引き攣った声と共に大きく息を吸い込んだ。背中が焼けるように痛い。強い光を当てられたように、視界が切れ切れに脳で瞬く。寒い。冷たい。狭い。不快だ。うつ伏せで地面に身を投げ出し、思うように動かぬ四肢でもがいていると、背に何か柔らかなものを掛けられた感覚がした。
「口から吸い込め」耳元で男の声がする。小さく喘ぎながらなんとか空気を取り入れた。背中とお腹が膨らみ、痛む。「限界がきたら吐き出せや。後はそれを繰り返しゃいい」
 空気を吐く。吸い込む。吐き出す。吸う──
「少し慣れてきたみてェだな。それが地上に生きる奴の呼吸だ。死にたくなけりゃァ忘れるんじゃねェぞ」
 呻き声を上げながら、焦点の定まらぬ目を動かした。頬を付けている地面は板張りで、所々ささくれ立っている。生臭い匂いと潮の香り。揺蕩うような馴染みのある浮遊感。ここは、船の中か。
 顔の真横の床に何か模様のようなものが書かれてある。その先には等間隔に置かれた石や蝋燭、さらに奥には数多に並ぶ男たちの脚が見えた。だんだんと、自分の置かれた状況を理解し始めた。腕を動かし、床をなぞる。それは紛れもない「人間」の手だった。
「人の器に入った気分はどうだ。自由気ままな海の女神様よ」
 顔を覗くようにしゃがみ込む男の姿を睨めつける。紅の衣に身を包み、海賊帽を被った男。「ひゅ、が、っ」
「快適な海の旅、とはいかねェようだな」どこか愉しげに片目が歪んだ。
「貴、様」
 荒い呼吸を繰り返し、力を入れて身体を起こす。海水にまみれた素肌は人の器にはただ寒く、かけられた分厚い布を手繰り寄せ、私はその身を包んだ。壁沿いに集まった海賊たちが無遠慮にこちらを見下ろしている。反吐が出た。鋭い視線で辺りを見回せば、平静とした顔のヒュウガが片手を上げ、連中に向けて手を払った。顔も向けず、出てけと言わんばかりの姿に不満げな様子の者たちも幾人かはいたが、呆れた表情をしながらも彼らは皆一様に部屋の外へと向かって行った。
 禍々しく荒廃した一室で、どこからか、一滴、一滴と水の滴り落ちる音が聞こえてくる。
「何年ぶりになるだろうなァ、てめェをこの目に映すのァ」
 頬に手が伸ばされ、思わず顔を逸らした。敵意を持って彼を睨めば、心の抜け落ちた眼と目が合った。
「こんなことして、赦されると思ってるのか……」怒りを抑え、言葉を紡ぐ。「私を封じれば海は荒れる。加護は途絶える。ただ一介の海賊風情が、自然の理を壊すつもりか」
「その海賊如きに捕らえられたのは何処のどいつだ、あ?」と、彼は鼻先で笑う。「俺を裁ける奴はいやしねェ。はなから赦しも求めちゃねェよ。海にもたらされる繁栄なんざ、元からてめェの気分次第じゃねェか。凪いだ波でも嵐でも変わらず海で人は死ぬ……なァ、そうだろうが。そんな魂を、俺は何年運んだと思ってやがる」
 ヒュウガの語気が荒くなり、彼は深く息を吐いた。「てめェが出した条件だろうが。迷える死人に導きを、務めを果たしゃァ待っててやる、ってな。ところが蓋を開けてみりゃどうだ。約束の場所にお前はいねェ。どこにいるかもわからねェ。陸に一人残された俺の気持ちが、てめェにわかるか……?」
「それは──」
「あァ、そうだよなァ。てめェははなから信じちゃなかった。言葉も想いも嘘と決め込んで、俺から逃げる口実に難題吹っかけてきただけなんだろ。てめェからすりゃァ約束でもなんでもねェ。あん時それに気づかなかったのが、俺の最大の落ち度だ」
 拳を握り、震える私をせせら笑うようにヒュウガは口の端を上げた。
「弱い器に収まりゃァ容易に逃げられやしねェだろ。残念だったな。これで海ァ俺のもんだ」
 ぎり、と奥歯を噛み締める。痛い。苦しい。狭い身体に押し込められて、軽やかに動く自由を奪われた。脈打つ心臓が熱い血液を全身に送り、掻き毟られるように胸が疼く。上手く息ができない。眼前で唇を歪める男に殺意が沸いた。命を、奪いたい衝動に駆られる──
 勢いのまま飛び出した両腕がヒュウガの首を掴んだ。ぎりぎりと締め上げる手の甲に血管と筋が浮き立つ。命を削られる最中にいて、彼は、飄々と、嗤っていた。
 薄く目を開けた彼が焦点を合わせ、ゆっくりと手首を掴む。徐々に、徐々に込められる力に骨が軋んだ。耐え難い痛みに手を離した瞬間、頬に拳が飛んできた。床に叩きつけられるように倒れ伏し顔を上げれば、ヒュウガの頬と首筋に数本の紅い線が引かれていた。長く伸びたこの爪が肌を抉ったのだろう。己の指先に、彼の血が付いていた。
 どこか愛おしげな表情で、ヒュウガはその痕をなぞる。
「私を閉じ込めておけると思うなよ」決然と想いを口にした。
「あ?」
「いつの時代でもそうだった。男はすべてを支配しようと海を渡る。海賊は、海を掌握しようと目論む。私を封じて、神にでも成り変わったつもりか。私は蹂躙なんてされない。私は、貴様の道具にはならない」
「……てめェはまだそんなこと言ってやがんのか」
 海底が地割れを起こしたような、低く冷たい声がした。
「時間は捧げた……想いも捧げた……後は何やりゃ満足だ、ア? 疑り深いてめェは一体何がもの足りねェ?」
 暗い目をして近づくヒュウガに、思わず後退りしてしまった。青白い顔でこちらを見下ろす彼の動きがはた、と止まる。あァ、と思いついたと言いたげに彼は不気味な笑みを浮かべた。
「まだ、渡してねェもんがあったな」
 腰にさした短刀を抜き、ヒュウガは氷のような光を放つそれを眺めた。
 派手に木が砕けるような音が真横から聞こえた。目線を小さく動かせば、床に深々と刀が突き刺さっている。固まる私の前で膝をつき、ヒュウガは自らのシャツを裂き、上半身を露わにした。「欲深ェお前に捧げてやるよ」
 短刀を握り、白く浮き立つ鍛えられた胸板に刃先を這わせる。
「なにを──」
 血飛沫が飛んだ。呻き声を上げながら、彼は深く、深く、左胸に刃を差し入れた。じわりじわりと紅い液体が溢れ出る。短刀を床に投げ捨てて、ヒュウガは切り口に右手を差し込んだ。まざまざと見せつけられる異様な光景に意識が遠くなってくる。
「……お前に、人生賭けた、捧げもンだ」
 息も絶え絶えに顔を歪めて彼は微嗤った。粘着質な音をたて、何かが膝の上に落ちてくる。蠢く異物に、恐る恐る目を向けた──そこには、主人の元を離れてもなお、未だ脈打つ心臓がひとつ転がっていた。
「俺の命をくれてやる。好きに使えや」
 息が、止まる心地がした。
 目を瞠る私にしなだれかかるようにヒュウガが崩れ落ちてくる。荒い息が耳にかかり、弱々しく、背中に腕が回された。
「……てめェに焦がれるこの気持ち、神のままじゃわからねェんだろ。なら人の姿に身ィ宿して、俺の痛み、ちったァ味わえ」

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