雨に打たれることも構わずにただそれをじっと見つめている彼女をみて、ベルモットは無意識に傘を握る手に力を込めた。美しく磨き上げられ赤い塗装がきらりと光る爪が皮膚に食い込み傷を作るが、構いやしない。「キティ」銃弾の飛び合う闘争の中だって、爆弾によって崩れゆく建物から逃走を図っている時だって、彼女は一度たりともベルモットの声を聞き逃したことがなかった。もちろんこんな豪雨の中だって――そう期待はしていたが、反応がないことに対して予想はしていたし、怒りは沸かなかった。ただ少し、寂莫の情は抱いた。「ナマエ」いつか彼女の母が呼んでいた名を口にする。途端ぴくりと反応しこちらに視線を向けてきた姿に薄く苦笑を浮かべると歩み寄って傘を差しだした。「風邪なんて、惹かないで頂戴ね」「恥ずかしいな、ベルモット」「恥ずかしい?」思い起こすその姿は確かに母の顔をしていて、抱えきれないほどの愛情を娘に抱いていた。その母親は、今や雨水に晒され羽虫のとまる石へと変わり果てている。「だって慣れていないんだもの。すこし、くすぐったいわ」頬の血色を良くさせて恥ずかしそうに答えた少女のその手には鈍い光を放つ銃が握られている。


「さ、帰ろう、ベルモット」
「…ええ、キティ」


崩れた石を横目で確認すると、二人は歩き始めた。







 ナマエは生まれたその瞬間から、組織の人間であることから逃げられない運命にあった。両親共に組織の人間であり、父親は早くに脳みそを吹き飛ばされ死亡し、母親は米国連邦捜査局の人間に捕まることを恐れ自殺を図った。二人ともコードネームを持つ地位にいたため多忙な生活を送っており、ナマエは一人でいることに慣れていた。父が亡くなってからは幸運にも、娘に危害が及ぶかもしれないと考えた母か、何かと任務を共にすることが多く比較的に関係の良好であったベルモットがナマエと共にいることになった。両親を二人とも亡くしたあとは直ぐに組織の一員として働き始め、母とベルモットに叩き込まれた技術のお陰で比較的早い時期にコードネームを貰う地位にまで登りつめた。


「最近はずっとベルモットと一緒だよね」
「あら、不満?」
「ううん。わたし、ジンの顔を見ていると具合が悪くなるから」
「キティ…兄貴の顔を見てみろ」


鋭い眼光から逃れるように背を向けナマエはベルモットの左腕へ飛びついた。笑い続けている彼女に疲れたねと零してグイグイ引っ張っていく姿が年齢に合わず幼い彼女の癖だった。ナマエは死んだ母のコードネームにおまけをつけて与えられていたが、組織の人間は皆口を揃えておまけのキティと呼ぶ。唯一ジンだけがそれを口にすることをナマエはもちろん、ベルモットも疑問に思っていた。







ベルモットにとって、ナマエの存在はどうも位置づけにくい人間だった。彼女の母親の紛い物になるつもりは露もないし、まだまだ精神的に子供のような小娘を相棒と思ったこともない、だからといって淡泊な感情ではなく友の娘以上の感情を持ち合わせているつもりだが、友というべき存在でもない。ただ同じ組織に身を置く人間では自分自身でも納得できない。一度私の事はどう思っているのか、と問うてみれば対して考えもせずにわからないと答えられた。その返答に脳みそが空っぽなのかと呆れや少しの怒りを覚えたが、そこで何故自分がそんなことに拘っているのかと疑問を持ち逆に冷静になることができた。きっとこのままで良いのだろうと、ただこの関係に居心地の良さを感じる、それだけ理解していれば十分だと結論付けたのだった。


「…CIAですって?なぜ今更そんな事が…」
「この間の戦利品だ。お前はアイツに探りを入れろ」
「ジン。あの子は、」
「疑ってるわけじゃねえよ。ただの保険だ」


それなのに。







「ママがCIAだった?」


薄暗いバーの一角でミモザを傾けながらナマエはベルモットの声に耳を傾けていた。「ふーん、」と明後日の方向へ視線を彷徨わせる姿は心底どうでも良いといような表情であった。ベルモットはバイオレットフィズを片手にナマエの表情を伺うがいつもと変化のない様子を見ながらも少し落ち着かなかった。誤魔化すようにハイペースで進むアルコールにナマエが「どうしたの?」と問うがなんでもないと返せばそれを素直に受け取りながら煙草に火をつけた。


「あ、そうか。上手くやれば向こうから情報を引き出せるかも」


その言葉にはっと顔を上げナマエの左肩を右手で掴んだ。あまり触れる機会などないため、記憶に残っている彼女は随分昔のことだったことを知る。唇を少し噛みしめ胸中に渦巻く思いを恐る恐るといったように静かに口にした。


「真っ当な人生に戻るチャンス、よ…」


ナマエに視線を合わせることができず、握られたままのミモザを見つめる。何を、云っているのだろうか。自分の口からでた言葉だ、そして本心でもあった。決してジンに云われた任務のためではない。生まれた時からこの生き方しか知らない彼女。いつ死ぬかもわからないこの世界にいるなら、と。しかしそれは逆に彼女を死に導くことになるだろう。もしかしたら近くに組織の人間がいるかもしれない、否ジンのことだ。いると考えたほうが良い。己のあまりの失言に気が付きサッと体温が下がるのを感じる。余計な事を彼女は云う前に訂正の言葉を口にしようとした時、ミモザからナマエの手が離れベルモットの右手を握った。


「”Even if I go to heaven, I'm not alone.”(もし天国に行ったとしても、私はひとりじゃない)」
「…それは?」
「ママにはパパがいるから、あなたは大切な人を見つけなさいって、ママはいつもそう云っていたわ」


ナマエの父親はいくら探ってみても塵一つでてこなかったため、限りなく白だろうとジンは云った。裏切り者として殺された母は確かにノックであったが、あの二人は愛し合っていたのだろう。ベルモットは知らなかったのか、分からないふりをしているのか、しかしナマエは両親の愛を以て自分の居場所でさえも幸せは見出せると知っていた。


「ベルモットは特定の男をつくるつもりないでしょ?だから、わたしはずっといてあげるから」


いつもの癖のようにナマエはベルモットへ飛びつくとその体温を伝えるように、宝物を守るこどものようにぎゅっと抱きしめる。大切にしてきた子はいつの間にか色々なものを感じて、たくさんのことを考えていた。ぼんやりとする視界の中ぎこちなくナマエの背中へ手を伸ばし抱きしめ返した。今までだってこんなことをしてやった記憶はないし、きっとこれからだってもうすることはないだろう。


「ベルモットはいつまでも死ななそうだよねぇ。だからわたしが先に天国で待ってるから、きちんと迎えに行くね」
「バカね、あなたは」


160526

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