それもひとつの愛のことば

鈍い痛みを感じて目が覚めた。見慣れない天井はどう考えたって私の家のものではない。痛みの正体である重たい頭をどうにか持ち上げやたらにふかふかとした真っ白な布団の上に座り込む。……え、私、服着てない…!?
私以外誰の姿も見えないというのにバッとシーツを引っ掴んで身体から首までを隠す。待て待て待て。ここはどこだという疑問ももちろんだけれど、まず昨日の事を思い出さなくては。確か、





「起きたのか」
「っ!?」

ガチャリ、その存在にすら気づいていなかった扉が開かれる。

「よく寝てたなあ」
「………おはよう……………」
「なんだその顔」

これまた真っ白なタオルで濡れた明るい茶髪をガシガシ拭きながら下着を身に纏っただけの姿で現れたのは、嫌という程知っている顔だった。その扉の向こうはおそらくバスルームで、彼はシャワーでも浴びていたのだろう。晒されている逞しい腹筋もしっとりと濡れている。
その光景にあんぐりと口を開け、降谷の問いかけにもまるでロボットのようにしか答えられない私の元に、ほとんど裸のその男が近づいてくる。

「まさか、覚えてない?」

大きなベッドのスプリングが鳴り、降谷は大きなベッドの隅に腰掛けて覗き込むようにこちらを見た。その瞳に宿る感情はまったく読めないけれど、楽しそうでないことだけは確かだ。それはそうだ。私だってできる事なら今すぐに逃げ出したい状況である。

「……降谷の顔見たら、思い出した…」

そう、思い出してしまったのだ。私が降谷の姿を見て馬鹿みたいに口を開けてしまったのは、彼の格好に驚いたせいだけではない。その年齢の割に幼い顔立ちを目にした瞬間、全て思い出してしまったからである。今これほど頭が痛いのは、昨夜飲みすぎたせいだということ。そしてそのまま、私が告白紛いの台詞を吐き出したせいで、私と降谷は一線を超えてしまったということも。昨日までお互いの腹に蹴りを入れることはあれど、手すら握ったことのなかった私達が。
脳が目覚めて思考がはっきりしてくると、今度は羞恥や後悔で消えてなくなりたくなってくる。今からでも昨日の私に待ったをかけたい。目の端に涙が浮かんだ。

「泣くなよ」
「泣きそうだけど泣いてない…」
「こっちはお前の泣き顔なんか見飽きてる」

巻きつけていたシーツをずずっと目の下まで引き上げた。そりゃ、警察学校時代から同じ道を走り抜けてきたのだから、泣き顔だってなんだって降谷には幾度も見られてきたけれど、今言うべき台詞ではないと思う。
あまりに昨日までの態度と変わりない降谷の真意など私にわかるはずもない。いつだって降谷ことはよく分からない。しかし今はじめてそのことに恐怖を覚え、浮かんだ涙の粒はシーツへと吸い込まれていく。

「とりあえず、風呂はいったら?」
「…そうする、あっち向いてて」
「なんで」
「……この下なにも着てないの」
「知ってる。昨日全部見たのにいまさら?」
「っもー!いいから!」
「分かった分かった、」

にやりとこちらを見た降谷に枕を投げつけて、仕方ないと言わんばかりにその枕に顔を埋めたのを確認する。それからバスルームに続いているのだろう扉へと駆け向かった。バタン!と扉の音を鳴らせば、その向こうから篭った笑い声が聞こえてくる。

…ここから戻った時、降谷がもう帰っていたらいいのに。






「早かったな」
「………」

私の願いも虚しく、流石に服を着たらしい降谷はやけに爽やかな雰囲気で私を迎えた。ソファに寛いでいるだけで画になるなんて私の知り合いのなかではこの男くらいだ。対する私はすっぴんに無造作に下ろされた髪型に、着ているのは備え付けのバスローブだ。この格好で仮にも上司の前に現れるのもどうかと思ったけれど、バスルームへ向かう前の私には自分の服を掻き集めて持っていくだけの余裕はなかった。

「何か飲む?」
「…、水」
「ん」
「どうも…」

差し出されたペットボトルを受け取って喉を潤せば、すっきりしたおかげで幾分か頭痛も和らいだように思う。

「さて、高階」
「……」
「昨日の話の続きをしようか」

けれどこの状況において、酒が抜けたからといって痛みが完全になくなるなんてことはありえない。私の居ぬ間に降谷が姿を消さなかったということは、もちろん昨日の話を蒸し返すつもりに他ならないからだ。

「とりあえず座って」
「…うん」

さっき降谷がしていたようにベッドにのろのろと腰掛けて、ソファに座る降谷と向かい合う。

「違う」
「は」
「正座」
「……………」
「 は や く 」

甘ったるい展開を期待していた訳ではない。なにせ昨日までの記憶で言えばただ私が泥酔した勢いで告白紛いの発言をして、同じく酒の入っていた降谷が据え膳を貪っただけで、そこに降谷の気持ちがあったのかは確かじゃない。それにどこに降谷の気持ちがあろうと、優しげな瞳を私に向ける降谷なんて想像がつかないし。
それにしたって正座だなんて、と睨みつけたのはいいものの、そうして見えた降谷の顔は、完全に仕事をしているときの顔であった。







