図らずとも、第二の家のようになってしまった長屋に似た屋敷に上がり込み、床を鳴らして無遠慮に部屋を目指す。自分のために用意された一室の襖を閉め、珠夜は膝から崩れ落ちた。
 荒くなった呼吸が時折、嗚咽のような響きをもって室内にこだまする。閉じた瞼の裏に、先程の光景が映っていた。
 ──似合っている、と思ってしまった。一瞬、ほんの一瞬、お似合いだ、と。
 道を練り歩く花魁は、確かに美しかった。その手を取る日向の姿も、また。愛した男の存在が遠くに感じられ、ぽたり、手に水滴が落ちた。
 嫌だ。悔しい。こんなのは嫌だ。こんなことで傷ついて、涙を流すなんて、まるで、まるで心底あの男に惚れているようで、我慢がならない。
「……ぅっ」
 唇を結んで堪える。目元を拭うと、視線を落とした手の甲に赤と黒に滲んだ線が薄く引かれているのが見えた。きっと化粧が落ちてしまったのだろう。
 馬鹿みたいだ。馬鹿みたいじゃないか。馴染みの者たちに少し褒められて、舞い上がって、もしかしたら彼も、などと淡い期待をしてしまった。付け焼き刃のメッキなど、直ぐに剥がれてしまうのに。そんなこと、初めからわかっていたはずなのに……
 広い部屋で膝を抱え、珠夜は一人背を丸め、溢れる心を呑み込んだ。

「こんなとこで何してんだァ」
 びくり、肩が震えた。
 振り返らずともわかる声。襖に手をかけた日向が畳を踏みしめ、近くに寄ってくる気配がする。珠夜は無言を貫き、足を抱える力を強くした。
「オイ、聞いてんのか」
「──触んなっ」
 肩に置かれた手を振り払う。乾いた音がした。
 汚らわしい汚らわしい汚らわしい。触れるな触るな寄るな出ていけ。他の女に触れた手で、私に触るな──!
 ドス黒い感情が内側を渦巻き、珠夜は自分の肌に爪を立てた。
「痛ェじゃねえかよ」
 鼻で笑うような声がした。息を吐きながら、真後ろに彼があぐらをかいて座り込む。頬杖をつき、目を細め、阿修羅のような気を放つ女を彼は見つめた。
「随分とまァ、お怒りじゃねェか。そんなに気に入らなかったか」
「は? 別に怒ってないですけど」
「お前はほんっとに、嘘が吐けねェ女だな」愉しげに喉の奥で笑う声がする。「髪振り乱して逃げ帰りやがって。せっかく結えたってのに解けてんじゃねェか勿体ねェ」
 伸ばされた手を再度振り払おうとすれば、易々と手首を掴まれた。立て膝をしながら見下ろす日向を珠夜は目一杯睨みつける。
「ッハ、化粧崩れてんぞ」
 そんなこと、言われなくてもわかっている。珠夜の頭に血が上った。
「……離してください」
「機嫌直せや」
「いいから離、せっ!」
「そう言われると、ますます離したくなくなる質でなァ」
 強い力に手を引かれ、珠夜は背後から抱き竦められた。暴れるように身を捩る身体の前に腕がまわり、痛いほどに肩を掴む。
「静かにしろや、じゃじゃ馬」耳元で声がした。「まだ宵の口じゃねェか。せっかくの祭りの日にこんな離れで独りになるこたァねえだろ。俺の仕事もあれで終いだ。さっさと外、周りに行こうじゃねェか」
「ほっといてください! そもそも、私は来たくて来たんじゃない。断ったら後が面倒くさいと思ったから嫌々出向いたんです!!」
 なのにあんなものを見せつけられて、たまったものではない、と彼女は眉根を震わせる。
「そうかよ」と、抑揚の無い呟きが聞こえた。腕の力が緩められ、珠夜は彼が興醒めしたのだと思った。

