月とアネモネ



「──怒ってんのかよ」
「え?」
 何でもない日常に差し込まれた苦虫を噛み潰したような表情の一声に、私は目を丸くした。隣を通り過ぎようとした足を止め、ソファに深く沈み込む大きな身体を見下ろす。「何が、ですか」
 ちらり、と黒い眼がこちらを伺い、無言のまま口を結んだ。その先に続くものはなく、俯きがちに目を伏せた彼は、追求できぬ苛立ちを募らせ、おそらく無意識に脚を小刻みに揺らした。
「怒ってないですよ」その背に私は声をかける。「九十九さん?」
「ん」
「コーヒー淹れますけど、飲みます?」
「……ん」



 寝返りを打てば、ベッドの軋む音がやけに響いて、鼓動がいっそう大きく跳ねた。傍で眠る人を起こしてはいないか、と肩越しにそっと振り返る。暗がりの中、穏やかに上下する布団を確認し、ほっと胸を撫で下ろした。
 瞼を閉じても意識は冴えて、この気怠さは朝にも夢にも誘ってくれることはない、とつくづく思い知らされる。天井との睨み合いに見切りをつけて、私は静かにベッドから抜け出した。
 歩けば数歩で辿り着く、くすんだ色味のカーテンを薄く開け、窓の近くに置いた椅子に腰掛ける。膝を抱え、小さく身体を傾ければ、頭を預けたガラスと同じく、きりりと冷たい光を放つ、幾らか欠けた月が見えた。
 空に浮かぶ、ぼんやりと淡い輪郭を眺めながら、九十九さんの言葉を思い出す──怒っている、か。上手く隠せていると、思っていたのになあ。

 目まぐるしい月日が過ぎた。この数年、一から十まで布に同じフィルムを映し出すように、感じるのはいつも不安と恐怖、そして喪失感。
 愛しい人が一向に目覚めぬ日々を超え、再び心を交わせたのも束の間、彼は懲りもせずに傷を作り、その身を無防備に危険に晒した。数ヶ月もの間、突如音信不通になったこともある。後日、腐れ縁の旧友とふらりと舞い戻った彼から事の詳細を聞かされ、眩暈を覚えて座り込んでしまったのは未だ記憶に新しい。
 後先も考えず、ただ降りかかる火の粉を払う、どころか、己から炎に飛び込んで行く。彼らから言わせれば、私の内に沸き立つものなど、“野暮”の一言で打ち消せてしまうのだろう。頭では、理解できる。だから、よぎる言葉を、想いを、飲み込んで、飲み込んで、吐き出すことなく、しまい込む。この感情が栄養になるなら、もはや大樹を育てるも容易いだろう。愛らしい花にもなれず、絡まる枝葉を伸ばして、それは深く根を張った。
 手を離してしまえばいい、と何度心によぎったかしれない。そんなことも、彼は知らない。
「──また何見てんだよ」
 暗がりの奥から声がして、びくり、と身体が震えた。寝起きにしては、やけにしっかりとした声に苦笑して、腕を枕にしながらこちらを見やる九十九さんに目を向ける。「起きてました?」
「ん……」彼は欠伸をすると、「冷えんぞ」と、寝ぼけ眼のまま眉間に皺を寄せた。
「ですね」
 底冷えしたことも気づかなかった鈍感な身体を縮こまらせ、申し訳程度に腕をさすりながらベッドへ戻る。縁に腰掛け、閉め忘れたカーテンの隙間から床まで伸びる月明かりの一線を辿っていると、背後に人の気配を感じた。
「ん?」
 いつの間にか起き上がっていた九十九さんが私の頭に額を乗せ、熱い息が首筋を滑った。
「九十九さん?」
「……やっぱ言ってねえことあんだろ」
「何がですかっ」
「隠すなよ」
 不安げなため息と共に、不器用な腕が私を閉じ込める。「お前、怒ってんだろ、って」
 しん、とした空気が耳に痛い。
 空回りに終わった返答の次に詰まり、目まぐるしく回転する頭の中にふと、かつて経験した一場面が音となって姿を現した。遠い日に大切な人が放った言葉が、そのまま口をついて出る。
「怒るのは、傷ついたからですよ」
 もう無茶をしないで。ここにいて。重荷を下ろして。幸せでいて。私の想いを、ちゃんと聴いて──守りたいものを蔑ろにされるたびに、嫌いなものがどんどん増えて、笑えるほどに脆くて儚い、柔弱な愛が居場所を叫んでは、己の向かう先を懸命に指し示す。
 悪夢に起こされ、息を整えては朝を超え、聞こえる彼の寝息に肩を撫で下ろす日々を、どれほど繰り返しただろう。すべて終わったと聞かされても、信じることができぬまま、穏やかに見える日常はゆっくりと進んでいく。
 誰かからすれば、国の暗い思惑を打ち壊した彼は、讃えられるべき立役者の一人なのかもしれない。だから、私の訴えは単なるわがままで、悟られる前に折り合いをつけるべき代物だったのかもしれない。けれど──

 順不同で語られる想いの断片が彼にどう伝わったかはわからない。それでも時折、九十九さんは「ん」と呟いて、拗ねたような面持ちで身を寄せる私を片膝を立てて受け入れてくれた。
「……もう、あんな喧嘩しねえよ」
「あんなの喧嘩じゃないですもん。抗争ですもん、ただの」
 吹き出す息の振動があって「だな」と、笑いの滲む声。
「一般市民が手を出す範疇、当に超えてるんですよ。あのエセ刑事、ボランティアよろしく人を巻き込みやがって。今度あったら金巻き上げてやる」
 肩を震わせて笑いを堪える振動が妙に心地よく、霧の晴れた感情と温かさも相まって、なんだか眠たくなってきた。
「今度の休み、なんかどっか行くか」
 九十九さんの問いかけに、閉じかけた重い瞼をこじ開けながら、ぼんやりと意識を巡らせる。「かーてん」
「ん?」
「カーテン、新しいの、買いたいです」
 わかった、と頷く彼を見上げて、まつ毛の長い両目を覗き込む。夜色に染まった眼がいやに綺麗で、ごめんね、と言いかけた口を思わずつぐんだ。
「九十九さん」少し考えてやっと見つけた、それに取って変わる言葉は、「大好きです」


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