「まず」
「ハイ」
「高階に三ヶ月の禁酒を命じる」
「……ハイ」

話をしようか、と言ったのはどの口だ。結局ベッドの上に正座することになった私とその前に胡座をかいて座った降谷の間で交わされているのは話し合いではなく、降谷の一方的な説教である。

「気の知れた相手だからといって警戒することを怠るな。アルコールに呑まれて意識を失うなんて以ての外。」
「ごもっともです…」
「いつ何時、誰に狙われるか分からない職種である事を理解して」
「以後気をつけます……」

これが一夜を共にした男女の会話とは誰も思うまい。当の私だってそうは思わない。場所と服装が違うだけで、仕事でヘマをやらかしたときにねちねちと説教されるときのそれとなんら変わりないのだから。
そんな降谷相手に、「降谷だから気を許したんだよ」だなんて甘ったるく許しを請うほど私は馬鹿な部下ではないし、出来た女でもない。

「まったく…俺がバーボンなら酒に薬でも仕込んでどうにでもしていたところだ」
「え」
「冗談だよ」
「目が本気なんだけど」

目が本気だし、バーボンならばやりかねない。背筋が寒くなるのを感じて身震いした。禁酒が解けたって暫く降谷とは飲みたくない。

「上司として言うのはこの辺にしておいてあげる」
「もうお腹いっぱいです…」

ぱっと声色と口調を切り替えた降谷の言葉に正座していた足を崩す。思っていたよりも短く済んだ説教のお陰で、足が痺れることもなかった。短いとは言っても降谷の説教は静かであるのに一言一言がグサグサ突き刺さるのだ。
ため息とともに根を上げた私にいつもの降谷ならば倍ほどの嫌味でとどめを刺しにくるところだけれど、もう仕事モードからは切り替わったらしい降谷が気に留めてくることは無かった。

「気を緩めるなとは言ったけど、高階が気を緩めたのに漬け込んでここまで連れ込んだのは俺だからなあ」

その言葉は一理あると思うものの、私はその部分を責めていい立場にない。けらけら笑って蒸し返したくなかった部分にちょこんと触れてきた彼に誘われるように、もやもやと滞在していた疑問が私の口から吐き出された。

「…それは、据え膳的な意味で?」
「そう思う?」
「まあ、普通に考えたらね…」
「うーん、半分正解ってとこかな」
「どこを半分にしたらいいの…」

困惑する私に楽しげな笑みを浮かべて、降谷が口を開く。

「差し出されなくたっていつか食らってやろうと思ってた膳の方からやって来たから、食らい尽くしてやろうと思って」
「は」

さらりと彼はそう言って胡座に肘を着いたけれど、ちょっとよく分からない。こういう時にぎゅるぎゅる回転してくれる思考回路を持っていたら、きっと私は今頃降谷と同じ階級だったのだろう。膳というのは据え膳の膳の事だろうか。そもそも据え膳の膳が意味するところというのは、

「ちなみに俺はいまの高階の格好も据え膳と受け取ってるけど」
「え……っちょっと!」

訳がわからないままの私を置いてけぼりにした降谷に柔らかなベッドの上で肩を押される。するとなにも身構えて居なかった上に不安定な場所で、私の身体はいとも簡単にシーツの海に転がされた。頭がガンと一際強く痛む。その上にさも当然の流れと言わんばかりに降谷が乗りかかってきた。良くない。良くない展開だ。

「酒が抜けたらもう一回抱くって言ったし、もう話し合いの必要もないだろう?」
「まって、何にも分からないままなんだけど…っ!」
「分からない?」

降谷は私の首に顔を埋めて事を進めようとする。柔らかな髪の毛が肌に当たってくすぐったいが、今はそれどころではないと彼の肩を必死に押し返す。話し合いの必要がないのは降谷だけの話だ。二日酔いで痛む頭はそう上手く回転してくれないし、私の知りたい言葉結局ほとんど分からないままだ。
私が力一杯押し返したところでやはり降谷はびくともしなかったが、その顔を上げてこちらを見た。





「…本当に?」
「っ…!」

そのまま降谷の顔は私の目前にまで迫ってくる。垂れ下がった瞳の奥に見え隠れする熱の篭った視線に思わず顔を逸らす。その視線は昨日の事を思い出させるには充分だった。あの時、降谷はまるで私の事を大事にしているみたいに、

「高階のほとんど告白みたいな泣き言がなくたって、こうなるのは時間の問題だったってことだよ。俺は泣き言は言わないけど。」
「…………それは、告白?」

半分くらいは私を貶す言葉だったように思うけれど、憶測から弾き出した単語をそのまま投げかける。そうだったらいいな、と希望も込めて。

「さあどうでしょう」

バスローブの結び目をするりと解いて降谷は笑う。紡ごうとした言葉は降谷の唇に飲み込まれて声になる事はなかったけれど、そのかわりに目の前の首に腕を回せば彼は喉の奥で満足そうに笑った。私が降谷の言葉を意味を落ち着いて考えられるのは、もう少し後のことである。