グラス越しのグラデーション

 はたちを超えて初めて飲んだお酒は、アルコールよりも甘ったるいコーヒーの味が強くて、「意外においしいものだな」と思った記憶がある。一緒に酒を解禁した月島の趣味で選ばれたお酒だったけど、その味をすっかり気に入った私はそれを少しずつ喉に通すのが好きになった。
 それから大学の付き合いでも時々お酒を飲むようになって、現在はカルーアミルク以外のお酒を「おいしい」か「おいしくない」で分別するのを飲み会の楽しみにしている。

 今日選んだそれは「おいしい」に分類された。カルーアミルクはちびちびとデザート感覚で口にするのが好きだけど、そのお酒はぐびぐびと、喉を潤すみたいにひといきで飲むのがおいしい。そう気づいてしまってから、ひとつ話が終わったら飲んで、おつまみのさきいかをつまんでまた飲んで。
 そうして飲み会の開始から数時間が経ち終盤に差し掛かった頃には、私は人生で初めて酔っ払いを体感していた。

「どうしよ、ねむい」
「顔真っ赤になるまで飲むの珍しいね」
「これおいしくて……うん……」
「……まってまって寝ないで!」

 十人前後の同級生が好き好きに会話を楽しんでいる中で、隣にいた一年のときから一番仲良しの友人の声が私の名前を必死に呼ぶのがぼんやり聞こえる。寝てはいけないと頭では分かっているのだけど、どうにも目蓋が重いし、睡眠欲に抗おうという気がそもそも起きない。
 どんどんまどろんでふやけていく意識のなかでなんとか、物言いの割に柔らかな声で言い聞かせられた言葉を思い出した。

「迎え呼ぶんだった…」
「すぐ呼ぼう!!!」

 手癖のままにメッセージアプリの目当ての人物とのトーク画面を開く。トークは「迎えいくから呼んで」「はーい」のやりとりで終わっていた。
 現在地をどうにか文字にしようと頑張るけれど打ち損じては消しての繰り返しで、それがまた眠りを誘う。しかし暗号文を送りつけたって送り先の月島はここには来ない。もたつく指先をできる限り丁寧に滑らせて、どうにかメッセージを送信する。

「もうだめだ……」
「いや、大分前からだめだよ」

 おっしゃる通りです。面目ない。そう思う心とは裏腹に身体はどんどん重たくなっていく。元々壁際に居たのをいいことに、ずりずりと壁に右半身をくっつけて目を閉じた。あれ!春寝ちゃうのー!?と向かいの席にいる同級生の声が聞こえたような聞こえなかったような。人の意識ってこんなに急速に落ちるものなのか、と思ったのが最後だった。



***



「春、帰るよ」

 すっと耳に入ってきた聴き慣れた声でまどろみから醒める。まぶたを持ち上げて、差し込んできた光の眩しさに反射で目を細めた。

「起きて」
「起きます……」

 もう一度、今度はゆっくり景色を映し出すと、眼鏡の奥の黄色がかった茶色の瞳と目が合う。迎えを頼んだ月島だった。どうやら送ったメッセージで正しくこの場所を伝えることに成功していたらしい。
 こうして飲み会終わりに迎えに来てくれることはたまにあるけれど、店の中まで入ってきたのははじめてだった。居場所が送られてきて以降、私からの反応が途絶えたからそうするしかなかったのだろう。ここまでくるの、嫌だっただろうに申し訳なかったな……。現に視界にうつる月島はなにを泥酔しているんだと言わんばかりのしかめっ面だ。
 そんな顔してまで来てくれる、月島の分かりにくいあたたかさも好きなところのひとつなんだよね。それを伝えたところでしかめっ面に拍車がかかるだけであるから、しぶしぶではあるが胸のうちで愛でるだけにとどめておくことにする。

「ありがとうね〜」
「いいから、立って」
「はあい」

 体重を預けていた壁から身体を離して立ち上がる。すっかり寝入ってしまったぶん、酔いも大分覚めて、目覚めはすっきりしていた。それでも足元がいまいち覚束なくてふらついたのを、月島の腕を支えにして踏みとどまる。

「ごめん、本気で寝ちゃってた」
「そんなに時間経ってないし大丈夫だよ」

 月島の後ろにいた友人に声をかけると、もう解散だしねー、とけらけら楽しそうな声が返ってくる。寝落ちに至らなかっただけで友人もなかなか酔っていたらしい。その言葉に個室のなかを見渡せば、なるほどたしかに、もうこの場所にいるのは五人と満たず、各々上着を羽織ったり鞄から財布を取り出したりしている所だった。
 私が起きたことに気付いて「あ、起きた」「彼氏さんに感謝しなよー」「むしろ私達が感謝じゃない?春の家知らないし」「ありがとう彼氏さん」とかなんとか、好き好きに言葉を放って、中には私の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜていった子もいるけれど、とにかくそうしてみんな出口へと歩いていった。

