Prolog

終わりの始まりの夜






 てっぺんが雲に届きそうなほどの高層マンションを見上げると、同時に映った空が深夜にしては明るい。本来なら真っ黒でいられたはずなのに、都会のネオンに中和されていて、リヴァイの目が太陽を見たかのように細まった。はたからでも分かる不機嫌さのままゆっくりと足を踏み出す。

 マンションの下には広々としたオープンスペースがあり、ベンチがいくつも並んでいた。その周りを取って付けたような樹木が囲む。リヴァイの上背を優に超えるシラカシだ。

 外灯のオレンジ色が視界を埋める。大きすぎる蛍がたくさん飛んでいるようだった。所詮人工照明だから、心にくるものなどないけれど。

 ようやくエントランスホールに踏み入れば、シックなデザインではあるが絢爛で、自分だったら絶対こんなところには住まないと無愛想に思う。

 リヴァイは今夜、こんなところに住んでいるエルヴィンを久々に訪ねてきていた。話があるといきなり呼び出されたのだ。彼の根城はこのタワーマンションの四十三階にある。

 ──夜景が綺麗なんだよ。
 東京を一望できるんだ。それを見下ろすと、ニンゲンは必ず頬を染める。彼らは飛べないからな。うっとりしてしまうんだろう。

 以前そう語ったエルヴィンこそ、リヴァイからするとひどくウットリしていた。そのとき口の端から覗いた犬歯は本来の形──鋭い牙になっていたし、きっと人間えものの首に噛みつくシーンを回想していた。

 すべてを手に入れられた気がする高層階で、広い空さえも支配できそうな気分のなかで突然人生が終わるのは、いったいどんな感じかと想像する。

 なんとなくそれは、とても幸福なことに思えた。
 エルヴィンはじわじわ最期に連れていく男じゃない。ぱちん。手を叩くように。ぱたん。本を閉じるように。そんなふうに殺す。けっして嬲ったりはしない。

 苦しめられ、苦しめられ、もがき、苦しめられて死ぬよりも。おそらくよっぽど幸福な最期の夜であるはずだ。

 優雅な動きでエレベーターが開いた。
 四十三階まで「あ」という間にリヴァイを運んでくれたが、本来の姿で翼を広げて上から向かえたならもっと楽だった。

 普段の外見に人間との差こそないものの、リヴァイは人間じゃない。エルヴィンと同じ、ヴァンパイアだ。──なんて自己紹介をすれば、相手は全員きょとんとするか大声で笑うかのふたつにひとつ。そんなもの実在するわけがないと思われているのは都合が良かった。

 世界中のヴァンパイアをかき集めても、数は極端に少ない。群れて行動する種族でもないので仲間らしい仲間はエルヴィンのみが唯一といえる。

 コミュニティを作って協力し合えばいい、と主張するヴァンパイアは皆無だ。むしろ、遭遇すれば殺し合いになる。同種族が減ればそのぶん獲物を奪われる機会も減るからだ。

 そのため人間に紛れて人間と同じように生きるほかない。しかしリヴァイは人間らしく振る舞うのが不得手だった。度々ボロが出てしまう。エルヴィンに指摘され、気をつけ始めたのは数百年前のことだ。

 一方のエルヴィンは、どの時代でも社会に馴染んでいる。適応し、適合する。いつでも勝ち組と呼ばれて生きている。なにもかも楽勝なのだという。

 そして日常に飽き飽きとしているからなのか、人々の人生をゲームのように扱っていた。彼はなんのためらいもなくルーレットを回す。出たぶん進ませた先のマスが「死」でもやり直さない。

 つまらなそうにあくびをして、またふりだしからスタートするだけ。そんなエルヴィンはまるで、詐欺師のような男だった。

 リヴァイも人間の人生をゲームみたく思えたら。あるいは人間にまみれても器用でいられたら。今より少しは楽に息ができたかもしれない。身体は軽かったかもしれないのに。


 人間のよく好む温かい家庭など少しも築けそうにない、冷えた無機質な内廊下。平らな絨毯がリヴァイの靴裏を受け止める。目的地に到着し、インターホンを鳴らした。

「待ちくたびれたよ」

 ドアを開けたエルヴィンが肩を竦めてみせる。リヴァイはなにも言わずに横を過ぎ、ほとんど段差のないタタキを越えた。

「なあ、エルヴィン」施錠後に自分を追い越していった後ろ姿に呼びかける。「今度は上手いこと棄てろ」

「なに……ああ、血を抜いたあとの話か?」
「そうだ。失血死がどうたら、首筋に噛み跡がどうたらとまた連日騒がれる」

 前を行く男は、はは! と吹き出すように笑った。

 亡骸の遺棄はリヴァイのほうが得意だ。いまだかつて発見されたことがなく、たまにワイドショーで見憶えのある顔を見ても失踪という背景が付随している。

 行方不明者を思って泣く、親しかったのであろう者たちの顔が脳裏に浮かんだ。微量の二酸化炭素と共に追い出す。

「お前が世間の話題に関心を持つ日がくるとは。ようやく人間らしくなったか」
「……目を付けられたら面倒なだけだ」
「ニンゲンにもヴァンパイアにもな」
「分かってんならもう少し」
「いいじゃないか、そのほうが寄ってくる。ニンゲンも、ヴァンパイアも。そしたら食べればいいし、殺せばいい」

