君だけが知らない

真っ赤な血に塗れた右手で引き金を引けば、任務完了。もちろん死人はだしていない。最近やたらと警察内部を嗅ぎまわっていた連中に痛い目ににあってもらっただけだ。それでも公安の中でも割と血生臭い仕事だったように思う。終わった終わった、と肩をバキバキ鳴らせば、ひくりと一瞬身体が引きつった。
合流した降谷も首を回しながらふう、と息を吐いているけれど、さすがは今なお組織に潜入中なだけあって、やはりどこか余裕がある。

「さ、戻ろうか」
「その前に一応聞くけど」
「なに、っいた」
「お前の血だよな」
「っ…おかしいな、聞くって言ったのに手が出てきたよ」

しかも大分荒々しかった。
血まみれの右手を一瞬みた後、降谷の視線が捉えたのは私の左腕だ。そのまま強く二の腕を掴まれると、思わず声が漏れる。スーツごと切りつけられたそこは、傷は大したことないのに思ったより血が出てしまった。それを抑えていたので私の右手は血まみれというわけである。もうほとんど血は止まった筈だけど乾いちゃいないし、降谷の右手も同じく血まみれになってしまった。
その降谷はスーツが若干汚れていたり、顔に擦りむいた跡はあるが無傷に近い。それがなかなかに悔しい。この完璧人間め。さっさと離せと睨みつけようとしたところで振り払うように腕を解放されると、振動がまた傷に響いて痛んだ。

「この程度の相手でなんだこの大げさな怪我は」
「買いかぶりすぎ、降谷ほど余裕ないよ私は」
「気に食わない」
「私の話聞いてないよねえ?早く戻るよー」

そこらにぽつぽつ血痕が散らばっている埃っぽい倉庫の中で、降谷に付き合っていがみ合うほど私は暇じゃない。まだまだ仕事は山のようにある。瀕死でくたばり損なってる連中の後処理は私たちの仕事ではないし、それに、後からくるだろう他部署の人間に姿を見られる訳にはいかないのだ。さっさとこの場を離れたい。出口へと向かって歩き出せば、降谷も足を動かしたようだ。

「降谷今日デスク戻る時間ないの?」
「ない。報告だけ済ませてすぐに出る」
「三十分でいいから書類やってかない?私のデスクの書類の山どうなってるか知ってる?」
「滅多にそっちに行かないのに知る訳ないだろ。」
「みんなそれを分かってるから最近わたしのデスクに降谷案件の書類も積まれてんの!」

こつこつと二人分の靴の音が倉庫内で響く中、愚痴混じりの文句を降谷にぶつける。
潜入捜査中の降谷が忙しくて判子を押すだけの書類なんて読むくらいなら少しでも休んだ方がいいと言い出したのは、確かちょっと前の馬鹿な私だ。部署内でもトップの忙しさであろう同期を心配しての進言だったが、次の日には降谷のデスクにあった書類の七割ほどは私のデスクの上に移動されていて、その一番上には降谷と書かれた印鑑がぽつんと置かれていたのだ。ちなみに残りの三割はどうしても降谷自身が目を通さねばならないものである。隙間を縫って片付けに来ているけど、今日はその日ではないらしい。

「おい高階、書類もいいけど、戻ったらまず手当てしろよ」
「でた。いつもの。」
「ほっとくと何もしないから言ってるんだ。」
「うーん、うん、うん。そうだね。」

私にしてみれば書類の方が確実に大事である。それに、このくらいの傷ならささっとシャワーで洗い流して包帯巻いとけばいいでしょう。降谷は毎回怪我の心配だけはやや素直にしてくれるのだけど、それがくすぐったいの半分、面倒なのが半分。なんにせよ聞くつもりはないので適当に聞き流して足を進めていけば、隣から鋭い言葉が飛んで来た。

「シャワーついでに血を洗い流すだけじゃ手当てって言わないからな。せめて消毒。」
「う……エスパー降谷、あなどるなかれ…」

こいつ、完全に私の思考を読んでいる。
でもどうせ報告を済ませたら、どちらだか知らないけど潜入先に向かうようだし何もしなくたってばれやしない。そしてやけに高圧的だが私は降谷の部下じゃないし、もちろん娘でもないから降谷の言うことを聞く義理はない。
でも、もしやそうやって考えていることも筒抜けなのでは…?そう思って隣の降谷をちらりと見上げると、案の定こちらを鋭く睨みつける不思議な灰混じりの青色と目が合った。

「高階」
「ハイ」

降谷に改まって名前を呼ばれると嫌な気分になるのはどうしてだろうか。

「別に俺の言う事なんて無視したらいいし、お前は俺の部下じゃないから、俺も説得するつもりはない。」
「お、おう。」
「でも俺は優しくないから、お前が納得しないままスーツひん剥いて傷口にエタノールぶっ掛けるくらいなんて事ないんだよ。」
「怖!!」

