慌ただしく人が出入りするアパートの一室、玄関の前で男はまっさらな手袋をはめ、丸型のサングラスを押し上げた。上下共に無機質なまでに白い衣服を纏う彼の出で立ちは、生活感の漂う室内において異質以外の何物でもない。加えて、廊下を行き交う人々の大多数が同じような衣服を着ているというのだから、側から見て、それは異様な光景だった。
 尤も、今まさにこの場所で異常事態が起きていることは確かな事実ではあるのだが──
「お疲れ様です、六ツ木警部」
 同僚のコウの顔を一瞥し、鑑識課のリーダーである彼は簡潔に尋ねた。「状況は」
「まあ、ご覧の通りです」
 ちらりと視線を向けた場所、リビングの中央に広げられたカーペットの上には広範囲における赤黒い染みがある。
「同じ手口か」
「ええ」こともなげに彼は言った。「例に漏れず、すべての部屋や物からは一切の痕跡が拭い取られていました。先日売り出されたマンションのモデルルームの方がまだ人の反応が出るでしょう」
「……ゴーストのお出ましってわけか」
 彼らがその奇妙な事件に遭遇したのは、数ヶ月前のことだった。
 都内で起きた失踪事件。名の知れた議員の息子の自宅から見つかった大量の血痕が、すべての始まりだった。上層部から発破をかけられ、余念なく行われた初動捜査で、六ツ木率いる鑑識の面々は、異様なものと対峙させられることになった。
 現場に残る僅かな存在の欠片。どれだけ意識しても零れ落ちる人の痕跡を探し出し、事実への足がかりをつくる。そんな職務を全うせんとする彼らの前に現れたのは、文字通りの「無」だった。
 犯人の痕跡、どころか、ガイシャの痕跡も見当たらない。毛髪、指紋、唾液に皮膚片。生活を営んでいれば必ず残るはずの存在そのものが綺麗さっぱり洗い流されてしまったかのようだった。部屋の中にある衣服や食料、生活必需品の数々から感じ取れる人の気配が、ミクロの視点から得られるものがないという事実を、より得体の知れないものに変えていた。
 唯一残された手がかりは致死量に達する大量の血痕だけ。しかし、それも犯人が後から特定の場所に血を撒いたことが推測され、気味の悪さに拍車をかけるには充分だった。
 実体のないゴーストが起こした犯罪。未だ解決への糸口が掴めないこの事件を、いつしか警察の人間はそう呼ぶようになった。
「これで何件目だ」と、六ツ木は言う。
「今月で二件。トータルで言えば、これで五件目かと」
「また上の連中が五月蝿くなるな」
「好きに言わせておけばいいんです。自分の椅子を守ることしか能のない連中がいくら喚き立てたところで出ないものは出ない。現場を蔑ろにした挙句、我々下の人間に偉そうに抜かす輩が、更に上の権力から押さえつけられるのを見物するいい機会です」
 ポーカーフェイスに幾ばくかの嫌悪を滲ませる同僚に、六ツ木はふ、と口の端を上げた。「お前、なかなか言うな」
「オフレコでお願いしますよ? 当面職は無くしたくありませんので」



 野次馬が集まるエントランス前に引かれた立ち入り禁止のテープを抜け、六ツ木は研究所へ向かおうと、愛車を停めた駐車場へと移動した。人気のない歩道に面したその場所で、彼はふと立ち止まる。車道を挟んだ向こう側、子供たちの声が騒がしい公園の前に一人の少女が立っていた。電信柱にもたれるようにして背を丸め、棒のついた飴をくわえる彼女は、黒いパーカーを目深に被り、こちらを見据えているように見えた。アイツは──
 方向を変え、六ツ木は少女の元へと歩みを進めた。車通りの少ない道路を突き抜け、ガードレールを足蹴に越えた長身の男を、少女は首を傾げるようにして見上げた。
「こんにちは?」用があると悟ったのだろう。狼狽ることはなく、しかし些かの疑問をもつように彼女は尋ねた。「おにいさんは刑事さん?」
「……刑事じゃねえが、警察の人間だ」
「へえー。じゃあやっぱりあのマンションで事件があったって本当だったんだ。何が起きたの? 殺人事件?」
「生憎、一般人に話せる情報はねえ。ガキは首を突っ込むな……と、言いてえところだが、幾つかお前に訊きたいことがある」
 唯一表情が確認できる少女の口元が、にやあ、と愉しげに歪む。待っていた、と言わんばかりに彼女は明るい声を出した。「なあに? いいよ。なんでも訊いて、警部さん」
 サングラスの下から少女を見据え、六ツ木は低い声を出す。
「お前、前の現場にもいたな?」

