雨上がりの濡れた道を閉じた傘で老人が杖をつくように身体を支えながら歩いていた。慣れた仕事とはいえ一段と気を張る仕事の後は精神的肉体的疲労にいっぺんに襲われ温かな自宅への道ですら億劫だ。そんな私の姿を隣で歩く降谷は笑いを浮かべながら伺う。成果はどうだった?と。


「どうって、もちろん黒よ。だから私を動かしたんでしょう…」
「いや、最終確認だよ。いま、風見たちが動いてるさ」
「貴方はいいの?」
「俺が必要な案件じゃないだろ」


いけしゃあしゃあと云ってのける男に思わず飛び出しそうになった皮肉を胸の奥に閉じ込めて返してみれば、あまりの言葉に絶句しそうになる。久しぶりにこうして話したからか忘れていたが、山よりも高いプライドと自信を持つ男だという事を思い出した。優しい顔をして、甘い言葉を吐くようで、思ったことは正直に口に出す。幾人もの女がその顔に騙されて言葉に惑わされているようだが、声を大にして叫びたいものだ。良い人生を送ってきたんだろうなあ、刺されてしまえ。


「顔に全部出てるよ」
「滅相もない」
「ところで、仕事のほうはどうなんだ?異動したんだろう」
「ええ、どこからかの入れ知恵のようで」


十中八九この男の仕業であることは移動を言い渡されたその場で気が付いているが、この男はどうも私の口を開かせたがる。そんなものは時間の無駄だというのに。「忙しい貴方がこんなところで油を売っていていいんですか」「ついでに珈琲でも飲みながら俺との時間も売りつけようか」「いらない」だいたい、潜入調査中の私との遭遇率が異様に高いように思う。何のための潜入なのかわからなくなってくるほどに。この時だって、どこで誰が見ているかわからない。


「それじゃあ景気良く一杯?」
「今日は随分と粘るわね…もしかして、私の仕事は終わり?」


もしやと思い正直に口を開けばにこやかな笑みを浮かべながら「いいや」と否定した。僅かに浮上していた気分が奈落の底へと落とされるようだった。長い付き合いだ、わかっている。この男、態とである。部下からは完璧人間のように云われるこの男は――実際に非の打ちどころがないような完璧人間だが――いつも私や部下の数倍の案件を抱え込み忙しく日本中を駆け回っている。そんな男が遊び半分で軽い口を叩くようなポジションにいる自分自身に少しの優越感と愉悦を持っていた若い頃が懐かしい。何やかんやと同期であり組む事が多く同じ時間を過ごすことが多い。その内にただこの男の体のいい息抜きにされているだけである、と。

彼の愛車の助手席に座り横顔を眺めるのだってもう飽き飽きしている。いつものようにダッシュボードに収まっている煙草を取り出して火を付けていれば、赤信号で運転の手を止めていた彼の視線を感じる。今日は何かと、構いたい日なのだろう。それか、何かあったか。私たちは仕事柄そう気軽に口を開くことができない。いや、私は上司や部下にペラペラと酸素を吸い二酸化炭素を吐き出す如く愚痴るが、特に降谷はそうゆう事をしない男だった。そんな面倒なプライドを持つめんどくさい奴だからだ。だから自然と、彼の愚痴には私が付き合う羽目になる。それが良いことだと、嬉しい事だと思っていたあの頃の若さを今は失っている。


「たぶん、次の月から例の組織に潜ることになる」


灰を落とす手が止まる。気が付かないふりをしながら如何にも悪役ですといったような奴らの風貌を思い起こした。近年何かと強気に行動を起こす奴らのことは報告として耳に入っていたからいつかこの案件がくるだろうとは思っていた。上着のポケットを弄り何かを差し出してきたのを見て手のひらを伸ばせば、小さな記録媒体を握らされた。「その間は、頼んだよ」似合わないことしてくれちゃって。握らされた手はそのまま吸い込まれるように自分のポケットへと戻っていく。こんな準備までして、これから死にでも行く気なのかとそう返そうとして、それを寸で止めて口を閉じた。そんなことに返答をくれる男ではないのだ。掃溜めを無くしてまで、自分の将来の明かりを吹き消してまで、この国は守らなければいけないようなものなのだろうか。自分の中で微かに息をしていた青臭さに嘲笑を零し燻らせた紫煙を見つめた。


160517

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