劇薬の縁で踊る

※出られない部屋/性質的にR-15



 扉を開いて現れた見覚えのある真っ白な部屋に、降谷さんと私の間の空気が一瞬でひりついた。もう二人ともその部屋へと足を踏み入れてしまっている。まずい。きっと私が思い出している甘いとも苦いとも言い難い体験を、降谷さんも思い出していることだろう。この扉がしまったらおしまいだ、とドアノブを握ったままの手に力を込めた。

「高階、閉めるな!」
「はい!…うわっ」

 降谷さんの鋭い声が部屋に響く。その直後にバタン!と大きな音を立てて無情にも閉ざされたのは、今しがた閉めないようにと力を込めたばかりの唯一の出入り口だろう扉であった。

「……すみません、手でも足でも挟んでおくべきでした」
「いや、足を踏み入れた時点で手遅れだった可能性の方が高い」

 怪我はないか?という問い掛けにこくりと頷けば、降谷さんは迷いなく部屋の奥に見えるテーブルへと足を進める。きっとその上には、一枚の紙切れが置かれているだろうから。

「やっぱり開かないよね……」

 苦し紛れに勢いよく閉まった扉を開けようと試みるけれど、張りぼての扉かと思うほどに動く気配もみせなかった。

 私と降谷さんが以前閉じ込められた真っ白な部屋のことは、嫌というほど調べたけれど結局何も分からずじまいのまま今日を迎えている。というのも、部屋を出てすぐにもう一度入ろうとドアを開けたとき、その場所はもうただのホテルの一室であったからだ。そのせいで部屋の構造については何も調べることができず、他のありとあらゆる手段でネットや文献を探ったけれど条件を満たさないと出られない部屋についての情報はどこにも載っていなかった。
 あまりにも成果が得られないのでしまいにはまるで二人で同じ夢でも見ていたみたいですね、だなんて軽口を叩くことしかできなかったのである。それ以降この部屋を調べるのをやめていたのに、最悪の形であれが夢でないことが証明されてしまった。
 私としてはキスだなんてとんでもない条件だったな、と感じる心に今でも変化はないけれど、日が経つにつれほっとした気持ちが大きくなってきたのも事実だ。互いを傷つけるような行為が部屋を出る条件に指定されていたら、と思うと背筋が凍る。

「ありました?」

 考えたところで、この部屋へと足を踏み入れてしまった今の私には厄介な条件でないことを祈ることしかできない。
せめて命に関わらないものだといいな、と内心怯えながらテーブルの前で立ち尽くす降谷さんに近づきながら声を掛けた。入り口からは見えなかったけれど、今回テーブルの隣に佇むのはソファではなくベッドだった。テーブルの上に栄養ドリンクらしき瓶も置かれているし、なんだろう、前回よりグレードアップしたのかな。この部屋のグレードアップって、あまりいい予感はしない。

「……ああ」
「……えっと」
「見るか?」
「見ない方がいいですか?」
「いや、噛み砕きようがないから見てくれ」

 やけに歯切れの悪い降谷さんに嫌な予感ばかりが膨らんでいく。せめて腕一本までに、いや、それもだいぶ嫌だけれど、それが限界のラインだと思う。
 手渡すというより押しつける形で寄越されたそれを、まず腕を伸ばして出来るだけ私から遠ざけた。薄目で確認しつつ徐々に近づけていくこの行動に何の意味もないことはわかっているけれど、そうでもしないと来たる衝撃に耐えられそうもなかった。だってあの降谷さんが言い淀むなんてただごとじゃない。この状況じゃなかったらきっと私はそこまで口に出していただろう。現にいつもならとっくに「はやくしろ」とお声がかかっている頃なのに、今はただこちらの反応を待つだけなのだ。
 うん。殺すとか殴るとか撃つとか、不穏な文字列の雰囲気は感じられない。意を決して紙切れと向き合って、そして、折りたたんだ。

