Viking



「では尾形君、例の件は滞りなく。鶴見君にも伝えておいてくれたまえ」
「かしこまりました」
 酩酊の手前でも上官の態度を崩さず、しかし、覚束ぬ足取りで女の肩を借りながら奥の座敷へ消える腑抜けた背中を尾形は冷たい目で追った。手にした盃に僅かに残った酒をあおり、次を注ごうとお銚子を傾ける傍の女を手で制す。「結構です。もう帰りますので」
 片膝を立て、今にも立ち上がらんとする彼の袖を細い指が掴んで止めた。「そうはいきません。鶴見の旦那様から言われております」
「……鶴見中尉から?」
「連れの若い男は、おそらく接待が終わればすぐに帰ろうとするだろう。しかし彼は日々重責を担い、またそれに負けぬ功績を挙げてくれている。どうか一時の間、彼の肩の力を緩め、癒してやってくれないか──と」
 無表情でこちらを見つめていた彼が微かに戸惑いを浮かべるのを見て、女は紅を乗せた唇の端をそっと引き上げた。「せめて、余分に頂いたお代の一部ぐらいは返させて下さいませ。ただ懐に入れたとあれば、バチが当たってしまいます」
 小さく眉をひそめた尾形は、不服さを隠すことなく、しかし大人しく聞き分けたように再びその場に腰を下ろした。

「大層腕のいい兵隊さんだと聞きましたよ」
 静かながら凛と響く声の女に一瞥をくれ、尾形は徐々に盃を満たす酒の揺らぐ表面に目を向けた。
「上官から信頼されるほど武勲を立てていらっしゃるなんて、まだお若いのにすごいこと」
「信頼、とは、少しばかり意味合いが異なるでしょう。元来、戦争の功績なんてものは褒められるようなものじゃない。人を殺し、場所を侵し、お国のためだ何だと大義名分を笠に着なけりゃ、やっていることは盗賊とさして変わりはありません。こちらが義だといくら声高に叫んだところで、結果次第じゃ末代まで誹られ、指をさされることもある」歪な波紋が広がる液体に映り込む己の顔を見下ろして、彼は眼を暗くした。「……向いてるんですよ。俺のように、おそらく何か欠けた人間には、この戦争ってやつがね。彼らは、そこをかっている」
 行燈の灯りを受けて、薄暗い座敷に伸びた猫背気味の影が揺らめく。盆にお銚子を置く女の影もまた、震えるように形を変えて見せた。
「欠けた人間が戦争に向くならば、総じてこの世の人間は、戦地に赴くべきかもしれません」
 平常に、しかし、およそ感情の読めぬ声で吐かれた言葉に肌が粟立ち、尾形は顔を上げた。
「生まれてこの方、人として足りた者など見たことがない。飾った上辺を剥いでみれば、大方、虚が透けて見える……尤も、私が縁に見放されたか、人の美点も見えぬ薄情者であるとも限りませんが」
 伏せた眼の先に、過去の断片でも動いているとでもいうように、女は皮肉な笑みを浮かべて見せた。思わぬ変容に口を薄く開けた尾形は、ややあって、幾らか興がる口調で問う。
「貴女がたは、男に夢を売るのが商売だと思っていましたがね。秘すれば花。本音はその美しさの妨げになるのでは?」
「夢を売る気などありません。言ってしまえば、ただの興。江戸の花魁ならいざ知らず、維新の波に呑まれて価値の下がった売女など、せいぜい泡銭相応の対価を差し出すことしかできません」
「この会話は事前に支払われた報酬の対価というわけですか。それにしては、随分とアクの強い」
「お気を悪くさせたならば申し訳ありません。どうぞ、愛にも溺れられず、枷のかかった女の戯言と思し召せ」微かに頭を下げた彼女は「ただ」と呟き、視線を上げた。「尾形様が見えすいた茶番を求めるお人には、どうにも見えなかったものですから」
 瞬間、炎が爆ぜ、朧げな灯りの光が増した。
「……名は、何と言いましたか」
「一夜を過ごすだけの相手に、名など必要でありましょうか」
 どこか丸みを帯びた、低い声が言う。「次会うときにいるでしょう?」



