眼前に掲げられた警察手帳に男は動揺した。
「なん、のことでしょうか」乾いた口で告げた言葉は辛うじて裏返ることなく声になる。
「白々しい嘘吐いてんじゃねェよ。この店が裏で賭博やってんのは調べがついてんだ。そこに通せっつってんだよ、言葉通じねェのか」
 眼光の鋭い捜査官が片目を極限まで細め、店員を睨む。恐怖から受け答えの全てが吹き飛び、彼は隠せぬ緊張を飲み込んだ。このまま知らぬと押し切るか、それとも誰か助けを呼ぶか。ぐるぐると巡る思考がパニックを起こす直前、はっきりとした女の声が耳に届いた。
「その人を通して」
 背後に立ったオーナーの言葉に彼は目を丸くする。「でも──」
「いいから」有無を言わさぬ声がした。「後は任せて」
 戸惑う店員は、言われるがまま捜査官に道を開けた。不敵な笑みを浮かべながら横目でこちらを見やる男の視線は、まるで勝ち誇るような、蔑むような色をして、善人のそれとは言い難い。声や音がひしめく店内に紛れ、ひっそりと奥へ消えた二人の姿を彼は呆然とした顔で見つめていた。

「たちの悪い冗談はやめてください」
 カーテンを抜けた先、廊下の向かい側から伸びる階段を降りながら彼女は言った。
「新人が入るたび儀式のように毎回毎回。何がそんなに楽しいんですか」
「ア? 見込みのねェ餓鬼表に据えてるそっちに問題あんだろうが」いかにも不機嫌といった声色で男は言う。「あいつァ教育し直す必要があるな。サツの一人に睨まれたごときでビビりやがって情けねェ。どこの世界にガサ入れに単身乗り込む馬鹿がいるってんだ。ああいうとこから情報は漏れてくんだぞ。摘発受けて店潰してェのか」
「この店がなくなれば、貴方も随分困りますもんね」
 目を細め、彼は口の端を吊り上げた。
「ゴロツキが介するゴミ溜めじゃァ使える情報が集まるからな。俺にしてみりゃこの店は、いわば必要悪だ」
 ──どうだか。鼻で笑いたい衝動をすんでのところで押し留める。気取られれば後が面倒だ。この短時間で神経がすり減るのを感じながら、彼女は小さく息を吐いた。
 地下へ辿り着き、彼女は黒塗りの分厚い扉を押し開けた。防音に長けた重たい扉の向こうは、如何わしくも賑わう欲のるつぼだった。ルーレット、ポーカー、スロット──各々群がる輩たちの一喜一憂する声が、胸糞悪い金の匂いと共に辺りに漂っている。
 部屋の中心で歓喜と絶望に雄叫びを上げる男たちに焦点を当て、彼は真っ直ぐ歩みを進めた。悠々とした足取りで背後をとり、勝ち誇った顔の客の肩に手を乗せる。「随分と愉しそうじゃねェか。俺も混ぜてくれや」
 辺りが瞬時に凍りつく。彼らの怯えと嘆きが空気を介して肌に伝わった。
「日向……」振り返った客の一人が顔を痙攣らせる。
「景気がいいみてえじゃねェか。てめえのそのツキ、俺の前でも通用するか、ひとつ試してみるとするか」
 おい、と日向が振り返る。「始めるぞ」

