"Hey, we will soon arrive at Hogwarts. You better change your clothes now."
鼻水をすすりながら、一向に減らないしょっぱいおにぎりを頬張っていたときだった。
突然ドアが開いたと思ったら、鳶色の髪の毛をした男の人が何かを言っている。ホグワーツ?ホグワーツって言った?発音が良すぎて何を言っているのかさっぱりだが、もし彼が本当にホグワーツと言ったのであればこれは正しい列車に違いない。右も左も分からない上に言語すらわからなくて、適当に似たような荷物を持った少年の後をつけて正解だった。遠い日本の地で母が買ってくれた『これさえ言えれば大丈夫!実践トラベル英会話』という本をくちゃくちゃになるまで読み込んだのだが、これがまったくもって役に立たない。ヒアリングができなければ答えようにもないし、私の発音では誰もが困ったような笑顔を返すばかりだ。そもそもこれは旅行ではない。キングス・クロス駅で駅員に「ウェアイズナインアンドハーフプラットフォーム?」と聞いたときのあの虫けらを見るような目を、私は一生忘れない。
"Do you hear me? ...I mean, are you okay?"
おにぎりを頬張ったまま動かない私を不審に思ったのか、もしくは不安に思ったのか。鳶色の彼は眉根を寄せて私の顔を覗きこんだ。1人でコンパートメントを占領していながら隅っこに縮こまり、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした女だ。そりゃ誰だってぎょっとする。実際このコンパートメントを訪れたのは彼が初めてではない。何人かが訪れては、私を見て腫れ物を扱うかのように無言で去って行った。私もここを1人で占領することにはチクリと心の奥が痛んだが、悲しいものは悲しいし、恋しいものは恋しい。14歳という多感な時期に、ぐちゃぐちゃの顔だって見られたくない。
"Are you sick?"
すべては一通の封筒のせいだった。
緑色のインクで書かれたそれの第一発見者は、何を隠そう私である。ある日、朝刊と一緒に数通の封筒を父に渡した。なんてことないいつも通りの朝。朝食はパン派の我が家では、リビングにいつだって香ばしいパンの香りが漂う。庭では母の干した洗濯物がヒラヒラとはためき、ソファでは飼い猫が日の光を浴びてポカポカと心地良さそうに欠伸をする。土曜の朝って面白い番組ないんだよねー。隣で脚をブラブラさせながら小4の弟がチャンネルをグルグルと替え、父が母さんコーヒーおかわり、なんて言いながら朝刊に手を伸ばした、その時だった。突然ガタッと椅子から立ち上がった父に、それまでテレビを見ていた弟が不思議そうな顔をして振り返る。父は一通の封筒を持ち上げると、同じくキョトンとしているであろう私の顔を見て、そしてまた封筒を見て、私を見て、という行動を数回繰り返した。「まっ、これ、ああ、ホグ、ホグワーツから、あの、ああ、お、お母さあああああん!!」大声を上げた父に、思わず発狂したのかと隣にいる弟の肩をギュっと抱きしめたのが記憶に新しい。
あれよあれよと言う間に14歳の幼気な少女を日本から追い出した両親は、私の叔母が通っていたという学校から転入届けを受け取って以来、誰の目にも明らかなほど浮かれに浮かれていた。祖父母はもちろん、我が家からも魔法使いが出たぞ!と誇らしげに親戚一同へ報告して回る両親を少し引いた目線で見ていた私は、当事者のはずである。まったく実感などない。それどころか不満だった。何が悲しくて生まれ育った土地を離れ、知らない土地に1人で行かなければならないのだ。不貞腐れてハンガーストライキを起こした私に、両親はこれがいかに恵まれたことかを語って聞かせた。一族唯一の魔法使いである叔母が、どのように魔法界で暮らしているのか。魔法とは誰でも使えるわけではなく、だからこそ使える者はいかに危険と隣り合わせにいるのか。そしてその危険を知り、使い方を知らないとどうなってしまうのか。これだけ聞くと、恵まれたどころかいらぬ貧乏くじを引いた気分である。しかし満面の笑みに涙を浮かべた両親が「あんなに小さかったなまえが…」「11歳の時に来なかったから、もうダメだと思っていたんだ…!」だなんて私が結婚でもするかのような反応をしたものだから、反論するにも反論できない。叔母は叔母で魔法は暴発することもあるし、きちんとした使い方をしないといつか魔法省に捕まって監獄送りになるわよ、だなんて脅してきたので、いよいよ私は不貞腐れている場合ではないと思い立った。その結果が今である。
ニッコニコの両親とよくわからないけど喜ばしいことらしいという雰囲気を感じ取った弟に見送られ、叔母と日本を発って早一週間。最初の5日間はよくわからない教科書やらどう見たってガウンにしか見えない制服やらを買い込んだり、銀行の使い方を教わったりと慌ただしくすぎたが、本番は6日目だった。こともあろうか叔母は「じゃあ私は魔法省の仕事があるから!」と姿を消したのである。それまで半信半疑だった魔法というものに初めて触れ、ゴブリンというなんとも醜い人外を初めて見た気息奄奄な私を放り出して去るとは何事か。暖炉に消えた叔母の残り火を見つめて、はじめて本当の孤独を知った私はレトルトの白米の残りを数えることで不安を紛らわせた。電子レンジがあれば2分でチンできるものなのに、この国の電子レンジの使い方がよくわからないためお湯で15分かけて大事に暖めている白米。残りはその時点であと3つだった。
"Are you really okay? Can I do anything for you? Like, bring you some water?"