「イエ…」

 居心地悪そうな月島の返事は私にしか聞こえていなかっただろう。

「じゃあ、連れて帰りマス」
「お願いします!春、また明日ね」
「は〜〜い、お世話になりました」
「いえいえとんでもないです〜」

 友人と手を振り合って個室を出る。すいすい進む月島の後を追って居酒屋からも出てしまえば、たくさんのお酒の匂いが混ざった空気から解放された。私ですらそう思うのだから、月島はなおさらだろうな。思いっきり息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。見上げた空にはいくつかの星がきらきらとその存在を主張していた。

「涼しいねえ」

 少し肌寒く感じそうなひやりとした風だったけれど、アルコールで火照ったいまの身体にはちょうどよかった。熱を持った頬を風がさらっていくのが気持ちいい。

「僕はちょっと寒い」
「うそ!ほんとだ手つめたい」
「……ちょっと」
「あれ、だめ?」

 振り解きこそしないものの戸惑ったような月島の様子に、それでも手は離したくなかったのでお伺いを立ててみる。月島が人通りのあるところで手を繋ぎたがらないのはとっくに知っていたし、それを改めてほしい思ったこともない。ただ時々、どうしようもなく触れたいと思うときがある。いつもならばアパートの近くだったり、部屋の中だったりまで我慢できるのだけど、今日はだめだった。
 高校時代も、手を繋いで帰るのは周りに誰もいないときだけだったな。そんなのだから、結局卒業間際まで月島に彼女がいると知らない子たちからの告白は止まなかった。

「……今日だけね」
「ええ〜、それはどうだろう」

 ふへ、と笑って月島の照れ隠し(と私は思っている)を受け流す。繋いだ手は高校の時よりもごつごつ感が増したように思う。手入れは怠っていないようだから指先は下手したらわたしよりもすべすべだ。
 月島は今でもバレーをしているし、私もまだ月島のとなりでそれを見ている。それってすごいことだよなあ。今更のことにじんわり胸があたたまるのも、アルコールのせいかなあ。もう眠気はすっかりさめたけど、ふわふわしているのは当分抜けそうにない。

「ぎゅってしたい」
「は」
「あ」

 思ったと同時にそれが口から溢れでてしまう。慌てて口をおさえたけれどもう遅い。ぱかっと口を開けてこちらを見る月島はなかなかレアだけど、今この時ばかりはそれを堪能する余裕はなく、私もまったく同じ顔で月島と見つめ合うはめになった。はあ〜〜〜、と月島が片手で顔を隠さなければいつまでもそのまま硬直していたかもしれない。

「……ごめん、やっぱまだ酔ってる」
「なに飲んだらそうなんのさ……」
「バナナジンジャー。蛍も好きだと思うよ」

 そういうことじゃない、と足早に私の前をずんずん歩いていく月島の耳が赤くなっている。しかし私もそれは同じだろうから、からかうことなんてできなかった。月島がこちらを見ていないのをいいことに空いているほうの手でぱたぱたと顔を煽ぐ。居酒屋の立ち並ぶ繁華街で顔を赤くしていたところで誰も気にしないとは知っていてもやらずにはいられなかった。

「っわ」

 ふと、繋いでいる手をぐいと引っ張られて足がもつれる。転びこそしなかったけれど、私の身体は前を歩く月島にぶつかってしまう。ひとこと文句でも言おうと顔を上げると、こちらを振り返った月島の顔が想像よりも近くにあった。

「帰ったらね」
「ん?」
「ぎゅってするんでしょ」

 なにが?と思ったのもつかの間、耳元に直接吹き込まれた言葉にばっと耳を押さえる。

「な、っ……」

 潜めたせいでいつもより低い声に頭がくらくらする。アルコールでだってこんなにくらくらしなかったのに、月島の言動ひとつで他のことなんてなにも考えられなくなってしまった。
 長年付き合っていたらいろいろ慣れるし飽きるよ、って一体誰に言われたんだったか。私はいまでも月島の言葉ひとつでこんなにも心臓が痛くなるのに。

「……する。から、早く帰ろ」

 ぐいと手を引っ張って、今度は私が前を歩く。月島の姿は見えないし声も聞こえないけれど、驚いていることだけは確かだ。欲を言うなら、さっきの私みたいに心臓が痛くなったりしていたらいいのにな。明確に私からその意思をみせたのはきっとはじめてだった。
 こんならしくないことをしてしまうのも、お酒のせいということにして。今日だけはそれで全部許してもらおう。でも本当のところは、いつもよりちょっと素直になっただけなんだよ。