 リヴァイの言葉をまったく気にしていない様子の男に呆れ、それ以上の注意喚起はやめにした。

「……静かに」と。エルヴィンが人差し指を立てる。案内されたのは無駄に広い寝室だった。

 真っ白な壁のひとつは全面窓になっていて、ブラインドが上がっていた。大粒のラメをこぼしたような光の洪水がまばゆい。陽が昇れば、このブラインドは閉じられてしまうのだろう。

 広さのわりに物の少ない室内には、キングサイズのベッドがゆったりと置かれていた。女が一人横たわっている。裸だがリヴァイを気にすることなく、ぴくりともしない。──気を失っている。

「……例の、掻っ攫ってきた女か」
「掻っ攫ってきた……? 嫌な言い方だ」
「事実だろ」

 エルヴィンがしばらく一人の人間に入れ込んでいたことは知っていた。が、もうとっくに殺したと思っていた。決まった名前ばかり繰り返すようになったのは何年か前だったし、──まさか今も傍に置いているとは。

「最初はな。だが私といることを決断したのは、この子自身だ」

 ベッドへ腰掛けた吸血鬼エルヴィンは、死人のように蒼白い寝顔を撫でる。起こさないように、そっと。

「……で、話は」
「明日から二ヶ月ほどここを留守にする」
「オイオイ、待て。監視は好きだが、俺は世話焼きじゃねえ」
「察しが良くて助かるよ。この子の……ナマエの面倒を見て欲しい。人間は脆くてね……独りで閉じ込めておくと、すぐに死んでしまったりする」
「出て行く前にやっちまえばいいだろ。またいくらでも獲物は」
「ナマエは獲物じゃない。恋人だ」

 詐欺師の眼がギラリとリヴァイを捕らえた。女子供だけではなく、男までも惹きつける邪悪な碧。

「……お前くらいしか頼める奴がいないんだ、わかってくれ」

 リヴァイもベッドへ歩み寄り、ナマエを見下ろしてみる。柔らかそうな頬、形の良い唇、影を落とす長い睫毛。静かな寝息は穏やかにも聞こえた。

「まあ悪くねえが、前の女のほうが見てくれは良い」
「あんなの恋人じゃないさ。ただの獲物だ」

 冷たく言い放つ声を避け、吸血痕のない首筋を眺める。

 エルヴィンは自制心が強い。飢えに負けて無差別に殺したりはしないし、欲しい血を見極めて確実に手に入れるような男だ。その気になれば獲物のほうから寄ってくるため余裕なのか、毎回一度ですべてを吸い尽くしてしまう印象があった。

 咬みもせず大切に取っておく。そんなこと、リヴァイが出逢ってから初めてだ。嫌な予感がざわざわと急き立てて煽ってくる。なぜ殺さずにいるのか? そんなの、知りたくはない。

「……こいつ、不味いのか」

 答えの分かりきっている質問を投げかけた。

「いいや。ナマエの血は極上だ、とても言葉では言い表せない……もう二度とほかは要らないとさえ思う」

 詐欺師の仮面は外れ、その下の素顔で優しく微笑んだ男は眠るナマエに、同じ優しさのキスを。

 嫌な予感というものは、大抵当たる。リヴァイはエルヴィンに視線を移した。エルヴィンの視線をいまだに独占するのは、か細い女。

「だが。味なんかもう、関係ない」

 再びリヴァイに向いた碧は獰猛で、随分と“ヴァンパイアらしい”。

「言ったろう、ナマエは恋人だ。私はナマエを愛している。死なせたくないんだ。……永遠に」
「永遠、だと? はっ、不毛だな。こいつは人間だ、歳を食う。俺らは」
「与えたくなる」
「……」
「たまに、酷く夜明けが恐いときがあって……新しい一日がナマエを死に追いやると感じた瞬間、私の血を与えてしまいたくなる」

 リヴァイは眉間を寄せた。これ以上の戯れ言は聞きたくない、というように。もともと神経質な青灰色が、どんどん濁る。

「んなことすりゃすぐバレて……お前が死ぬ」

 ヴァンパイアが一定量の血を与えてしまえば、人間は天国でも地獄でもない、永遠の夜の底へ逝く。エルヴィンが血を与えたならばナマエも黒い翼を、鋭い牙を、生血への欲望を宿すこととなるのだ。