 保安第一係、日向紀久。彼の所属先の主たる仕事は違法賭博の取り締まり、のはずだった。
「ミイラ取りがミイラになる」とは、彼の為にあるような言葉だと彼女は思う。担当を続けるうちに目覚めたか、きらいのものかはわからない。しかし、警察に所属する身でありながら、彼がギャンブル狂いの賭場荒らしであることは、界隈の人間にとって周知の事実だった。
 若いディーラーに場所を譲ってもらい、オーナー自らカードを切る。ど真ん中の席を陣取り、横柄な座り方をする日向の姿に、彼女はため息を吐きたくなった。調子づいていた客はすっかり意気消沈し、両隣には空白が空いている。気持ちが折れたところで負け戦の道を敷いていることに、彼らは気づいているのだろうか。
「4カード」
「フルハウスだ」
「ストレートフラッシュ!」
 回が進むごとに、彼の前にはチップが積み上がり、室内には高嗤いが響き渡った。それと比例するように、他の客たちは頭を抱え、歯軋りし、罵倒の数が増えていく。やぶれかぶれの面持ちで酒を頼む輩も増え、彼女は胸ポケットに挿したボールペンを使ってメモを取り、その都度ウェイターに渡していった。記憶が消えても、アルコールに現実を消す作用はない。意味のないことを、と呆れた思いを抱く彼女も、しかし気持ちは理解できるような気がした。
 日向の勝負運の強さは、はっきり言って並外れている。確かにポーカーは運任せのゲームではない。知能と心理戦を駆使し、ことを優位に運ぶことは可能だ。しかし、彼の場合、頭脳を有した賭け事だけにはとどまらず、あらゆる勝負で結果を残す、界隈からすれば文字通りの厄介者であった。
 もちろん、負けが続くこともある。しかし彼は、勝つまでやる。勝ち続けるまで、金を落とし続ける。真に日向という男が恐ろしいのは、最後には必ず勝つ、ということだった。一度腰を据えたが最後、運命の女神を脅し、味方につけさせるような気迫が彼にはある。勝ち逃げは許さない。自分もそんな野暮はしない。その場の有り金すべてが自分に向かうまで、彼は勝負をし続ける。賭場荒らし、と言われる所以はそこにあった。
「てめェの運が俺を上回ることはなかったなァ?」せせら嗤うような声が客の心を蝕んだ。「出せる金も底をついたようだしこれじゃあ勝負にならねェ。ここいらでやめといてやるよ。おい、これ入れとけや」
 雪崩を起こす大量のチップを袋に詰め、彼女は出口へと向かう日向の後を追った。
「──貴方、いつか刺されますよ」忠告じみた感想を率直に述べた。「仮に日向さんが死んで事情聴取に来られても、心当たりが多すぎて的を絞れません。永遠に犯人に辿り着けなさそうですね。貴方は、恨みを買いすぎる」
「あんなチンピラ共、束になってかかったところで俺の相手にァならねェよ」
「余裕、ですね。相変わらず。まぁ、刺されるなら、その前に私なんでしょうけど……」
「あ?」
 肩越しに眉根を潜める日向と目が合った。
「目、付けられてるんですよ、私。客からも、上層部からも。警察怖さにイカサマ営業してるんじゃないか、って。迷惑してるんですよ、結構。気づいてましたか、ねえ?」
「お前がんなことできるたまかよ」と、彼は吐き捨てるように息を吐く。「ソイツら何もわかっちゃいねェな。馬鹿と会話するにァ骨が折れる」
 ──随分とみくびられているようで、と彼女は苛立ちに奥歯を噛み締めた。
 重い扉の外に出て、麻の袋を押し付ける。「換金したら、裏口から出てくださいね。この量はいくらなんでも目立ちます」
「誰に向かってもの言ってる。なめてんのか、お前」
「すいません。ルールがわかってる方は来店の際も表口は使わないので」
 皮肉混じりの言い方をすれば、彼は小さく舌打ちを飛ばした。袋を肩にかけ、踵を返し、暗い廊下を気怠そうに進む。日向は、後ろ手にひらひらと手を振ると、闇に消えた。
 姿が見えなくなったことを確認し、彼女はポケットからスマートフォンを取り出した。アプリのボタンを押し、起動を待つ。だいぶ、ネタも溜まったか……と、彼女は撮り溜めた写真と音声データに目を向けた。盗聴、盗撮用のデバイスを取り付けたボールペン。彼女は以前から、賭博に興じる日向の姿を少しずつこの中に収めていた。余裕をかます鼻につく表情をいつか崩してやる、と反旗を翻すタイミングを狙っている。切り札は、揃いつつあった。
「待ってろよ……?」
 ぎりぎりと拳を握り締めながら、日向の消えた先を睨む。苦虫を噛み潰した表情で、彼女はいつか来るその時を頭に思い描いていた。



「おらよ。持ってけ」
 薄暗い路地裏の店で、日向は紙幣の詰まったボストンバッグを机の上に乗せた。堅気の者とは言い難い様相の男がチャックを開け、中を覗き込む。「確かに、受け取った」
 自分の脇へバッグを下ろし、彼は煙草の煙を吐いた。
「しかしアンタもよくやるなあ? たかだか女一人の為に危ない橋渡ってよ」
「てめェと無駄話するつもりは毛頭ねェ。帰るぞ」
「まあ、待てよ。万が一にもないとは思うが、お前ら、グルってことはねえよなあ……?」疑いの眼差しを突き刺すように、男は日向に視線を向けた。「どうもかしらが疑っててよ。なかなか聞く耳持ってくれねえんだ」
 ひりついた空気も意に解さぬように、日向は彼を鼻先で笑った。「そんなに気になるってんならアイツの動向調べてみろや。食いもンにされるとでも思い込んでやがるのか、俺を貶めようと小細工使う始末だ。まァ、それがあの女なりの仕返しの形なんだろ」
 緊張した面持ちであった男がふ、と表情を緩める。「どんな気持ちなんだろうなあ。少なからず恨みを抱いていた男が、自分の足抜けする金、裏で払ってるって知ったらよ」
 さあな、と日向は片目を細め、見下すような視線を投げかけた。「俺がお前の立場なら、んなくだらねェこと気にする前に自分の心配するがなァ」
「……何?」と、彼は眉根を潜める。「どういう意味だ」
「後ろ盾に胡座をかくのは勝手だが、それがなくなりゃ元も子もねェってことだ。組はいつまでも安泰だなんだ勘違いするなら、すぐにも足元を救われかねねェ」
 不敵な笑みを浮かべる日向に、男は不覚にも怯んでしまった。答えになっていない、と口にしても、彼は意味ありげに笑みを深めるばかり。
「まァ、てめェの悪運の強さを祈ってるよ」
 幾ばくかの謎を残して、不可解な捜査官は店から姿を消していった。

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