 それからというもの、彼はたびたび、気まぐれに、女の元を訪れるようになった。泥臭く、血生臭い、鮮烈であるほどに色を失う戦場とは打って変わって、香の匂いと緩やかな時間が流れる座敷には、薄暗くとも不思議と色があった。
 遠くから鳥の囀りが聞こえ、尾形は薄く目を開けた。深い眠りに落ちていた、とぼやけた頭で理解する。傍にいたはずの女の姿がなく、片眉を上げて見渡せば、淡い朝日が差し込む窓の側で彼女は本を開いていた。首にかけた十字の飾りに触れ、甘やかな空気を纏う──ぴり、と電流が走った。
「何を熱心に読んでいるんだ」
 音もなく背後に近寄って、抱きすくめるように手を伸ばせば、驚いた彼女は本を床に落とした。“風姿花伝”と、表紙が見える。
「世阿弥、か。花魁よろしく教養でも身につける気になったのか?」
「ええ、まあ。予想に反して、立派な軍人様相手の席が増えてまいりましたので」
「立派……」
 押し黙るような気配を感じ、女は小首を傾げた。横顔が視界の端に映り込む。真一文字に口を結び、何を見るでもなく、彼はただ一点を見据えていた。
「尾形様?」
 肩にあった手のひらに力が込められ、骨の軋む痛みに彼女は小さく顔を歪めた。
「あの、尾形様、っ」
「かつて、花魁は、愛おしい相手に自分の小指を切って贈ったそうだな。妓楼から出られぬ身でも、己の分身は貴方と共にある。ゆびきりげんまん、などと可愛い童歌になってはいるが、約束を違えばゲンコツ万回と針千本を飲ます、という脅し文句に他ならない。つまりは、それほど愛している、と」
 腕を伝って手を這わせ、そのままそっと小指をなぞる。桜貝にも似た艶やかな爪に視線を落とし、彼は呟いた。
「お前には、そんな相手が“いた”のか?」
 腕の中で強張りを感じた。無意識に十字に伸びようとした手をすんでのところで止めたのを尾形が見逃すわけもない。
「そんな殊勝な心持ち、私と相入れぬことはおわかりのはずでしょう?」平静を装いきれぬ、苦々しい物言いだった。「自分の一部を切り取られ、添えぬ誰かを待ち侘びるだけの身など地獄です」
「……そうだな」
 会話が途切れ、耳には数を増して朝の訪れを告げる雲雀の囀りばかりが届いた。
 脱力した男の拘束から抜け出して、「そういえば」と、彼女は声を出す。「先ほど、読んでいて気づいたのです。尾形様が以前おっしゃていた言葉。どうも意味を違えているご様子、と」
 本を拾い、彼女は「あ」と眉根を下げた。「付箋がわりに、と挟んでいたのですが」
 先ほどのはずみで、こよりが落ちてしまった、と頁を見失った女が嘆く。
 細くよられた和紙をつまみ上げ、尾形は光に透かすようにして、指先でそれを弄んだ。容易く破れそうで、しかし、より重なって固く糸のようになった薄い紙の先が、一片の花弁のようにくるくると回っている。「これを貰ってもいいか」
「え? えぇ。それは、勿論」
 何が気に入ったのか、満足げに微笑まで浮かべる顔を見上げていると、視線に気づいた彼がするりと彼女の髪を梳いた。
「代わりに俺は何を贈ればいい?」
 不意を突かれて呆けた女は、いくらか頭を巡らせて、やがてぽつりと、口を滑らせた。
「尾形様が戦死した折、骨の欠片でも下されば」
 面を食らって目を瞠り、やがて彼は困ったように頭を擦った。
「縁起でもねえことを言う女だな」
 その声が妙に優しかったことを、「わかったよ。約束だ」と、絡めた指が温かかったことを、彼女はその後も度々、ありありと思い出せた。