 そんな訳がなかった。

「……だったらここで愉しむか」
 衣擦れの音が耳に届き、珠夜は「は?」と背後を振り返った。
 口元に笑みを浮かべながら、日向が器用に片手で羽織を脱いでいる。嫌な予感しかしない。否、恐ろしい予感しかない。一瞬の隙をついて胸板を撥ねつけ、腕をすり抜け、戸口へ急ぐ。
「オイ」不機嫌な声と共に足首が掴まれ、畳に身体が叩きつけられた。痛みに呻く珠夜の上に容易く日向の身体が跨る。
 見上げた彼の表情がいつものように憎たらしげな笑みを浮かべていたのなら心置きなく抵抗することもできたのかもしれない。しかし、頬を撫でるその眼差しが、何故か、愛おしげな色をしているものだから、彼女は一瞬、怯んでしまった。そんな隙を、彼が見逃すはずもなく──
 両手を縫い付け、首筋に埋められた熱が肌を滑る。荒々しさとは真逆の柔らかさに、背筋がぞく、と粟立った。
「ぃ、やだ、嫌だ嫌だ嫌だ!!」
「煩ェな。ちったァ黙ってろ」
 喉元に噛み付かれ、ぐ、と言葉が詰まる。
 口からひゅ、と息が漏れた。
「色気のねェ声出してんなや」と、彼は噛み跡に舌を這わせる。思わず喉を上下させれば、満足げな嗤い声が珠夜の鼓膜を震わせた。「嫉妬に血ィ滾らすお前もいいがな、たまには大人しく身ィ委ねとけ」
「待っ──」
 猛々しい口づけが言葉を封じ込めた。唇を割り入って蠢く熱い舌先が絡まり、脳髄が痺れるような感覚に陥る。力が抜けたところを見計らい、日向は珠夜の着物の襟を開いた。冷気に触れた肌に慌てて身を押し返すそうとするも、小さな手は捕らえられ、指が絡み、また床に縫い止められる。
 滑らかな白い肌に、日向はいくつも紅い絵の具を散らせた。咲き乱れる椿の如き色を眺め、彼は満足げに身を起こす。襟口から腕を入れ、着物を脱いだ日向の上半身が露わになった。白く浮かび上がる鍛えられた肉体に、珠夜は思わず目を逸らす。
「ッハ、何だ。今更照れてんのか」
「違、う……」
「じゃあ何だってんだよ。ア?」
 色香を纏う目が細まり、淡く言葉が消え失せた。一文字に結んだ唇を日向が親指の腹で撫で、裾を割って入ったもう一方の手のひらがゆっくりと脚を撫で上げる。
「……んっ」
 微弱な電流が走るように肌を伝う感覚に意図せず呼吸が荒くなる。今が冬でなくてよかった、と心から珠夜は思った。自分から漏れ出す吐息が白く宙を漂う様を見るなんて、死んでもごめんだ。
「そろそろ認めろや」耳元で囁く声がした。「……俺が惚れてんのは、お前だけだ」
 瞬間、心臓が悲鳴を上げ、じわり、涙が滲んだ。訪れた衝撃に、身体の奥が締め付けられる。
 熱い息を吐き出しながら、幸せそうに日向は笑う。
「それに、お前が心底惚れてんのも、俺だけだろうが」
「ぁ──っ」
 焦がすように当てがわれた想いが、珠夜の中を強くうがつ。幾度も、幾度も押し込まれる猛りに嬌声が漏れ、視界が潤んだ。
「ひゅ、が、さ」
「名前」
「ぁ、っ?」
「名前、呼べ」低く掠れた声がした。
「のり、のりひさ、さっ」
「……っ、珠夜」
 何度も、何度も、うわ言のように互いの名を繰り返す。
 無意識に彼女が伸ばした左手を取り、日向がガリ、と指を食んだ。細い薬指に付けられた指輪のような歯形を撫で、彼はそこに口づけを落とす。
「果てるも落ちるも共に行こうやっ」呼吸を乱して彼は言う。「お前と居りゃァ地獄だろうと真っ赤な華が咲くだろうよ──易々散ってくれるなよ? 俺ァまだ、お前枯らす気は毛頭ねぇんだ」

 脳裏に響く男の言葉が彼女を侵し、理性を溶かす。
 窮屈でいて、心地よい、見えぬ糸が彼らを結ぶ。
 産み落とされて、混ざり合う。今、この時が続くなら、何があろうと何処であろうと、すべてどうでもいいと、そう思えた。


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