不透明な心臓

※キスをしないと出られない部屋




「『閉じ込められた相手とキスをしないとこの部屋の鍵は開きません』……そんなことあります?」
「少なくとも遭遇したことはないな」

この部屋へはターゲットを捕まえるべく突入したはずなのだが、それがどうして二人揃って閉じ込められる羽目になったのだろう。公安として働く身であるがゆえに非日常な出来事には耐性があるつもりでいたけれど、さすがによくわからないメモで上司とのキスを強要されるのは今回はじめてである。

「とりあえず風見に…………」
「どうしました?」
「ご丁寧に、電波も遮断されてるみたいだ」

本当ですね。自分のスマホを確認しながら後ろ手でドアノブに手をかけるけれど、確かに私たちが今しがた通ってきた扉なのに何故か鍵がかかっていた。
壁も床も天井も、隅にちょこんと佇むソファさえも全てが真っ白なこの部屋は、どうみたって先ほど走り抜けてきたホテルの廊下のきらびやかな様子とは雰囲気が違いすぎる。全てが白色に包まれた一室も世界の中には存在するだろうけれど、前情報からこのホテルにそんな部屋はないと断言できた。当然ターゲットの気配も無く、ありえないと呟きたくなる話ではあるが、この一室だけが異空間であるというのがいまの状況を表すのには正しい表現なのだろう。

「今日逃したら奴は海外に飛ぶだろうな」
「えっ、逃げ延びるためにこんな大掛かりな仕掛けを…?」
「それは分からないけど、とにかく一刻もはやく出るしかない」

くだらないメモ一枚しかない部屋だけど、どこかに手掛かりはあるだろ。そういって降谷さんは部屋をぐるっと見渡すけれど、本当にソファとメモ、扉以外には何もない部屋なのだ。扉を開けるヒントが見つかるとは思えない。
かといって何もしないのもおかしな話であるから、唯一の家具であるソファへ近寄って、鍵でも出てこないかとくまなく探した。そもそも誰かが作った部屋なのかも不明な上なにが仕掛けられているかも分からない以上、力技で扉を壊すわけにもいかないしなあ…。

「うーん…」

お手上げです、と言わんばかりにどかりとソファへ腰掛ければ、人一人分のスペースを開けた隣に降谷さんも同じように腰掛ける。降谷さんが見て手掛かりなしなら、本当になしなんだろう。

「とりあえずそのメモ実行してみません?」

降谷さんが手に持つ、降谷さんいわくくだらない事が書かれたメモを指差すと、降谷さんは私が書類を溜めたそのデスクでケーキを食べているのを発見した時と同じ顔でこちらを見てきた。

「前のめりな女はモテないぞ」
「よくよく考えたら合法的に降谷さんとチューできるなんて最高な仕掛けだなと」

チュッと唇くっつけるくらいすぐ試せるんですから、ほら!と唇を突き出しても、降谷さんは表情を変えずにため息をつくだけだ。

「この部屋自体違法だと思うけどな」
「細かいことは気にせず試すだけ試してみましょうよ〜これで開いたらラッキーくらいの気持ちで。私としてはどちらにせよラッキーですけど」

あからさまな好意を降谷さんへと向け続けてはや数年。はじめはぎょっとしていた風見さんはじめ班の先輩たちも今では私の本気の求愛を降谷班の風物詩かのように扱い、生暖かい眼差しを向けてくるだけである。当の降谷さんも同じような扱いなのは少し気になるけれど。それでも仕事先のいい匂いのする女の人から貰った高級そうなスイーツをそのまま私へと流してくれる、この関係で満足している自分がいるのも確かである。
けれどそれはそれ、これはこれだ。お互いの意思が絡まず第三者に強要されたキスなんて回数のうちにはいらない、なんて降谷さんは思うのだろうけど、私はもしかしたらこの日の思い出を墓場まで抱えていくことになるかもしれない。それくらい二度とない機会だと思うし、この先自らの意思で降谷さんが私に口付けを落とすことは起こり得ないと断言できた。

とにかくこの機会を逃す手はない、といつまで経っても唇を突き出したままの私を見て、降谷さんははあ、と大きなため息をひとつつく。それから片膝をソファの上へと乗せてこちらへと向き直った。