白米に思いを馳せていた私の意識は、そこでハッと現実に引き戻された。
ふと泳いだ視線が目の前の鳶色を捉える。彼は先ほどよりも深刻そうな顔つきで私を覗き込んでいた。一瞬怒らせてしまったのかと思ったが、声音から判断するにそうではないのかもしれない。しかし確証もない。とりあえず無視をしているわけではないと伝えなければ、と思って「えっと、その、」と声を漏らすが、生憎トラベル英会話に私はあなたを無視していません。なんていう文章は載っていなかった。焦りで汗をかいた手からおにぎりが滑り落ちて、コロリと座席を転がるおにぎりがどこか他人事のように見える。
彼は私と目が合うと、この国で出会った大半の人と同じ表情を浮かべた。どこか困ったような、理解してもらえない笑顔。
"Do you understand what I say? ...Well, you seem not. Hm, what can I say..."
「えっと、その、アイキャントスピークイングリッシュ、でして、えっと…」
恥ずかしくて、惨めで、顔が熱い。私なんでこんなことしなくちゃいけないんだろう。収まっていた涙もじわりじわりとまた込み上げて、既にぐちゃぐちゃになっている顔がこれ以上酷くなるのを見せられないと下を向く。座席に転がったおにぎりが目に入ると、アルミホイルに上手いこと収まってたからまだあれ食べれるなあ、なんて素っ頓狂なことが頭をよぎった。大事に大事に食べていた白米も、このおにぎりが最後の1パックだ。朝食はパン派だから大丈夫だと、母がせっかく持たせてくれたにも関わらず、半分に減らしてしまったことを今になって後悔する。ああ、私だって日本人だったんだなあ。お米が美味しくて、なのにお米を食べていると日本を思い出してしまって、恋しくなってしまう。恋しくなって、苦しくなって、お米ですら喉を通らない。
"Well, let me just clear. Are you really okay?"
「お、おーけー?あの、はい、オッケーです…?」
優しい声に顔を上げると、声と同じくらい優しい表情で鳶色の彼が言葉を紡ぐ。
実際何がオーケーなのかはよくわからないが、どうも心配されているらしいことはわかった。英語が話せない私に気を使ってか、先ほどより格段にゆっくりと、一つ一つの言葉を丁寧に言ってくれる彼はもしかしてとんでもなく親切な人なのかもしれない。
"You are not sick?"
「ノット何…?しっく…?」
"Like,"
Somachache?とお腹をさすって痛そうな顔をしたり、Headache?と頭に手を当てて眉間に皺を寄せたりと、彼は私でもわかるようにジェスチャーをしながら聞いてくれる。どうやら体調を心配してくれているらしい。その度にブンブンと首を横にふる私は端から見たら迷子になった子どものようで、ひどく滑稽だろう。私だって迷子放送で14歳と言われたらたぶん笑う。それでも彼は嘲笑することもなく一通り私の体調を確認すると、安心したかのようにふわりと笑った。よかったよかったとでも言うようにポンポンと頭に置かれた手の感触がとても暖かくて、さっきとは違う意味でまた涙が込み上げてくる。すかさずさすが英国紳士!といつもの私なら思うであろう滑らかな動作で彼はハンカチを差し出すと、そのまま私の顔を優しく拭った。涙やら鼻水やらが初対面の人に拭われるという体験はあまりにも色々な感情が湧き出して、今の私には処理し切れそうにない。大人しくされるがままになっていると、彼は膝を折って私と目線を合わせる。
"What's your name?"
「ねーむ?…あっ、名前?えっと、マイネームイズみょうじ・なまえ」
"Ok なまえ. Do you have the robe?"
「ろーぶ?」
"Yes, robe. This."
自分の着ているガウンを指で摘む彼に、着ろということなのかと自分のそれをトランクから取り出す。これ?と聞く代わりに首をかしげると、彼は満足そうに頷いた。"Yeah that's it. Now, you have to put it on. We'll arrive soon." 彼の言った言葉はまったく理解出来なかったが、ジェスチャーからしてとりあえず着なければならないらしい。いそいそとしわくちゃになった制服の上からガウンを着る。
"Well, I have to go now. Once we arrived, you can just follow the other students, they'll go to the same place anyway. If anything happened or got in trouble, just let me know. I'm a prefect of Gryffindor so you can easily find me. Ok?"
