隣のクラスのみょうじさんは、時々青心寮に現れる。
夜な夜な男子寮に何を。それこそ初めのうちはギョッとしていたけれど、人間とは「慣れる」生き物なのだと最近改めて実感した。「俺たちもああいう反応だったんだなあ」と入って間もない1年達がギョッとする様を見て笑う。
みょうじさんは寮に現れる時、大抵2枚重ねにした紙袋を持ってくる。それなりに重さがあるのか、ギュッと取手を握った手が少し赤い。中身はほとんど少女漫画らしいと誰かが言っていた。あの大きさの紙袋いっぱいに漫画が入っているとなると、確かに女子の力では重く感じるのも納得だ。いつも以上に大きい紙袋を持ったみょうじさんは、少し進んでは一旦地面に紙袋を置いて、また少し進んでは一旦地面に紙袋を置いて、という行動を繰り返していた。袋から手を離す度にプラプラと手を振りながら汗を拭うみょうじさんは、さっきから数十メートルも進んでいない。
両手に紙袋がある時のみょうじさんは、大抵の場合、足でドアをノックする。ショートパンツから惜しげもなく伸びる脚を浮かせ、つま先でリズミカルにドアを打ち付ける。ドンドン。低い位置から聞こえるノック音のあと、ドアが開くと同時に無愛想な純さんの声がした。
「おい、お前の足癖の悪さは直んねえのか?」普通の女子なら敬遠してしまうであろう声音にも、みょうじさんは大きく口を開けて笑う。「10年くらい前に言ってくれれば直ってたかもね。」
幼馴染だという純さんとみょうじさんは、それこそ遠慮というものをまったく感じない。ポンポンとテンポよく軽口を叩き合いながら、自然な流れで純さんがみょうじさんの手から紙袋を奪う。対するみょうじさんも、それが当然であるかのように、ごく自然に純さんの部屋へと消えていく。
みょうじさんが青心寮へ来るようになった頃、純さんは至極面倒くさそうに「あいつが彼女とかありえねえ。」と言っていた。地元では家が隣同士だったそうだ。
「純は地元神奈川だろ?あの子神奈川から通ってんの?」
「あいつの父親の転勤で今はこっちに住んでんだよ。しかも青道のすげえ近く。」
こういった会話が純さんの代を中心に一時期とても盛り上がったせいで、俺はみょうじさんについて結構詳しい。クラスは違っても見かけるとなんとなく目で追ってしまうし、学校内での印象と純さんの前での印象が大分違うことも知っている。寮に来る時は水色の自転車で来て、純さんと同じファンタのグレープを好んで飲む。よく純さんのファンタと自分のファンタがごっちゃになって、適当に目の前にある方を何の気もなく飲む。少女漫画は友達から借りたやつを純さんに又貸ししている。純さんの方がよっぽど乙女な思考回路をしている。――― 俺が勝手に見聞きしたみょうじさんの情報は、他にもたくさんある。
しかし、これだけみょうじさんのことに詳しくても、俺はみょうじさんとまともに会話をしたことが一度もない。せいぜい会釈をする程度の関わりだ。俺とみょうじさんは、所謂クラスの違う同級生程度の関係でしかない。ほとんど赤の他人なので、"関係"というのも違う気がする。そもそも同じクラスの同級生にもそこまで仲の良い人間がいない俺に、みょうじさんという存在は居ても居なくてもほとんど同じようなものだ。なんとなく目で追ってしまうのは、青心寮に現れる女子というイレギュラーな存在という理由のためにすぎない。
ただ、もし一つだけみょうじさんに関して言うとすれば。初めてみょうじさんを見た時の、大きく口を開けて笑う顔がなぜかとても印象的だったのを、俺はよく覚えている。
◆
体育の授業でサッカーをしていたら、味方のシュートが顔面に直撃した。顔面に当てられたというのにシュートの邪魔をすんなと野次られるわ、ジンジンという痛みが治まってきたと思ったら今度は鼻血が垂れてくるわと、散々な5時間目だ。一刻も早く退散しようと保健室に急ぐ。授業開始からまだ15分しか経っていないけど、残りの時間は目一杯保健室で過ごすとしよう。苦手なサッカーの授業に戻る気力は最初からない。
「失礼しまーす…」
鼻を摘んだまま保健室のドアを開ける。養護教諭は席を外しているらしく、保健室には音がない。空のベッドが2つと、カーテンの閉められたベッドが1つ。誰かが寝ているであろうベッドに気を使って、なるべく音を立てないように脱脂綿を探す。どの引き出しにも入っていない。ガサゴソと勝手に戸棚などを開けて探し回っていると、後ろで控えめにカーテンが動く音がした。やべっ起こしたか?勢いよくそちらをふり返ると、ほんの少しだけ開けたカーテンの隙間からこちらを伺うみょうじさんと目が合う。ベッドに居たの、みょうじさんだったんだ。顔見知りが保健室で休んでいるというだけで、少し身構えてしまう。ただ、カーテンの隙間から携帯や漫画がちらちらと見えるから、ものすごく体調が悪いというわけではないらしい。いや、人を見た目だけで判断するのはよくないか。
「ごめん、起こした?」
「や、大丈夫、です。」
「なるべく静かにするわ。」
「いや、ほんとに、別に体調が悪いわけじゃないですし。」
