「お前──」
「来ないで!」
 急に変わった目の色にツクモはびくりと動きを止めた。獣のように妖しく光る、およそ人とは程遠い黄金色の両眼。
「……そういうことかよ」
 茫然と言葉を発し、彼はすぐにも乾いた笑いを零した。「なるほどな。ま、そりゃそうだよな。俺なんかに優しくする奴なんて、いるわけねえわ」
 唇を歪め、視界に入った大輪の薔薇を掴むと、彼はその美をむしり取るように片手で散らした。
「これはカモフラージュってわけかよ。あ? 花が好きだなんだ嘘並べやがって。化けもんの噂は本当でも魔除けだ何だっつう話は眉唾だったってわけか」
 抑えた怒りが波となって肌を伝う。一歩ずつ詰められる距離に足が竦んだ。後退りしながら目を泳がせれば瞬間、力任せに胸ぐらを掴まれ、身体が傾いた。
 爪先立ちで身動ぐ。地面の方で砂利の擦れる音がした。手首を掴み、見上げれば、嫌悪に塗れた視線とかち合い、喉の奥に重い息が詰まった。
「油断したとこを襲う腹積もりだったかよ。あ? どうした。やるならやれよ。返り討ちにしてやっからよ」
 乱暴に身体を揺すられ、息苦しさに奥歯を噛む。落ちてきた前髪が視界を覆った。
「……むり、ですよ」
「あ?」
「貴方に私は殺せない」
 
 かつて、噂を聞きつけ、教会が人を送ってきたことがあった。

 聖書を片手に敵意をもって聖具を振りかざしてきた彼らは、無抵抗に身を投げ出す女に狼狽し、哀れみ、最後には慈悲の心をもって踵を返し去っていった。
 時が進み、時代を超えても、同じことが繰り返された──私には、彼らの行いが、悪魔の所業に思えた。

 永遠の命を尊ぶものは、永遠を知らぬ者だけだ。悠久の時を悟った者は、速やかな終焉を望む。無い物ねだりなどという軽い言葉では片付けられない。彼らにはわからぬ無限の痛みが想像するに容易いからだ。
 記憶も露と消えそうなほど遠い昔、私は確かに、人だった。

 今は苦痛を塗り替えられて、何を苦にしたかは思い出せない。しかし、私は生きることに絶望し、あるとき命に見切りをつけた。
 きっと、神の罰が下ったのだろう。再び目を覚ました私は、呪われし運命に身をやつす、化け物へと成り下がっていた。

 太陽を避け、血を求め、得体の知れぬ何かに侵食される。日々変容していく意識を人であった頃の記憶で何とか押し留める。故郷を離れ、人を避け、動物を狩り、生き血を啜る日々。何のために生きているのか。何のための命であるのか。情けない、情けない、と唇を食い破り、自らを傷つけてもすぐに治癒する異様な身体に恨みを募らせる。
 人は襲わない、という最後の抵抗が災いし、神の御心を宿したハンターはいつも自分を殺してはくれない。しかし、その理由をつくるため、誰かの命を犠牲にするのは何としても避けたかった。

 私は最後の手段に出た。自己を守ろうとする本能に抗い、日の光の下、この身を晒した。人ならざる者へ変わったきっかけを、自らを殺める行いを、二度もとることになろうとは思ってもいなかった。
 皮膚が爛れ、炎が巡り、業火に骨まで焼かれんとする耐え難い苦しみを味わった。顔が無くなり、喉は溶け、声が出せなくなってもまだ、意識が絶命の叫びを上げていた。

 徐々に苦痛が薄れゆき、五感が失われていく感覚の中で、私は終わりの時を悟った。満ち足りた解放感と幸福感。これで消えることができる。やっと私は、死を迎えるのだ、と──しかし、意識は続いていた。ふわり、緩やかな流れの中で、世界を揺蕩う感覚があった。

 それは不思議な体験だった。五感のすべてが失われても、すべてを感じているような。表現し難い、得難い感覚。笑い声が見え、涙の匂いがする。苦味に触れ、日なたの温かい味がして、花の香りが聞こえた。灰と化した身体の一粒一粒が風に舞って世界を漂っていると気づいたのは、しばらく時が経ってからのことだった。
 それは人生の中で、最も面白い経験だった。至る場所の様子が手に取るようにわかる。痛みも喜びも悲しみも幸福も世界には同時に存在しているのだ、と。他人の人生を追体験しているような気にさえなった。このままでいることも悪くない。そう、思っていた。

 風の流れに気づいたのはいつ頃だっただろう。
 長い年月をかけ、文字通り、ひとつひとつ、一粒一粒、身体の破片が一処に集まっていった。光の届かぬ暗い場所。長い長い旅の終着地点。閉じた瞼の裏に闇が広がるように、しばらくは何も見えなかった。
 時が経った。
 何故だろう。五感が戻り、狭い器の中へ押し込められるような、窮屈な感覚を味わった。意思によって動かせる物が再びできた。そんな気がして、目を開けた。視界に入ってきたのは、遠い面影によぎる「私」の姿だった。

