「また食ってんのかよ」
 歪に折った板チョコの端を噛もうとした瞬間、隣から声が飛んできた。彼に視線をやりながら、小気味よい音を立てた甘味を奥歯で砕く。体温で解けるように溶けて広がる幸せを感じながら、ポットから注いだばかりの温かなコーヒーを一口飲めば、苦味とコクに包まれて、程よく丸みを帯びた液体が喉の奥へ流れていった。
「終わったんですか?」と、私は首を傾ける。
 ソファの前に置いた背の低い長テーブルに、何やらギアを広げて長いこと作業に没頭していた九十九さんは、返事かどうかも怪しい唸り声を上げ、肩を回しながら向かいの席に腰掛けた。
「コーヒー飲みます?」
「ん。飲むわ」
「はいはーい」と立ち上がり、食器棚から彼専用のマグカップを持ってきて、目の前に置いてやる。「ブラックですか?」
「ん」
 ポットに自ら手を伸ばしてコーヒーを注ぐ姿を横目に、私は豆乳が欲しいな、と冷蔵庫からパックを持ち出して自分のマグに足し入れた。初めて九十九さんの前でソイラテをつくったときは「そんなもん入れんのか」と、眉をひそめられたものだが、今の彼の表情を見る限り、その心境に一切の変化はないらしい。
 席に戻って、小皿に残していたチョコの切れ端を噛めば、向かい側からじっと重い視線を感じた。
「……いります?」
「いらね」
「ですよね」



 甘いものが得意、ではないが、ないと生きていけない私と違って、九十九さんはほとんど甘味を欲しない。そういえば、酒好きの甘党はそれほど見かけないなあ、などと考えながら、私は近所のショッピグモールを行きつ戻りつ、生活必需品や食料を買いに来たついでに、気になるお店を覗いてみたりしていた。
 ふと、毎月のイベントにまつわるコーナーの一角に差し掛かり、足が止まる。色とりどりの小箱がうずたかく積まれているディスプレイの上には、“バレンタイン”の文字。なるほど。どおりで最近はチョコ系の新商品が目につくはずだ。
 やけにハートが強調されたものから有名キャラのモチーフ、愛らしい動物ものや有名店の高級チョコまで、あらゆる多様さを横目に、中でもシンプルな装飾の小箱を手に取ってみた。
「……まあ、食べないだろうな」
 ちらり、と浮かんだ顔があからさまに渋い顔を作り、残念ながら商品を棚に戻す。目的のものを買って帰ろう、とレーンの端まで来たとき、不意に目を惹く美しさが私を引き留めた。
 惑星や鉱石を象った芸術的な造形。ガラスの向こうで輝く繊細なグラデーションは、さながら手を伸ばせば届く宇宙の標本のようで、しばらく見惚れていた私は、これも舌に乗せれば溶ける、という事実に気づき、小さな衝撃を覚えた。
 ──欲しい。が、しかし、意中の相手を差し置いて、自分用に買うのもどうだ? 
 くっ、と半ば漫画のセリフめいた声を漏らし、泣く泣くその日は踵を返した。



 碌なプレゼントも思い浮かばぬまま、バレンタイン当日が来た。キッチンのカウンターには、少々高めのワインの瓶。一先ず、夕食の席で出そうと買った代物だ。
 お祝い、などとわざわざ告げるつもりはないし、彼も世間一般のイベントには疎い。おそらくは気づかれず、或いは後日、そういえば……、などと思いを巡らせたとき、感づかれる程度でいい。

 夕方頃、食事の準備をしていると、玄関で無造作な解錠の音がした。帰ってきたか、と下拵えをしていた手を止めて、廊下を覗き見る。「おかえりなさい」
「ん」
「あっ、九十九さん」そのままリビングへ入ろうとした彼を呼び止めれば、目を丸くして立ち止まる。「手洗い、うがい」
 視線で洗面所を促せば、彼は「……あぁ」と呟いて、少々面倒くさげに踵を返した。

「今日なに?」
 寒いのか、腕を組んだまま食卓テーブルに体重を乗せ、そわそわしていた九十九さんが首を伸ばして台所を確認する。
「ポトフとー、あと鶏肉焼こうかなあ、と思ってて。あ、サラダも冷やしてたんだった。足りますかね? 今日昼、外で食べました?」
「軽く食った。全然足りる」
「ん。じゃあ、よかったです。あと十五分か、二十分でできますから」
 一旦休憩、とグラスにお茶を注いで彼の向かい側に腰掛ける。顔を上げると、不思議そうな顔と目が合った。
「ポトフ、まだちょっと煮込まなきゃいけないんです。先にお肉焼いちゃうと冷めちゃうんで」
 なるほど、といった表情でひとつ頷いたあと、彼は徐に立ち上がり、奥の部屋へと引っ込んだ。出来上がるまで暇を潰すのだろうか、とグラスに口をつけてぼーっとしていると、思いの外すぐに彼はリビングに戻ってきた。
「──ん」
「んっ?」目の前に突き出され、ぼやけた何かの輪郭を顎を引いて確認する。「え、これ」
 記憶に新しいラッピングが脳内で線を結び、私は目を見開いて何度も口を開閉させた。「これ、前、買おうか悩んでたやつ……!」
「マジ?」
 大きく頷き、震える指先で箱の両端に手を添える。「も、貰っていいんですか」
「お前以外誰が食うんだよ」
「い、一緒に?」
 眉を下げ、含み笑いをしながら席に戻る九十九さんに礼を言い、クリスマスを待ち侘びた子どもよろしく、ラッピングを開く。艶やかな缶の表面には、輝く両目が映り込み、流石に吹き出しそうになった。「好み、ダダ洩れてるんですね、私」
「まあ、さすがにもうわかんだろ」
「ぁ。でも、どうしよ。私、何も用意してない」
 申し訳なさげな呟きに九十九さんは眉をひそめ、カウンターのワインを指さした。「それは?」
「え、っと、ワインです」
「見たらわかるわ。何、今日飲む用じゃねえの?」
「今日、飲む用、ですね」
「だろ? それになんかさっきからチョコみてえな匂いしてっけど」
「あ、それは、鶏肉にかけるココアソースです。九十九さん、甘いの苦手じゃないですか」
「……用意してんだろ」
「し、てましたね?」
 呆れたように鼻で笑われ、徐々に頬が赤らむ。
「お肉、焼いてきますね」
「ん、頼むわ」
 ──実は諸外国のバレンタインは、男性が恋人をもてなすことが多くって、日本は圧倒的少数派だったりするんですよ、なんて。そんなこと、告げるのは野暮だし、言えば拗ねてしまいかねない。彼がどんなふうに贈り物を買ってくれたのだろう、とか、知りたいことは山ほどあるけれど、それには気付かぬふりをして、私たちに似合いのさりげない“大切”を祝うとしようか。


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