あ、やっぱり?俺がそう言うのと同時に、みょうじさんがしまった、と眉間に皺を寄せた。なるほどなるほど、サボりってことか。バツの悪そうなみょうじさんはなかなかに新鮮で、思わず顔がにやけてしまう。みょうじさんも授業をサボったりするのか。今度は遠慮なく音を立てて脱脂綿を探す。
「その、御幸くん、一回顔を拭いたほうがいいかも、です」
血がなんかすごいことになってるので。そう言いながら自分の鼻の下に手を当てるみょうじさんを見て、改めて自分の顔が鼻血だらけなのを思い出した。血はほとんど止まっているものの、鼻の下のカピカピした所と新しく流れてきた血とが混ざり合って大変気持ち悪い。青道の保健室には鏡がないのでティッシュで適当に顔を拭った。鼻に広がる鉄臭に思わず顔をしかめると、みょうじさんがここも、と自分の上唇を指差す。
「これでマシになった?」
「マシにはなったけど…」
眉間に皺をよせたみょうじさんはベッドから降りて俺の前に立つと、おもむろにウェットティッシュを取って俺の顔を拭った。鉄の臭いとアルコールの臭い、それから女子っぽいシャンプーの匂いが代わる代わる鼻を掠めて、みょうじさんの突然の行動に心臓が鳴る。神経が鼻の下や上唇をウェットティッシュ越しに触れるみょうじさんの指に集まって、熱い。
「はい、これで大丈夫です。」
満足そうなみょうじさんの手に握られた薄い赤のウェットティッシュを見て、ははっ、と俺の喉から笑い声に似た乾いた音がした。みょうじさんはなんともなさそうな様子で新しいウェットティッシュに血に染まった方を包む。ポイッとそのままゴミ箱に入れると、さらにもう一枚出して今度は自分の手を拭いた。
俺はひんやりとした指先の感覚をなぞるように自分の指を押し付ける。俺の指ってこんなに乾燥してたっけ?生温い温度が熱の籠った上唇を掠める。
「えーと、サンキュ。ていうかみょうじさんなんで敬語?」
「や、御幸くんって有名だからなんとなく…ていうか私の名前知ってたんですか。」
「よく寮に来るよな。ほら、純さんとこ。」
ああ、なるほど…。何がなるほどなのか、みょうじさんはひとり納得すると眉毛を下げて控えめに笑った。校内で見るみょうじさんは、すこし大人っぽい。昼過ぎの強い光と春風を受けて、みょうじさんの髪がキラキラと輝く。みょうじさんって睫毛の密度が濃いんだな。今までこの距離でみょうじさんをみる機会がなかったためか、顔の造りの些細な点にも目がいく。そう言えば女子にしては背が高い方じゃないだろうか。目の前に立つみょうじさんの顔は俺の目線の若干下くらいで、165cmくらいある気がする。そう言えば純さんと並んでもそんなに背丈が変わらなかったかもしれない。こんなことは絶対に純さんに言えないけれど。
「痛そうだね、鼻。」
赤くなってるよ。みょうじさんは俺が一度開けて確かめたはずの引き出しから脱脂綿を取りだして、それを俺に手渡した。もう血は止まってるだろうけど、一応。みょうじさんにそう言われて、俺も躊躇なく脱脂綿を丸めて鼻の穴に突っ込む。御幸くんも鼻血とか出すんですね。独り言なのか俺に言っているのか微妙なくらいの声色で呟くと、みょうじさんはふふっと喉の奥で笑った。
「サッカー苦手なんだよ。」
「あ、体育だったんだ。」
御幸くんにも苦手なものあるんだ。みょうじさんがクスクス笑うたびに肩が動いて、ダークブラウンの髪が鎖骨の辺りでゆらゆらと揺れる。
「苦手なものいっぱいあるよ。対人関係とか。」
「対人関係苦手なんだ?」
あははは、と笑うみょうじさんに、もう一度心臓が大きく鳴った。先ほどウェットティッシュ越しに触れられた指先の感触を唐突に思い出して、顔が熱を持つ。先ほどよりも少しだけ大きく口を開けて笑うみょうじさんは、いつもより幼い。純さんといる時の顔が脳裏をよぎる。幼くて、まぶしい。
御幸くん、友達少ないってよく言われてるもんね。手際よく俺が散らかした引き出しを整理しながら、みょうじさんはくすくすと笑う。細い指先がガーゼや絆創膏を綺麗に整頓する様は、流れるようだ。
ふんわりと春の暖かい風が保健室に入り込んで、みょうじさんの髪やスカートを大きく揺らす。消毒液の匂いと、古い教室の匂い、それから、やっぱり女子っぽいシャンプーの匂い。顔から熱が、収まらない。
「俺、みょうじさんのこと好きかもしんない。」
「好き」という言葉を口にした瞬間に、たくさんの感情が溢れてこぼれた。みょうじさんが可愛い。俺のことどう思ってるんだろう。純さんは本当にただの幼馴染みなのかな。飾り気なく笑った顔が好きだ。完全に今俺のせいで困った顔をしているけど、そんな顔も好きだ。すっげえ好きだ。
みょうじさんは目を丸くして、パチパチと瞬きをする。薄く開いた唇が言葉を象って、それから思い直したようにキュッと下唇を噛む。俺は無意識のうちにみょうじさんに手を伸ばした。みょうじさんの手を自分の手の中に収めると、脱脂綿が音もなく床に落ちる。
思えば、今までも十分意識していたんだ。ただ、自覚していなかっただけで。
困ったように顔を赤らめるみょうじさんが可愛くて、愛おしい。一度自覚すると堰を切ったように流れ込む感情に、俺はみょうじさんの手をギュッと握った。