知らなくていい

カーテンの隙間から夕陽の差し込む、誰もいない教室はお気に入りの場所のひとつだ。運動部の声出しを聞きながらぼうっと携帯を触っていたり、鞄を枕にしてしっかり寝てしまっていたり、過ごし方は色々あるけれど、今日の過ごし方は有意義とは言えない。
ただでさえ苦手な数学は、二年になって担当教師が替わったことにより更に苦手になった。一週間に一度行われる小テストでは二桁以上の点数を取れたためしがない。小テストを返却する時の教師の小馬鹿にしたような顔に腹が立って今回は猛勉強したけれど、それでも結果は散々だし、その散々な結果を積み重ねた私は今、せっかくのお気に入りの場所でペナルティの問題集を解いている。
数学さえなければ成績は良いほうだと思うんだけどな。暗号にしか見えない文字列を眺めながらシャーペンを指先でくるくる回した。教科書に載っている公式とひとつずつ照らし合わせて、のろのろと暗号の下に似たような暗号を書き足していく。これは次の小テストもきっと一桁だなあ。

「…なにしてんの」
「わっ……月島こそ。部活は?」

男にしては低すぎない、聞き慣れた声が、私のお気に入りの形を変えた。去年から引き続きクラスメイトの月島蛍。部活中であろう彼は制服ではなくトレーナーにハーフパンツだ。膝にはサポーターも着けている。元から明るい髪色が夕陽を浴びて更にきらきらと眩しい。
今年の初めの春高でバレー部が全国に行く前から、背が高くて容姿も良い彼は学年の中でも注目されていた。それに対して嫌そうに眉を顰めるのを、一年の時からよく目にしている。なにせ去年も今年も、私たちは席が隣同士なのだから。

「忘れ物」

そう言って月島が私のそばに寄るのも、自分の席が私の座る席の隣なのだから当たり前である。私の席は窓際の後ろから二番目、月島の席はその右隣。なかなかいい配置だから、授業中にも少しのことで話し掛けて、その度にあしらわれている。
自分の席にたどり着いた彼は、そのまま私の手元を覗き込んだ。

「ああ、数学。オツカレサマ」
「その顔月島ファンに拡散したらファン減るんじゃないの」
「高階限定だから」
「うれしくない!」

ニヤリと口角を吊り上げた笑い方を私限定のものだと言うけれど、その表情はバレー部の面々にもよく見せる表情であるということを私は知っている。時々この教室まで勉強の教えを乞いにくる日向と影山相手にしているのをよく見るからだ。この場合私の言う「月島ファン」の話題を深掘りされたくないが為に無理矢理会話を切り上げたのだろう。

「補修、君だけなの」
「んーん、私以外は運動部ばっかりだからみんな昼休みで終わらせたらしくて」
「なんでそうしなかったのさ」
「私帰宅部だし、ご飯はゆっくり食べたいでしょ」
「ああ、よく食べるもんね」
「月島はもっと食べた方がいいよ」

胡散臭い笑みを貼りつけて投げてくる嫌味に、同じようににっこりわざとらしく首を傾げて投げ返す。月島の食が細いのは実は嫌味でなくただの事実だけれど、目の前の当人は口の端を痙攣らせて苛つきを露わにしていた。その様子を眺めながら再びくるくるとペンを回す。





「春」
「へ」

この場所では一度も呼ばれたことのない呼び方をされて、口から意味を成さない音だけが漏れ出る。と同時に、目の前に迫っていた端正な顔に付いている薄い唇が、わたしのそれを漏れ出た音ごと飲み込んだ。

「っ」

口に出して約束したわけではないけれど、私たちの関係を私たちは自ら人に話すことをしない。隠しているわけでもないから、山口とか、バレー部の先輩たちは知っていることだけれど。
私がここで夕陽と共に時間を過ごす理由も、私に対する遠慮のないその扱いの理由も、ふたりのときには名前で呼び合うその理由も。全部、私にとって月島がただひとりの存在で、彼にとっても私がそうであるから。

だからといって、名前も呼ばれたことがないこの場所で口付けされたことなどあるはずがない。ふたりきりの部屋の中以外で、恋人らしい戯れを仕掛けてくることなど滅多にない月島がだ。ありえないと分かっていても酔ってるのかと疑ってしまう、それだけあり得ない事である。

ちゅ、と音を立てて生温い温度は離れていった。

「な…、なにしてんの…っ!」
「ハイ、僕あと一時間で部活終わるから。これ見て終わらせといてよね」

動揺で言葉が詰まる私とは裏腹に月島はさっさと私から離れて自分の机の引き出しからプリントを二枚取り出し、その内の一枚を私に押し付ける。受け取ったそれは苦戦していた数学の例題が並んだプリントだった。しかも、月島の几帳面な文字で丁寧に書き込みがされている。これを見て取り組んでも終わらなかったら待っていた相手に置いて帰られちゃうな。
プリントに目を通し始めた私に影がかかって、頭にそっと体温が乗る。そのまま優しく髪を梳くのが嫌に様になる。言葉は鋭いくせに、その手はいつだってうんと優しい。頬に、耳に、熱が集まるのが自分でも分かった。

「ご褒美前払いしたんだから頑張って」
「ばか!」
「っあはは、顔真っ赤だよ。じゃあね」
「……!」

目を細めて、眉尻を下げて、極上のショートケーキを目の前にした時と同じように柔らかく微笑む。私がその表情に見惚れている間に彼は教室を出て行った。その手には私には渡さなかったプリントが握られていて、ああ忘れ物ってそれかあ、とようやく知る。
いまの笑い方は正真正銘、私だけが知るものだ。手の込んだ仕返しを仕掛けてきておいて、去り際にその顔はずるい。悔しい。いまだ熱を持つ顔をぱたぱたと仰ぐ。



好きな人を待つ、この場所が一番のお気に入りだ。けれどそこに好きな人がいるのなら、それは、ここは。私の世界だ。