものおかあさんは?」
 無垢な眼が彼を見つめた。
「……いねえ」
 ぱちり、と一度瞬きをして、彼女は小さく首を傾げた。
「おとーさんは?」
「いねえって」
 じ、と見られる視線に居た堪れなくなって、九十九は居心地悪く布団に寝転がった。話は終わりだ、と暗に示すため、わかりやすい態度をとったつもりだった。
 もぞもぞと動き出す違和感に、思わず掛け布団を捲り上げた。見れば、彼の元へ潜り込んできた珠夜がぐりぐりと胸板に顔を擦り付けている。
「なにしてんだよ、お前」
 顔を上げれば、薄らとおでこが赤くなっているのが見えた。ものを言わず自分を眺める珠夜の髪を何となく梳いてやれば、彼女は小さく服を掴んで、心臓に耳を寄せるようにして眠りの体勢をとった。
「一緒に寝ろ、ってか」
 ぴたりと身を寄せる弱く柔らかな熱を潰さぬように気をつけながら、彼は羽布団を引っ張った。
「漏らしたらただじゃおかねえからな」
 一つ分のスペースに二つの姿が横になる。時計の秒針を刻むような、しかしもっと優しげな音を聞きながら、程なく二人は眠りに落ちた。

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