「ふる、降谷さ………」
「……書いてある通りだ」
「だってこれ!!!」
「気持ちは分かる」

 私の予想とは対極の位置にあるような条件だが、度肝を抜かれたことに変わりはない。

『セックスをしないと出られない部屋』

 真っ白な紙に、なんの変哲もないゴシック体で書かれていた言葉を、簡単には受け入れられそうになかった。



***



 それから、とにかく部屋中を二人で調査して回った。ドアも一人三回は蹴ったと思う。それでもやはり前回同様、出口に繋がるなにかは見つからなかった。得た成果といえば、部屋の壁にはコンセントも鏡もなにもなくて、少なくとも盗聴や盗撮の心配はないということくらい。あとは行為に及ぶにあたって必要そうなもの一式をベッドに備え付けられた引き出しから発見したけれど、それはできれば得たくなかった成果だった。

「……だめか」
「だめですね……」

 誰に見られる心配もないからといって私たちの心が軽くなるはずもない。大きなため息をふたりでこぼしてしまう程度には絶望的な状況だ。

「……さっと終わらせてさっと出ましょう。時間の無駄です」

 思いっきり仕事モードの声を作ってそう言うしかなかった。まさか降谷さんの側からそう言わせる訳にはいかない。
 自分の気持ちと真逆にある言葉を吐く必要もある仕事だ。特に降谷さんはその機会が多いと知っている。知っていて、私相手にそれをさせるのはどうしても嫌だった。

「一生この部屋にいるのも嫌ですし。あ、降谷さんと一緒なのは私にとってはこの上ない幸せですよ!」
「高階」

 わざとらしくたっていいから、この勢いで押し通してしまわなければいつ心が折れたっておかしくない。何だって訳のわからない部屋から出るためだけに好きな人と肌を合わせないといけないのだろう。落ち込んでいく思考を振り払うようによし、と気合を入れて、テーブルの上の瓶を手に取って蓋を開けてしまう。

「っ高階」

再び呼ばれた名前に思わず応えてしまいたいところをぐっと堪えて瓶の中身の匂いをそっと確認する。うん。なんにもありがたくないけど想像通りのものだ。

「おい!」

 降谷さんがそうも声に焦りを滲ませるのはなかなか珍しいな、とどこか他人事のように思いながら瓶の中身を一気に飲み干す。独特な甘みが口の中にまとわりついて気持ち悪い。美味しいかそうでないかでいえば、間違いなくそうではない。まるで度数の高いアルコールを一気に流し込んだように、瞬間的に身体が熱くなるのを感じる。

「この馬鹿!飲んでどうする!」
「だって」

 だって、降谷さんのことだ。頼んだってひどくしてくれるはずもない。ひとりの女としてとなると微妙だけれど、部下としてはうんと可愛がられている自覚がある。だから成り行きだろうがなんだろうが、きっと私のことを大事に扱うのだ。それを真正面から受け取れるほど、私は強くない。
 それに、その優しさの向こうに見える過去の女の人たちにどうしようもなく嫉妬してしまうだろう。

「その方が、手っ取り早いですし」

 ふるりと唇が震えたけれど、どうにか声には表れずに済んだだろうか。職業の割に嘘をつくのが下手な私の精一杯の嘘である。この異質な空間の中で、目の前の鋭い観察眼が多少曇っていることを願うしかない。
 降谷さんはもちろん、私も一応公安に所属している身だ。こういう類の薬は一通り学んだし、耐性をつけるのに定期的に飲みもする。だからこの薬に副作用がないことも、即効性に優れた分効果が長続きしないことも。この場を乗り越えるにはうってつけといっても過言ではない。
 だめな部下だと呆れられてしまうかもしれない。飲めと言われているわけでもないこれに手をつけたのは完全な私情によるものだし、いまは一応職務中だ。
 これって職務放棄になっちゃうのかなあ。減給くらいなら甘んじて受け入れるけれど、解雇はちょっと嫌だなあ。私、腕っ節くらいしか取り柄ないし。考えている間にもどんどん身体は意思に反して熱くなっていく。それに紛れて目元まで込み上げてきた別の熱さには、気がつかないふりをした。






「これが所謂、飲まなきゃやってられないってやつなんですかね」
「……随分勇ましい部下を持ったな、俺も」

 私も、それからきっと降谷さんも。もう軽口を叩き合って、わかりきった作り笑いを貼り付けることでしか、この異常な状況下で上司と部下という関係性を保てないのだ。