 その時、私は、ようやく不死の意味を悟った。

 何の因果か、はたまた呪いか、蘇ったその場所は、かつて人であった頃の自分が生まれ育った屋敷だった。今はもう人の気配がしない、朽ちかけた思い出の地を修復し、私は一人で生きていく。その時、それを心に決めた。
 決めるより他に、方法がなかった。



 憐むような表情で、彼は服から手を離した。あぁ、その顔の意味は知っている。今まで何度も目にしてきた。同情という名の一時の同調。
「何で、俺を助けた」
 呟くような声がした。
 地面に足をつけ、崩れた襟元を直す。「貴方が、死にそうだったから」
 足元に伏せる雌鹿を抱き寄せ、窪みの中に横たえる。空気を含む柔らかな土を、上からそっとかけてやる。
「この森は、呪われた森。夜な夜な生き血を求めた化け物が彷徨う不吉な場所。この辺りの者は伝承を気味悪がって、滅多に近づくことはありません。貴方が迷い人なら、私は道を示すつもりでした。けれど──
 傷が治るまで、回復するまで。そう言い聞かせて私は、人の真似事をしたかったのかもしれません」
 被せた土を軽く撫で、目の前でたおやかに揺れる紫の花弁に手を伸ばす。
「ひとときの間、貴方は現実を忘れさせてくれた。自然と道理から忌み嫌われた存在であるということを。この薔薇と同じですね……魔除けの話があったでしょう? あれ、あながち間違いではないんですよ」

 屋敷を囲む柵へと歩み寄り、幾重にも絡み付く野薔薇の蔓に目を落とす。無数の棘と慎ましい花の咲く蔓を私はそっと引き寄せた。
 一瞬のことだった。ツクモが目を瞠る。黒く焦げるように腐臭を放ち、それは風に舞う消炭へと姿を変えた。後に残されたのは痛々しく皮膚に纏わりつく焼け爛れたような痕。鈍い痛みをもたらす傷を私はやんわり包み込んだ。
「自然に咲いた薔薇は聖なる力を持つ。魔を孕んだ私に、触れることは叶わない。この姿に身をやつしてから、長らく諦めていました。ここに身を置くようになって、血肉となってくれた生き物を弔おうと庭に亡骸を埋めたんです。大地に還り、魂だけでも自由に野山を駆け回れるように。お墓を、創ったつもりでした」

 そこへ、風が種を運んできた。蕾が芽吹き、その存在に気づいた私は根を張る前に、とその蔓を掘り返そうとした。
「その時にわかったんです。この庭に根差した薔薇には、触れられる。枯らすことも、この身を焼くこともない。嬉しかった。昔の自分に、ただの人に、戻れたような気がして──」
 でもそれは所詮夢だ。夢は幻。現実には程遠い。どれだけ願えど、幻想はいつも風のようにこの身をすり抜け去っていく。

