*高校生

泥臭いこの男が好きだった。
陽も沈み切った時間に、財力に物を云わせ煌々とした明かりの中で汗も気にせずラケットを振り続ける。
部活動で組まれたメニューは彼だって易々とこなせるようなものではない。疲労したその身体に鞭を打ち、帰宅してもそれ以上に努力を重ねる。勉強だって、生徒会の仕事だってあるだろうに。

天才ではない。才がないわけではないが、上には上がいるものだ。愚かではない彼はそれを知っていて、努力を積む。それもまた、天に愛された者には一歩及ばない。それでも、その時があると信じて突き進む彼が眩しくて、いっとう愛おしかった。

「はい、終わり。今日はもう休んだら?」
「…生徒会の書類がある」
「20時か…わかった、急ぎの物は手伝うよ」

眩しい白のタオルで汗を拭きとりながら建物へと足を進めていく。疲労のひの字もみせないこの努力馬鹿に、この時ばかりは同情の念を抱く。

頂点に立つことが当たり前で、それは自分がやるべき事だと決して疑わない強さ。下の者たちに苦労をさせないようにと自ら重荷を背負うことを厭わない。彼の生まれに羨望の念を抱く者が多い一方で、一部の理解者は同情の念を抱く。いくら帝王学を仕込まれたとはいえ10代そこらの子供には重荷以外の何物でもない。それでも、彼がそれを一片たりとも疑わずいるものだから、言葉を掛ける者はいない。そう、私以外は。

「そろそろお前も堪えてくるだろう」
「ケイゴに比べたら安いもんだよ」
「そうか…悪いな」

テニスはわたしと彼の共通の趣味だ。と、云うものの、わたしはケイゴに影響されたというものが大きい。小さい頃から共にいる相手がこう楽しそうに練習に励んでいるのをみて、わたしも真似をして始めた。運動神経には多少の自身があって、時折ケイゴの練習相手をすることがあったが、それも中学生までだ。共に氷帝学園高等部に入学してからテニスはやめた。それでもこうしてケイゴが続けているから、縁までは切れない。

彼はわたしに対して少々自虐的なところがあるから、テニスをやらないわたしを自分のせいだと思っているが、ここがまだ青臭いところなんだろう。そんなことこれっぽっちも思っていないのに。

「とりあえず、ケイゴは早く休んだ方が良いよ。最近、煮詰めすぎ」
「…なあ、なまえ」
「なあに」
「聞いてほしいことがある」

濡れた髪のまま机に向かい書類仕事を始めたケイゴの髪を真っ白なタオルと拭き取りながら答えた。
大よその予想はつく。高校卒業を控え、これからのこと。テニスを続けるか、家の跡を継ぐか、はたまたその両方か。
こちらに視線を向けずボールペンを動かす手を止める。何度も云うが、彼はわたしへは遠慮することを知っている。他の者へ向けるように、それが正しいのだと、自分に着いてくれば良いと、云ってくれればそれだけで良いのに。

「俺は…テニスを続ける。親父の期待には応えられない」

負けたままでは性に合わないと云った。手塚との約束もあるのだろう。全力で倒すという、一方的なものだが。
わたしの役目は、あくまでもケイゴのサポートにある。父が跡部家の重鎮であることから、生まれる前から決まっていたことだ。それに何の文句もない。
だって、こんなにうつくしいひとなのだ。

「“アトベ”はどうするの。ご当主は、ケイゴでしか考えていないと」
「親父が倒れるか老いぼれるかしたら、俺が継ぐ」

こちらに向けた目は、試合中のような真剣な顔をしていた。わたしに向けられたことは、数少ない。瞳の奥には悩ましいという思いも見て取れた。わたしが着いてくるかという点においてであるのならば、これ以上光栄なことはないと思う。

「わたしは…着いてはいけないよ。それでも?」

落胆したように、ギラギラと光る瞳は影を乗せた。俯いて「それでも」と答えた彼が、どうしても愛おしい。
高校卒業という境目に、自身の行く末を案じる学生は少なくないと思う。それでも、彼はこうして好きなことを選ぶことでさえ、一世一代の決心が必要だ。それほどまで、アトベは大きく、そして多くの人の生活を握っている。
冷えた頬に両手を添わせて瞳を合わせると、驚いた表情を見せた。わたしだって、大きな決心なのだ。曖昧に聞かせるつもりは毛頭ない。

「着いていく。ケイゴが満足して、アトベを引き継ぐその日まで」

きっと、そのあとだって。腰を引き寄せられ丁度胸元に彼の顔は埋まる。
この重荷を分けてやれるのはわたししかいないし、わたしのこの境遇に本当の意味で理解してくれるのはケイゴだけだということを知っている。この関係にあえて名前をつける必要もないが、いつからこんなに手放せない相手になっていたのか。彼がわたしを「なまえ」と呼んだ、その日のことが鮮明に蘇る。

170302
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