チリンチリンとドアが開いた音になまえは顔を上げた。
約束の時間というほどキッチリした約束ではないが、時刻は既に15:00をとうに過ぎている。万里はまだ学校なのだろうが、いつも自分より先にいることが多い紬が未だ来ていないということに、どこか引っかかった。先程からテーブルの上に置いてあるスマホも無視を決め込んでいるように静かで、そこにあるという事実すら既になまえの記憶の片隅から追いやられている。
今しがた来た客が自分の目当ての人物ではないと分かると、なまえはソファーに背を埋めた。まだ半分も口を付けていないミルクティーに手を伸ばして、ぽっかりと空いた反対側のソファーを見つめる。深いグリーンにオレンジ色の木漏れ日がユラユラと揺れて、なんだか時間がいつも以上にゆったりと流れている気がした。
待ち人来ず。なんだかおみくじみたいだな。そういえば今年のおみくじは小吉だったっけ。なまえは1人口角を上げる。すぐにニヤついた自分に羞恥心を感じ、誰も見ていないだろうと思いつつもミルクティーを飲むことで誤魔化した。
「何か面白いことでもあった?」
いや、誤魔化せていなかったらしい。突如自分の前に現れた紬になまえが咽せる。大丈夫?と心配する紬にコクコクと首だけで返事をして、なまえは目尻に溜まった涙を拭った。どうやら新年の記憶に耽っていた間に紬は来たらしい。あんなにも敏感にドアの開閉する音を聞いていたというのに、ちょっと気をそらすとすぐこれだ。そもそも紬のタイミングが神がかっていたとしか思えない。なんなら外から眺めてたんじゃ…いやいや、さすがに紬さんがそんなことは。流れるような動作で目の前のソファーに座った紬を苦々しく見つめて、なまえはもう一度ソファに深く背を預けた。
「遅くなっちゃってごめんね、すぐそこで元生徒のお母さんに捕まっちゃって。」
「紬さんお母さん方に人気ありそうですもんね…」
「うーん、どうかな。そうなのかなあ。」
話がどんどん長くなっちゃって、正直ちょっと参ったよ。そんなことを言いながら眉毛をへにゃりと下げる紬に、なまえはお人好し、とこぼす。
「ふふ、厳しいなあ。」
「そんなの適当なところで待ち合わせしてるんでって話を切り上げちゃえばいいんですよ。」
「そっか。そうだよねえ。」
分かったのか分かっていないのか、紬はただただ優しい声音で返事をした。「ちゃんと聞いてます?!」と憤慨するなまえの言葉に相槌を打ちながら、メニュー表をパラパラとめくる。ドリンクを決めてデザートのページに差し掛かると、なまえが「あっ」と声を上げた。
「そうだ、紬さんこのシナモンアップルのワッフル、シェアしませんか?なんか無性に食べたくって。」
「うん、いいよ。美味しそうだね。」
「やった、じゃあ早速注文しましょっか。」
今日お昼遅かったから全部は入りきらないと思ってたんですよね。にへっと笑うなまえに微笑んで、紬はカプチーノとワッフルを注文する。紬さんは優しいなあ。自分がさっきお人好しと呼んだことは棚に上げて、なまえは甘えた声を出した。妹がいたらこんな感じなのかな。少し想像をして、紬はふふっと喉を鳴らす。
「なまえちゃんが妹だったら毎日飽きないだろうなあ。」
「それって褒められてるってとって良いやつですか?」
途端に怪訝な顔をしたなまえに、紬はもう一度、今度はもっとはっきりと笑う。納得いかない。そんななまえのふて腐れた顔も、運ばれて来たワッフルと同時にみるみる笑顔へと変化した。これだから飽きないんだよなあ。コロコロと感情の変化するなまえにやっぱり紬は微笑むも、当の本人は気づいていない。
シナモンの食欲をくすぐる香りに、まだ暖かいワッフルに乗ったバニラアイスがゆっくりと溶け始めるこの見た目。少し遅れて取り皿が来た頃には、なまえの口の中には唾液がたまっていた。
「うわあ、ほんと、美味しそう…!」
「本当だね。はい、なまえちゃんのぶん。」
慣れた手つきでワッフルを半分にすると、紬は少し大きめに切った方の皿をなまえに渡す。わあい、とはしゃぐなまえに子供みたいだな、と自分の生徒達の顔を思い出した。実際に今教えている生徒は中学生が大半だが、むしろなまえより大人びた雰囲気の子だっているのだ。
「なまえちゃんって今いくつになったんだっけ?」
「私ですか?今年で20になりますよ!」
なんでですか?と大きな口を開けてワッフルを頬張るなまえをよそに、紬は15歳と20歳でこの落差のなさか…と微笑みに本音を隠した。なんでもないよ、と返事を返すと、なまえはまたしても「あっ」と声を上げる。
「やっぱり紬さんがお兄ちゃんで、万里が弟ってことですよね!」
あんな生意気な弟大変そう、と言いながらも満更でもなさそうににんまりと笑うなまえに、どっちかっていうと万里くんの方がお兄ちゃんっぽく見えたりすることもあるんだよなあ、と紬は思う。変に大人びたところもある万里とは対照的に、なまえにはどこか子供っぽいところがある。いまだって、ワッフル一つでこの機嫌の上がりようだ。そのくせ年相応の行動力と度胸、そしてそれなりのお金があるので、紬はいつもハラハラしていた。ついこの間だって何も言わずにひとり旅に出て、お茶に誘った返事が「ごめん、いまサンフランシスコにいるんだ。」の一言だった。「はあ?!」と談話室でスマホ片手に大声を上げた万里が記憶に新しい。今まで事件に巻き込まれたりせずにこうしていられるのは、なまえのこのゆるく暖かい人柄のせいだろうか。ふらっと現れてぬくぬくと日向ぼっこをし、気づいたらまたどこかへ行ってしまうなまえはさながら猫のようだとも思う。
「うん、なまえちゃんは可愛い妹かな。」
「そして万里は私の可愛さ余って憎さ百倍の弟ですね!」
「それはどうかなあ。」
どういう意味ですか?!とまたしても変わるなまえの表情に笑いながらカプチーノを飲む。
きっと万里が来たら来たで、また弟妹とどうでもいいことで言い合いになるのが目に見えている。いつだって万里となまえが揃うとそうだった。それすらも心地いいと思えるのだから自分はやはりお人好しなのかもしれない。紬がそう目を細めるのと同時に、チリンチリンと音が響いた。