小さな子どもに言い聞かせるようにゆっくりと言われて、かろうじて彼がこれからどこかに行くことだけは理解ができた。ブンブンと勢い良く首を縦にふりながら、この国で初めてここまで親身になってくれた人に対して何か言わなければ、とたいした中身の入っていない頭をフル回転する。母はいつも、人様に迷惑をかけてはいけません!と言っていた。そうだ、人様に迷惑をかけた時は謝らなくては!
「あの、そ、ソーリーアバウト…ミー?」
"Sorry? Why sorry?"
「迷惑って英語でなんて言うんだろ…えっと…」
必死にトラベル英会話の中身を思い出す。あの本にはなんでこう必要な言葉が載っていないのだろうか。旅先で出会う人々とはそれっきりだから、迷惑をかけてもいいということだろうか。旅は情け人は心ではないのか。
行こうとした人を引き止めた上に言葉が出てこない私を見てしびれを切らしたのか、彼が腕をあげる。咄嗟にビクッと飛び上がってしまった私の反応に苦笑いをすると、そのままポン、と私の頭に手を置いた。二回も頭を撫でられて、なんだか気恥ずかしい。
"You just have to say thank you."
「センク?」
"Right, say it. Thank you."
「せ、センキュー」
"You are most welcomed."
そうニコニコと言われて、私の思考はこれ以上ないまでにこんがらがった。何か言わなきゃ!何か言わなきゃ!!自分の上擦った声が頭の中で警報のように響き渡る。ありがとうございました、は今言ったから。そしたら、えっと。さっきまであんなにジメっぽかった自分が嘘のように、今ではとにかく目の前の人にこの感謝を伝えなければ、と脳内ジェットコースター状態だ。ぐるんぐるんと2回転3回転するジェットコースターに乗った気分になりながら、必死にトラベル英会話を思い出して、やっぱり違うなと思い直して、今度はさっきの彼が言った言葉を思い出す。バッと勢い良く立ち上がったにも関わらず、彼の手は私の頭に乗ったままだ。
「あ、あのっ、ワッツユアネームっ?」
私の頭に手を置いたままきょとん、とした後すぐにハハッと歯を見せて笑うと、彼はポケットから銀紙がむき出しになった食べかけのチョコレートを取り出した。銀紙にサラサラと何かを書くと、それをひょいと私に手渡す。
"Keep it!"
彼はまたニッコリと笑うと、チョコレートと私を残してコンパートメントを出て行った。Remus John Lupin。几帳面そうな筆記体で書かれた文字をなぞると、カサリと銀紙が音をたてる。
「レ、ム、ス、ジョ、ン、ル、ピ、ン…かな?」
揺れる車内では突っ立っているのも難しい。私は座席に座り直すと、声に出して読んだ。あまりに無意識に声が出たので、一瞬他人の声かと思ってギョっとする。慌てて周りを確認するも、そもそもここは私が占領していたんだった。自分の落ち着きのなさをごまかすように、窓の外を覗いてみる。すっかりほの暗くなった外では、旅行代理店のパンフレットに出てきそうな古城が見えていた。改めて日本ではお目にかかれない光景に、いつの間にか薄れていた不安が再び頭をもたげる。
ドキドキと心臓が脈打つ感覚に手に力が入ると、チョコレートが銀紙の上からパキっと折れた。やってしまった。破れた銀紙の隙間から見える茶色は、どこか鳶色を思い出させる。とたんになんだかドキドキして、もういっそ食べてしまおうか、いやでも。いくばくかの時間1人で押し問答をして、ふとコロリと座席に転がったおにぎりを発見した。さっきまでは喉を通らない程食欲がなかったのに、急にお腹がぐぅと鳴る。
やっぱりお米は美味しい。むしゃりむしゃりと最後の白米を楽しみながら、目の前に迫る古城を眺めた。あんなに嫌だったのに、今はたくさんの不安の中に、ほんの少しだけ期待がある。今度レムスさんに会う時には、もうすこし英語が喋れるようになっているだろうか。そう言えば、翻訳してくれる魔法ってないのかな。レムスさんはいくつなんだろう。とても落ち着いていたし、私よりずっと年上に見えた。
夜の湖面にぼんやりと浮かぶ古城に魅せられて、私はもう一度レムスさん、と声に出してつぶやく。ふと窓に映った自分が自分じゃないような気がして、思わずギュッと目を瞑った。
後日、レムスではなくてリーマスだと言うこと、ずっと年上どころか一つしか年が変わらないこと、日本語を英語に翻訳してくれる魔法は残念ながらないことを、私は知ることになる。世の中そう甘くない。