かいじゅう

「わ、まだいたのか。お疲れ様」
「!!降谷さん〜〜!お疲れ様です!」

あと三十分もすれば日付も変わるのだろう。今日は朝までここで書類整理だなあ、と頭を掻きむしりながら公安部のドアノブをまわした。この時間でも誰がいたって不思議じゃないけれど、そこにいたのは久しぶりに見る直属の部下だった。部下なのに姿をみるのが久々だなんておかしな話だな。苦笑いしたくなるのを堪えて俺が声を掛けると、そのまるい頭はくるりと方向を変えて満面の笑みを見せた。

「一人か?」
「はい、書類終わらなくて…」

眉を八の字にした部下は、みてくださいよこれえ、と情けない声を上げながら床を蹴って椅子のキャスターをころころ鳴らしながら自らのデスクの上を披露する。たしかに積み重なった紙の山がふたつ程見えた。

「最近案件立て込んでたからな。俺もいまからあれ」

そう言って自分のデスクを指差す。彼女のものより高い山が存在感を放っていた。なにせこの場所に足を踏み入れる事が久々なので覚悟はしていたけれど、随分溜まっている。優先するものだけでも片付けて帰らねば、次はバーボンや安室の姿のままここに足を運ぶ羽目になるかもしれない。

「え!本当ですか!降谷さんも一緒ならもう少し頑張ります」

よし!と気合を入れ直したらしい部下が今度は椅子ごと自分をデスクへと引き寄せて、そして腕まくりをする。
細くて白いその腕は、力を込めて握れば簡単に折れてしまいそうだ。傍目に見れば大柄な男を伸すよりもこうしてペンを握っている方が似合うように見えるのだろう。その腕が一瞬で犯罪者に地を見せるのを知っている今では、デスクにいる部下には少し違和感すら覚えてしまうけれど。
書類を手にとった部下を尻目に自分のデスクへと向かう。

「ならもう少し仕事足すか」

自分のデスクに積み上げられた書類からひとつまみ持ち上げた束をひらひら見せた。

「イエ本日は店仕舞いしましたので」

きゅっと口を固く結んで、小さな手のひらをこちらに向けて拒否の意思を示される。それは残念、と溢して、自分の手を離れることのなかった書類の束にそのまま目を通すことにした。










「聞いてもいいですか」
「質問によるな」

突然硬い声が耳に入ってきて、顔を上げる。そこにはやけに神妙な顔をした部下がいた。

「降谷さん今日女の人と仕事してました?」
「ターゲットは女性だったな。突然どうした」
「いい女の!匂いが!部屋に漂ってますよ!」
「ああ……」

香水の匂いがシャツ移っていたのか。ここに来る時にスーツは流石に着替えたけれど、シャツはそうしなかった。この数日ずっと身の回りに漂っていた香りにいつしか慣れてしまっていた自分に内心舌打ちを打って、睨み付けていた書類から一旦目を離して立ち上がる。そのままデスクの真後ろへとくるりと向き直って、何枚も連なった窓うちのひとつを開け放した。背後でそういうことじゃないんですけど……などと不満そうに漏らすのは無視だ。こっちは知っててやっているのだから。
部下の方へと目を向けると案の定、おもしろくないという文字が見えそうな表情をしている。仕事でついた匂いだと彼女もはじめから分かっていて突っ込んできたのに。このやきもち焼きの部下に、高階じゃなかったらそもそもこんな話題相手にしない、と伝えたところで本気にとらないだろう。彼女は俺を好きだというくせに、誰よりも部下であろうとするから。
すたすたとその部下の元まで歩み寄って、柔らかい髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。小さな手のひらが自分の手を掴む。

「う、わっ、やめてくださいよー!私今やきもち焼いてるんですから!」
「自分で言うなよ。プリン食べるか?」
「……そのへんのプリンじゃ満足しませんよ私は」
「安心しろ、駅前に新しくできたとこのだよ」
「え!うそ!」

駅前に、と言ったあたりからみるみる表情が変わっていく部下。本当にころころと表情の変わるやつだ。決してそれが利点になる職種ではないけれど、間違いなく彼女のいいところのひとつである。
買えたんですか!?なんで!?先ほどとは打って変わって目を輝かせる部下の頭を、今度は撫で付けるようにして軽く叩く。

「取ってくるから机空けておけよ」






隣の部屋の冷蔵庫で冷やしておいたプリンのうち、ふたつを取り出して戻った。今は無人の部下の隣の椅子を拝借する。もうすでにすっかり部下の機嫌は元どおりで、期待の眼差しで俺の行動ひとつひとつをなぞっていた。
どうぞ、と差し出せばまるで賞状を受け取る時のように深々と頭を下げて受け取る姿に思わず笑ってしまう。

「いただきます」

かぱ、と瓶の蓋をあけてひと口ぶんを大事にちいさな口へと運ぶのを、俺はデスクに肘をついて眺めていた。

「〜〜〜〜っ!」
「美味しい?」
「っさいっっこうです!美味しいです!」
「食べたら仕事戻るぞ」
「ふあい」

破顔した部下は口の中にプリンを入れたまま気の抜けた返事を遣す。徹夜だろうに、ずいぶん幸せそうな顔をするものだな。

この部下が寄越す好意に対して自分の中に居場所を与えてしまってから、もうずいぶん経ったような気がする。度々こうやってつい甘やかしてしまうのでまわりは薄々感づいていそうなものだが、彼女はきっと知りもしないし、知らなくていいとも思っている。俺のつけた感情の名前は彼女がつけただろう名前ほど可愛くはないし、もっとどろりと重たいものであるからだ。

この笑顔をいつまでだって見ていたい、と思うと同時に、その笑顔を崩してみたくもなる。きっちり着込まれたスーツで守られた薄い皮膚に触れて、その熱を上げて、いまはプリンが詰まった頬に色を差したい。きっとあたたかな戯れを大事にしているだろう部下には大きすぎる感情だ。こんな薄汚い感情を俺が抱えていると知ったら、部下はもうこの手からなにも受け取ってはくれないかもしれない。

けれどまだそうしないと決めているし、だから彼女の中で俺はいい上司で、好きな男のままだ。いまこの空間では彼女の知る俺だけが全てである。そうして自分の欲を閉じ込めてプリンを頬張る姿をただ眺めていられる程度には、この部下に絆されているのだろう。

「まあそれ、『いい女』から貰ったヤツだけど」
「それは言わなくて良かったです!!」

まあ食べ物に罪はないんでね、このプリンは間違いなくプリン界をこれから引っ張っていくんでね。と、どこに向けているのかよく分からない言い訳じみた台詞を吐きながらも彼女のスプーンの動きは止まらない。その動きを真似るようにようやく自分でもひと口掬って食べてみたけれど、少し俺には甘すぎる。残りは部下にあげることにしよう。

「次会ったらどこの香水か聞いておいてくださいよ」
「今日で終わったからもう会わないよ」