 おかしい、とは思っていたのだ。
 初めにそのことに気づいたのは三件目のゴースト事件が発生したときだった。野次馬の後ろから気怠げにこちらを見やるパーカー姿の少女。その姿に、六ツ木は既視感を覚えた。記憶を辿れば、答えはすぐに出た。一件目、二件目の現場。そこにも彼女は、同じように野次馬に紛れ、何かを見届けるように行く末を見つめていた。四件目ではタイミングを逃し、五件目。彼の疑念は確信に変わりつつあった。
「何が狙いだ。何故この事件の現場に現れる。お前は何か、関わっているのか?」
「待って待って警部さん。一度に質問しないでよ。それに、顔怖い」
 ポケットに入れていた手を出して、彼女は舐めていた飴の棒を持った。
「野次馬根性が強いんだよねえ、私。最近立て続けに事件があんじゃん。なんかすごーく気になっちゃってさあ。だって興味そそられない? 現場にまったく痕跡の残らない事件、なんて」
 ニヤニヤとした声を出しながら、小さくなった飴をくわえ直す。そんな彼女を見据えながら、六ツ木は眉を潜めた。「……お前、何故そんなことを知っている」
 緘口令が敷かれてるんだぞ。
 彼が告げれば、がり、と砂糖の砕ける音がした。
 顎を上げる少女の顔に光が当たり、影の間から両眼が覗く。睨みつけるような鋭さをもった目は、ゆっくりと三日月型に弧を描いた。
「権力がどれだけ力を敷いたって、噂は防げないものでしょ? 近所の人たちが噂してたよ。ゴーストのことも」
「つまりお前は、この事件に何も関わっちゃいねえ、と」
「えー、だってえ」と、彼女は微嗤う。「──証拠がないんでしょ?」
 でもひとつだけ、と彼女は言葉を続けた。
「こんな噂を聞いたことがあるよ。都市伝説みたいなものだけど。便利な便利な掃除屋の話。彼女に頼めばどんなものも残らず消してくれるんだって。まるで初めから何もなかったかのように。塵一つも残さずに。綺麗好きにもほどがあるよねえ。私ズボラだからわかんねえや。彼女に消せないものがあるとしたら、それは人の記憶くらいかな?」
「その女は何者だ。まさかゴーストとでも言うつもりじゃねえだろうな」
「都市伝説だよ、警部さん。口裂け女やトイレの花子さんの身元なんて、調査する物好きはいないでしょ?」──でも、と彼女は表情を固くした。「考えてもみてよ。警部さんならわかるでしょ。この国で毎日のように消えている人間の数。今回の一連の事件の被害者だってそうだけど、七年……七年経てば、彼らの死亡届けが出せる。どこかで足掻いて生きてても、助けを叫んで生きてても、国は紙切れ一枚で彼らの命を潰せてしまうの。残された人の記憶からも完全に消えてしまえば、彼らは文字通り、生きながらの死を味わうことになる。そう言う意味では本当に、彼らは実体のない幽霊なのかもね」
「……この事件の犯人は、そんな奴らだと言いてえのか」
「やっだなあ。あくまで噂、だよ」
 噛んでいた棒を茂みに放り、彼女は新たな飴を取り出して、嬉しげに口に頬張った。
「警察の人たちも徐々に退き出したねぇ。野次馬は増える一方だけど。私もそろそろ帰ろうかなあ。今日はお家でやることあるし。そんじゃあまたね、警部さん。犯人の証拠、見つかるといいねえ」
 踵を返す彼女の背に、六ツ木は言葉を投げかける。「俺が探してやる」
 ぴたり、彼女の足が止まった。
「そいつがどんな想いで、どんな目的があってこんなことを起こしているかはわからねぇ。だが、助けを求め、足掻き叫んでると言うなら、見つけ出してやるよ──俺は、女泣いてんのが我慢ならねえんだ」
「……見つけ出せるかな?」
「ああ。やれるさ」
 喉の奥で嗤いながら顔を伏せ、振り返る彼女は晴れやかな顔をしていた。
「それじゃあ、期待してみようかなっ。幽霊バーサス鑑識官? なんだかすげえ面白そうじゃん。結果が出たら教えてよ。また野次馬に来てあげるから」
「上等だ」と、彼は言う。「人に傷つけられた女の心は、人が救い出してやる。俺がゴーストを人間に戻してやるよ」
 静かに放つ宣戦布告を互いの身体に巻きつける。
 そんな二人の間を目に見えぬ風が通り抜けた。

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