 それに仲間入りさせたところで、寄り添えるのなんてせいぜい三日くらいだろう。勝手に血を分け与えるのは掟破りだ。罪を犯せば追手はすぐにやってくる。

 そしてそのまま処刑台──太陽の下、へと放り出されておしまい。エルヴィンだってよく理解しているはず。

「……昔、父に言われたことがある。“人間にだけは惚れるな。惚れたら最後、太陽に晒されて消滅する”。なぜ惚れたら太陽に? ずっと疑問だった。だがなるほどな、今ならわかる」

 エルヴィンが、ナマエに触れた。愛おしそうに、壊さぬように、怯える手で。

「わずかな可能性に賭けてみたくなる……共に生きていけるんじゃないかと夢想してしまう。罰を受けると、知っていても」

 長い付き合いの男。もう知り合ってどのくらいか、思い返そうとすれば途方に暮れる。なのに初めて見る、翳った表情。

 エルヴィンが人間を? この冷酷な男が、愛を? まさか。ありえない。だが事実そうなら? この博打打ちが賭けに出たら? そうしたら、エルヴィンは。

「そこまで執着するほどの女には見えねえが」

 リヴァイが思うことはたくさんあった。ありすぎて、そんなつまらない言葉にしかならない。

「……とにかく、頼んだぞ、リヴァイ。……ナマエを殺したら一生恨んでやるからな」

 おどけるような声色へ切り替えられたので、思わず溜息をこぼした。仕方ない。ほんの二ヶ月、六十日だ。頼まれてやってもいいだろう。

 その間にナマエがいかに駄目な人間かを探り、二ヶ月後に戻ってきたエルヴィンに突きつける。そしてバカな考えは捨てさせればいい。

「了解だ」

 リヴァイが頷けば、エルヴィンは「ありがとう」と微笑んだ。やはり見たことのない、優しい笑みだった。





「あの、また紅茶だけですか?」
「……」
「たまには何か食べたほうが……作りましょうか? モンブラン、とか」
「てめぇそりゃあエルヴィンの好物……」

 言いかけ、舌打ちをした。監視生活五日目にしてリヴァイはうっかり口をきいてしまった。接触は避けたい。面倒だ。だから無視を続けていたというのに。

「そういう声してるんですね!」

 ダイニングテーブルに頬杖をつくナマエはニコニコとしている。それを見て膨らんだのは、苛立ちではなく呆れ。

「よくそんな間抜けなツラできるな。いつ殺されるかもわかんねえってのに」

 エルヴィンの恋人だからしないけれど、犯すことも殺すこともリヴァイにとっては容易だ。危機感を持てと喝を入れたくなる。

「わかりますもん。リヴァイさんはひどいことしないって」

 リヴァイは顔を顰めた。あまりにも柔い笑顔がもはや心配になった。エルヴィンに囚われてよかったな──心中でぼやく。

 ナマエと数日間共にいて感じたのは、この女には中身などなくてスカスカそうだ、ということ。薄汚い人間社会のなかでは簡単に騙されて搾取される側だったに違いない、ということ。

 でも、あのエルヴィンが惹かれた女だ、なにか裏があるのかもしれない。純粋そうに見えるのも全部演技で。

「バカ言え。ひどいことしねえ奴が無視決め込むか」
「あっ……たしかに。私、これでも結構傷つい……んーでもいいや。もうイケボって知ったし」

 イケボ? 慣れない単語に疑問符が浮かぶ。が、意味を聞きはしない。やはり、面倒くさい。気になったこともどうせ明日には忘れる。明日憶えていても、五百年もすれば絶対に。

 リヴァイの日々にはそういう無意味があふれている。愛情とか寂しさとか、そんな感情だって一過性のものだ。たとえ感じたとしても五百年後には消沈している。

 幻覚や幻聴と同じ。感情なんて、幻想でしかない。

 リヴァイは手元でローズの香りをのぼらせる、薄朱の液体を見つめた。先程淹れた紅茶である。造られたもののなかでもわりと好きなほうだ。ナマエが話しかけてきたせいで、口をつけるのを忘れていた。

「お前は俺……エルヴィンが、怖くねえのか」

 紅茶に反射するのは人間。牙も翼も生えていない人間。なのに。

「正直に言うと……怖かったです。すごく。ここに初めて来た夜なんてエルヴィンさんがいきなり牙を、……懐かしいなあ、もう三年も前」

 “もう三年も”。その年月は、ナマエからしたら長いのだろうか。人間じゃないリヴァイには分からない。

 まあどうでもいいか、と切り替えた。なんにせよエルヴィンが戻るまで生かしておくだけ。殺しさえしなければいい。あと五十五日と少しの間、傍にいるだけだ。

 ──こうして、リヴァイとナマエの、奇妙でゆるやかな時間が動き出した。最初で最期の、夜が。







  

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