「じゃあ、どうぞ」
「はえ」
「高階の言うことも一理あると思って」

さっさとしろ、と言わんばかりの降谷さんは、まだ思考の追いつかない私を置いてけぼりに、ソファの背もたれへ肘をついて目を閉じてしまう。
ひとつ深呼吸をして考える。提案に乗るとしてもてっきり降谷さんの方からされるとばかり思っていたけれど、確かにそうだ。提案したのなら私から一思いにかますのが筋か。納得は出来る。分かる。ただ、されるのとするのとでは緊張の度合いがあまりに違う。降谷さんは私に主導権を渡してくれたのかもしれないし面倒なだけかもしれないし、真意なんて分かるはずもないのだけれど、私主導になったことで私がガチガチに緊張するとは思ってなかったかもしれない。

「…で、は、失礼します」

もうすでに声が強張る。顔を近づけるべく手を付いた革張りのソファはどことなく冷たくて、その冷たさから手のひらを伝って身体に伝染しているような気さえした。
降谷さんの顔がかつてないほど間近に来ると、いよいよ自分の心臓の音が聞こえてくる。降谷さんの顔なんて見飽きるくらいに見ているけれど、こうやって同じ目線で眺めるのは初めてかもしれない。伏せられた目元には少しだけ疲れが滲んでいるように見えた。
いつもより早いリズムの心音と共に暫し降谷さんの顔を眺めていると、いまは閉ざされている強い眼差しが恋しくなってくる。長いまつ毛も勿論降谷さんの魅力のひとつだと存じているけれど、やっぱりわたしはあの力強い瞳がいちばん好きだ。それでもいま、私の心臓を思うとこの距離でその瞳を覗くことは叶わないほうが良いのだろうな。

と、思った矢先のことである。

「……」
「ひえっ」

突然私の大好きな灰がかった青色の中に、私が映る。それでも言葉を発することをしない降谷さんから意図は掴めない。掴めないし、今の私に降谷さんの気持ちを汲むだけの余裕はない。
何せ近い。先ほどまでは視線が交わることがない分、どきどきしたけれどどこか一方通行であることへの安心もあった。けれど今は駄目、もう駄目。私たちいま、どうしてこんなにも距離を詰めているんだっけ?この部屋から出るためにキスするって、しかも私がグイグイ迫った。確かに迫った。でも、






「………っあのすみません無理ですやっぱり別のっ」
「遅い」
「っん、む」

降伏宣言と共に一旦距離を取ろうと身体を後ろへ倒そうとするも、それが叶うことはなかった。不機嫌そうな降谷さんの一言が耳に届くころ、後頭部をがっしり掴まれて私の唇は降谷さんのそれで塞がれていたからである。

「〜〜っ!」

塞がれるというよりは、食べられているに近い気がする。すぐに離れていくと思われたその体温は角度を変えて何度も私の唇を啄んでいった。唇が合わさるたびに音が鳴るのがなんともいたたまれなくてぎゅっと目を瞑る。私が想像していた、チュッと音を立てるようなキスとは正反対の場所にいるようなキスだ。

「、ふ…」

後頭部に回っている降谷さんの指がするりと耳を撫でると、結局ソファについたままの手がひくりと勝手に動いた。
そうして最後に下唇を降谷さんの薄い唇が挟んで、やっと離れる。

「なんだ、自分から提案してきたくせに」

は、と荒い呼吸を繰り返すのが精一杯な私を、降谷さんは楽しそうに眺めていた。よくみる表情であるのに、その中で濡れた唇だけがただただ官能的で、どうにも耐えられず勢いよく目を逸らす。

「顔真っ赤だけど」
「〜〜〜っだって!食べ!食べましたね!!」
「こんなの食べたうちに入らないだろ」
「ヘンタイだ!」

けろりとなんでもない事のようにいう降谷さんに、その手の経験値が窺えて心臓が先ほどとは違う嫌な音を立てる。分かっちゃいるけど切ない。かき消すように大きな声で罵っておいた。
降谷さんが私に振り向く日はきっとこない。私は降谷さんの中でいつまでも手のかかる部下なのだろうし、そうでありたい。それが一番、長くこの人のそばにいる方法だと思うからである。私は今日のハプニングを一生の思い出として胸に抱えて生きていくだろうし、降谷さんは明日にはなかったことにしてしまうだろう。






開いたはずの扉へと向かう降谷さんを追いかけようと立ち上がる。先を歩く降谷さんがぴたりと止まってこちらを振り返った。なんともいえない、複雑な顔をしている。ヘンタイと言ったのが気に障ったのだろうか。それくらいは広い心で許してほしいものだけれど。

「もしも次があったら本気で食べるからな」

降谷さんはそれだけ言うと再び私に背を向けてスタスタ扉へと足を進めていった。

「エッッ!?」
「お、開いた。ほら仕事だ、行くぞ」
「ちょっと降谷さんっ……エッッ!?もっかい!もっかい言ってください!」