「歩けるようになったんですね」笑みをつくってツクモを見やる。「その様子なら、もう村へも帰れるでしょう。正体を知られたのが今でよかった。もうじき、夜も明けます。地図は、お渡ししますから。今度は迷わないでくださいよ?」
 戯けるように、明るく、軽く、別れの言葉は器用に避けて、湧いた想いは捻じ伏せる。
 屋敷へと踵を返し、傍を通り過ぎた私の耳に声が届いた。
「……ねえよ」
 低い呟きが鼓膜を震わす。
「帰る場所なんて、ねえんだって。わかってんだろ、お前。他所者に居場所なんてないことも。だから俺はここに来たんだってっ」
 なあ、と強い力で腕を引かれ、奥歯を噛んで俯いた。
「離して、ください」
「俺は、邪魔かよ」
「そういうことじゃ、なくて……お願い、離して」
「人じゃねえこと気にしてんのか。お前が何者かなんて関係ねえんだよっ」
「そういうことじゃ、ないんです、って」
「じゃあ何が──」
 腕を振り払い、飛び乗るように体重をかける。地面に叩きつけられた衝撃にツクモが目を瞠った。丸く大きな黒目の中に飢えた猛獣の姿が映し出され、その野蛮さに吐き気がする。
「もう限界なんですよ……! 私は、私の一部が、貴方を餌だと認識している! 何度抑えても、抑えても、本能が邪魔をする」
 荒くなる息を止められない。耳元で男の鼓動が聞こえる。速さを増していく脈。心臓から送り込まれる血の匂い。躍動するエネルギーを、生命の響きを、とうに私が失くしたものを、この身に取り込みたいと叫んでいる。
 灼熱の砂漠の中で飢え渇いた獣が湧き出す泉を前に首輪が邪魔して先へ進めない。今にも鎖を噛みちぎらんともがく中、必死で手綱を引いているように。
「このままいれば、私は貴方を殺してしまう。それだけじゃない。私に流れる血のせいで、貴方までこんな、呪われた化け物に変えてしまうかもしれない。そんなことになったら……!」
 脳が揺れるような感覚にひたすら耐える。抵抗もせずその身を投げ出すツクモに苛立ちが募った。
 何をしているんだ。早く逃げろ。私はまだ本気の力を出していない。今の彼であればこの程度、簡単に振り払えるはずだ。恐怖で動けない様子でもないというのに。
 小さく眉根を寄せ、ぼんやりとこちらを見つめていたツクモが私の頭の後ろを掴んだ。
 瞬間、息を飲む。
「……やるならやれよ」
 眼前に晒された首筋に慄き、私は固く目を瞑った。
 太く脈打つ血管が瞼の裏にこびりついた。思わず開けてしまいそうになった口を伸びた犬歯で噛み留め、息を殺して地面に爪を立てる。内にこもった熱が暴れ出し、冷や汗か脂汗かわからないものが肌を伝った。
「どうした。食いてえんだろうが」
 更に強く押し付けられ、香る匂いに目眩がする。唸るように荒い呼吸で抗う。抗う。抗い続ける。
 歯と爪が皮膚を突き破り、舌と唇、手のひらから血が滴った。こんなの拷問ではないか。陽光に焼かれた方がまだマシだった。
「んな気にすんなって。どうせ大した命じゃねえよ。俺が消えたところで、悲しむ奴もいねえからな」
 小さく、乾いた笑いが耳に届く。理性が徐々に薄くなり、無意識に首元にすり寄った。深く息を吸い込む。生命の味が薫ってくるようだ。舌を這わせ、急所を探す私の髪を撫で、彼は幾ばくか満足げな声を上げた。
「お前に殺られんなら、まあそう悪い人生でもねえわ」
 引き締まった肉に歯を突き立てようとした私の脳に言葉がこだました。
「──ぃや」
「あ?」
「いや……ぃ、や、いや嫌、嫌、嫌!」
 髪を振り乱し、涙声で叫びながら鼻を啜る。無様な姿を晒しながら最後の理性を振り絞る私にツクモは呆れたようなため息を吐いた。
「お前、見かけによらず強情だな」顔にかかった長い前髪を彼の手がかき上げる。「そこまでして、人なんかでいてえのかよ」
 真っ直ぐな視線が淀んだ私の両眼を射抜き、堪え切れなかった涙が頬を伝う。「私は、貴方を、苦しませたくない」
 大きな手のひらが些か乱暴に滴を拭った。
「……わかったわ」と、ツクモは呟いた。
「俺の決意が変わらねえって、お前にわからせりゃいいんだな」
「は──」
「何も返さねえまま、このまま引き返すわけにはいかねえだろ」口角を上げ、彼は決然と言い放つ。「俺、割としつけえんだ。残念だったな」



「何考えてんだよ」
 唇に付いた血を舐めとりながらツクモが眉間に皺を寄せた。
「ちょっと、昔のことを」
 興味なさげな声を出し、彼は服の襟元を引っぱって「オラ」と自分の首を晒した。
「飲め」
「あ、大丈夫です」
「何でだよっ。いっつも俺ばっか喉満たしてんじゃねえか」
「いや、ほんと気にしないでください。後でまたお散歩に行くので」
「あ? で、また関係ねえ動物殺してくんのか」
「……たまに、ほんっと嫌なこと言ってきますよね」
 ふ、と柔らかな笑みを浮かべ、ツクモが私の腕を引く。
「どちみちお前が口にすんのは獣の血だろ。俺はもう人じゃねえんだからよ」
 口をへの字に曲げて見つめれば、眉根を下げた彼が呆れた笑いを零した。随分前に止まったはずの心臓がおずおずと動き出すような、むず痒い感覚に顔を背ける。
 肩に手をかけて、牙を伸ばす。厚い皮膚を突き破れば、どろりと粘着質な液体が口の中に流れ込んだ。燻した肉を長く煮込んだシチューのような、苦味のある酒をチョコレートに溶かしたような、喉に纏わりつく血液は、少し飲むだけで身体が満たされる。じんわりと、脳にアルコールが回るように惚けた意識のまま、口を離して私はしなだれかかるように彼に体重を乗せた。
 ツクモが小さく息を吐き出す音を聞きながら、ゆったりと目を閉じる。
「まだ、後悔してませんか?」
「あ?」
「人ならざる者になったこと」
「……しねえよ、後悔なんて」
「いずれするかもしれません」
「んな先のこと考えたらキリねえだろ。少なくとも、俺は今満たされてるよ」と、彼は静かに腕を回した。「お前もだろ?」
「ん……」
 頷くように胸板に顔をすり寄せ、緩く髪を撫でる手のひらを受け入れる。

 これから続く永遠も、時代の先も、憂えることなく今だけを。影が交わり続く道でも、この想いの前ではどんな陽光さえ消すことは敵わない。例えそれが幻想だろうと、欠片でもそれを信じさせてくれた大切な人を生涯想って生きていくのだ、と私は確かに心に決めた。

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