なんてことを言うんだこの男。にっこり、作られたやけに整った笑顔に思わず身震いする。昔から部署で唯一の同期ということもあって降谷は私にだけ遠慮のなさと口の悪さが三段階ほど上である。

「はあ…いまの台詞、後輩にも言ってあげたら?ぜひひん剥いてください!エタノールぶっ掛けてください!って興奮しそうな降谷信者がちらほらいるじゃん」
「興奮させてどうするんだ」
「逆にどんな反応をして欲しくて言ってるの」
「反応もなにも、お前にだけだよ」
「絶対ときめく台詞なのに全然嬉しくない…」

はあ、と大げさにため息をついて首をがっくりと落とした。聞く人が聞くべきタイミングで耳にしたら顔を真っ赤に染めるだろう歯の浮くような台詞、今までどんな恋愛してきたら言えるんだろう。そんな話、そういえばしたことないな。
パッと差し込んできたオレンジ色の光に、そろそろ出口が近いことを悟る。そろそろ陽が沈む時間だというのに、いまから書類仕事に追われることを思い出すとげんなりした。

「帰りも乗せてってね」
「その汚れた格好でよく言うな」
「降谷も一緒じゃん」
「図々しい女はモテないぞ」
「嫌味ったらしい男もモテないよ」

降谷との間に火花が散る。つくづくいけ好かない奴だ。腹が立つのは、私がモテないのは事実だけど降谷がモテないというのは真っ赤な嘘な事である。

「こういう話題で降谷に勝てる気がしないわ、帰ろ帰ろ」

視線の先に降谷の愛車を見つけると、ほんの少しだけ前にいた降谷を小走りで追い抜いて薄暗い倉庫から抜け出した。ああ、夕日が眩しい。空気が美味しい。

「この手の話題で勝てないのは、俺の方なんだけどな」
「ええ?」

既に降谷の愛車に乗り込むつもりで助手席の方へ回りこんでいる私と、やっと倉庫から出てきた降谷。少し距離があったのではっきり聞こえなかったけど、降谷は今、勝てないのは俺の方だと言っただろうか?あの降谷が、私に勝てない?何で?

「勝てないから避けてたんだ」
「いや、ちょっと意味わかんないけど…」

頭を傾げている間に降谷はすぐそこまで来ていた。いつだって真っ白な彼の愛車を挟んで目を合わせたけれど、すぐに逸らされる。降谷は困惑する私に助け舟を出すつもりはないらしく、素知らぬ顔でドアのロックを解除した。

「乗って」
「あ、いいの?やった」
「白々しい…乗ってもいいけどその血まみれのスーツは脱いでくれ」
「え、ほんとにひん剥くつもりだった訳?」
「血が目立つから後ろにある俺のジャケットを貸そうと思ったけど、やめだ。」
「あ、やだやだ!嘘です!脱ぎます!そしてジャケットを借ります!!」
「まったく…」

降谷の愛車へと乗り込んで、言う通りにスーツのジャケットを脱いで後部座席に置かれていた降谷の私服のジャケットを手にとる。これに着替えて潜入先へと向かう予定だったのだろう。私の血で汚す事になるけどいいのだろうか、と運転席を伺えば、煩わしそうにいいから着ておけ、とこちらを見ないまま手をひらひらさせる降谷がいた。
お言葉に甘えて降谷のジャケットに袖を通す。当たり前だけど相当ぶかぶかである。線が細いから身長以外の体格差をあまり感じていなかったのだが。

「降谷って案外大きいんだね」

思っていたことがそのままぽろりと口から溢れた。

「高階が小さいだけじゃないのか?」
「私は至って平均身長だよ」

余った袖をぷらぷら揺らしながら答える。わたしは日本女子の平均身長だけど、降谷は見るからに日本男子の平均身長よりも高そうだ。

「その至って平均身長の女が、ガタイのいい連中の巣にひとりで乗り込もうとしてたらしいけどな」
「げっ」

そういって、エンジンをかけた降谷がため息をつく。そのままシフトレバーを引いて動き出した車内で、私は嫌な顔を隠しもせずに降谷の方を見た。

「そこはお咎めなしって事には…」
「いかない。まったくお前はいつもいつも…」

そうして降谷の長ったらしいお説教がはじまる。もともと今回の仕事は、私と私の部下で行うはずだったのだ。ところが、先日の仕事で部下は負傷。命に別状はないけれど足を骨折したのでこの仕事は降りることになった。ここまではさして珍しくもない話だが、問題は代わりの人員の選出だった。特に最近忙しい公安は、皆仕事が詰まっていて、あちらを増やせばこちらが足りない、という状態だったのである。それで一人で仕事に向かうことにしたところで、偶然時間の空いた降谷の同行が、私の知らないうちに決まっていたという訳である。何も言われないから油断していたけど、帰りにみっちり説教するつもりだったのか。