 最後の別れから、ひと月が経ち、ふた月が経ち──その後、日露戦争が終結に向かったとの知らせが日本全土に流れたとき、あの男とはもうあれきりなのだ、とようやく女は理解した。自分の役目は終わったと悟り、わずかばかり残った空虚さに戸惑いを覚える。
 見受け話が舞い込んできたのは、そんな折だ。これが渡りに船なのだろう、と彼女は熟慮もせず条件を飲んだ。ここで地獄を増やすより、いくらかマシと思えたからだ。
 相手は初老の取り立てて語るべき特徴もない、面白みに欠ける男で、妻に先立たれ、広い屋敷を持て余しているとのことだった。その日暮らしを長らく続けた身からすれば、有り余る幸運とも呼べる場所。
 彼は軍相手の商売をしているらしく、将校たちが本邸に出入りすることもしばしばあった。その姿を目にするたび、彼女の脳裏には若い男の影がよぎる。

 その日は、主人の頼みで、入り用の品を買うために、女は町へ出ていた。日が落ちるまでには帰りたい。風呂敷包みを持ち直し、烏が帰路につく後を追うように、彼女は早足で道を進んだ。
「ただいま戻りました」
 屋敷に入り、声をかけても家主からの返答はなかった。物静かな男であるから、黙々と何か作業でもしているのかと思われたが、どの部屋にも彼の姿は見当たらない。そういえば、今日は蔵の点検をすると言っていた、と思い出し、そちらにいるのだろうか、と彼女は草履を履いて、庭に敷かれた飛び石を辿った。
 少し行くと、松の木の枝越しに、蔵の扉が開いてるのが目に入った。やはりここに来ていたか、と彼女はそのまま歩みを進める。
 近づくほどに埃っぽい、独特のすえた匂いが漂って、女は着物の袖で鼻を覆った。頼まれた品は揃えた、と報告しようと扉に手をかける。
「──よお、遅かったじゃねえか。待ちくたびれたぜ」
 地の底から湧いたような低音が響き、ひゅ、と女の喉が鳴った。記憶よりも数段と冷たい声と眼。塀の向こうから聞こえる子どもの声もかき消すほどに、平穏な日常を一瞬にして戦地へ変える男。
「尾形様……」
「久しぶりだな」と、己の名前を紡ぐ彼に、女は戦慄した。叫び声を上げなかったのは、侵入者が顔見知りであったからではない。広がる光景の凄惨さに力が抜け、恐怖が音にならなかっただけだ。
 蔵の中央、かろうじて外の明かりが届く場所に尾形はどかりと座っていた。手元でくるくると、こよりを回しながら、居心地の悪い座椅子に腰掛けるように、屋敷の主人を下敷きにして。
「お偉方が露西亜との間に話をつけて終戦したってんで、そろそろ頃合いかと座敷に行ったんだ。お前も少しは俺が恋しくなったんじゃないか、と思ってな。驚いたよ。しばらく前に、見受けしたと聞かされて」
 彼の足元から水音が聞こえ、反射的に視線を移せば、ひとつ、ふたつ、と赤黒い足跡が彼女の元へ向かってきた。目の前にゆらりと立ち、温度のない目が女を見下ろす。
「お前、最初に会ったとき、鶴見中尉に言われた、と言ってたな……すべて、あの人の差し金か?」
「な、何が──」
「秘すれば花、か」
 口元を歪め、光に透かした赤いこよりを尾形は二つに引き千切る。はらり、と三和土の上にくたびれた紙切れが散った。
「一抜けは許さない」
 不意に手首を締め上げた力の強さに慄いて、女の目に涙が滲んだ。掴んで欲しくて差し伸べた手は、いつだって払い除けられてきたはずだ。なのに、どうして、こんな時に限って──
「いいか? お前は物取りに主人を殺された哀れな未亡人だ。前妻の間には確か、息子が二人いたな。遺産は奴らがせしめるだろうから、お前は期待しない方がいい。となると、またあの生活に逆戻りか。あぁ、心配はいらない。出戻りは体裁が悪いだろうから、別の座敷を紹介してやる」
 ぎりぎりと締めつける圧迫感が解かれ、彼女は身体を震わせながらその場にくずおれた。
「俺が骨になるのはまだ当分先らしい」
 すれ違いざま、彼は言う。
「小指の先でも届くのをおとなしく待ってろ」
 踏みつけられたこよりが風に押されて闇に消える。砂利の中を去る男の足音に耳を傾けながら、彼女は流れるその様を虚な眼で追っていた。


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