「聞いているのか」
「聞いてます。ハイ。ハイ。」

勿論嘘である。

「ったく…怪我は仕方ないにしろ、傷が残らないように少しは気を使えよ。一応女なんだし」
「え」
「なに」
「降谷の中で私の性別って女だったの?」

はあああ〜。隣からとても大げさなため息が聞こえた。なんのため息だ。真面目に運転してよと声をかけるも、煩いの一言で一蹴されてしまう。そんなに今の言葉が気に食わなかったのだろうか。
どこか諦めたように肘をついたドアの方へ体重をかけて首を振る降谷はどこか疲れて見える。

「…最初から結構あからさまに女扱いしてるよ」
「それはどうも…いままでありがとう…?」

どうにも話の本筋が掴めなくて、正しい反応が分からない。要点を得ない話なんてする男ではなかったように思うけど。それとも私の知能指数が急激に下がってしまったのだろうか。普段憎まれ口を叩きあっていても噛み合っている会話が、いまは独り言の投げ合いのように感じる。

それからぽつぽつと世間話を交わしながら警察庁への道を走ったが、会話はどこか噛み合わないままであった。いつもと違うのが私なのか降谷なのか、よく分からないけれどとにかく居心地が悪い。
それでもようやく見知った通りに出て、警察庁までもうすぐであることを知った。

「そういえば、さあ」
「ああ」
「降谷が今日空いてなかったら、こんなかすり傷じゃ済まなかったと思う」
「だろうな、分かってるなら」
「今度から、降谷にもお願いするよ」
「…」
「だから、なんていうか。今日は助かりました。ありがと。」

長年切磋琢磨してきた同期に向かって改まって礼を言うのは結構恥ずかしい。しどろもどろになりながら伝えたはいいものの、降谷の顔が見られない。窓ガラスに熱くなった額をくっつけて、はやく着け、そう願った。

「……本当、お前には勝てないな」
「え、あ、さっきの?」
「そう。お前が訳分かってなかったやつ。」

窓ガラスの外を眺めたまま返事を返す。確かにその通りだけど、いま蒸し返さなくてもいいだろう。

「高階は俺の予定がたまたま空いてたと思っているみたいだけど、空けたんだよ。この仕事の為に。」
「へ」
「心配だったからな、お前が」
「は」

予想外の言葉に思わずぐるんとその発信源へと振り向いた。いま私の顔は先ほどの恥ずかしさで真っ赤だし、額には窓ガラスの跡が付いているかもしれない。けれど振り向かずにはいられなかった。あの降谷が、公安でおそらくきっといちばん忙しい降谷が、私を心配してわざわざ仕事を調整して私の仕事に同行してくれたと言うのか。きっと目をまん丸にしているであろう私を見る目の前の男は少し面白そうにしていた。

「着いたぞ」
「…!あ、うん…」

気づけば車は警察庁の目の前に停まっていた。その見慣れた厳格な面構えの建物に、今は現実に帰ってきたようで安心している自分が居た。そう、書類。私は今から書類の山と格闘しなくてはいけない。この男の言葉の意味を深読みしている場合ではないのだ。言い聞かせて自分を落ち着かせる。それでも心なし顔に集まる熱はさっきよりも多くなっている気がした。

「思ったより時間がないから報告は一人で済ませてくれ。」
「えっ」

先に降りた私に、運転席から身を乗り出して降谷は言った。なんだか降谷の顔を見るのが気恥ずかしいのでそれで良かったと思う。書類を手伝ってもらえる可能性がゼロになったのは痛手だけれど。

「ジャケットは今度取りに行くからそのまま着ていって」
「わか、った、クリーニング出しとくね」
「いいか?エタノール浴びせないでやったんだから報告終えたら真っ直ぐ医務室に行けよ。風見に報告させるからな。」

吐き出される不穏な言葉にいつものように言い返す言葉が今はまったく思い浮かばない。まるで降谷に思考回路をロックされたみたいだ。
それから、と、挑戦的な笑みで車の中から固まる私を見上げた降谷がそのまま続ける。

「これを機にもう少し意識してくれたら助かる。負けっぱなしは許せないタチなんだ。」

じゃあ。と言って窓が閉められたかと思えば、あっというまにぴかぴかの白色は見えなくなった。
意識ってなんだ?負けっぱなしってどういう意味だ?今度からどう降谷と接したらいいのだろうか。次会った時に私はいつものような軽口を叩けるだろうか。この火照った顔でデスクに戻ったら何か言われるだろうか。
頭の中が降谷の言葉で埋め尽くされた私は既に降谷の思うツボであるのだが、私も、もちろん降谷も、いまの段階では誰一人として気づいていなかった。