サファイア幸福論
「お兄ちゃん」

 そう呼ぶことが、そう呼ばれることが。当人達にとって、どれだけ幸福なことなのか。事情を知らぬ人間に分かる余地は無いだろうし、例えばそれを知っていたとしても、その全てを理解出来るはずもない。
 葦原出雲という人間が猿渡二瀬であった記憶を思い出したのはつい最近のことである。葦原出雲という存在だったにも関わらず、無理矢理兄と称させていたのは一海の我が儘だ。猿渡一海はシスコンであった。
 ――そもそも。元より溺愛していた8つ下の妹を誘拐されて、5年間も会うことが出来なかったと考えよう。普通に考えて、溺愛されていなくてもシスコンは加速する。猿渡一海と猿渡二瀬は、そういう人生を送ってきた。高校一年生という華の時代に、心理学的な才能を見出され、拐かされた二瀬が、一番の被害者であることは間違いない。

「……にしても、当たり前かもしれないけど、懐いてるよなあ」
「誰がだよ」
「出雲がグリスに、でしょ?」
「そう」

 そして猿渡二瀬、つまり葦原出雲は、猿渡一海の実妹である。血の繋がった、正真正銘の。記憶が戻ったのなら、いの一番に兄である一海に懐くのは自然の摂理だ。けれども桐生戦兎は、それが気に食わない。心がざわつく。物理学では証明できない、心臓の不快感。くしゃり、と心臓部分と重なった布を握り締める。

「お兄ちゃん、コーヒー飲む?」
「おー、飲む飲む。お前は相変わらずコーヒー飲めねえのか?」
「お兄ちゃんのメンツの為に飲んでないだけですー」

(俺の前ではそんな微笑み方はしていなかったのに)

「つかお前、なんか悩んでんだろ」
「え、こわ……お兄ちゃんストーカー?」
「失礼だろ。なんかあったら相談しに来いよ」
「そうするね」

(俺の前では泣いておきながら強がって、意地を張って相談してくれなかったのに)

 科学の数式を頭に浮かべても、その理由は出てこない。戦兎が呆然としながら美空、とパジャマ姿の少女に問い掛ければ、「それ、嫉妬だし」なんて、軽率な口調で返ってくる答え。

「しっ、と」
「は?湿布?」
「お前はちょっと黙ってて」

 戦兎は顎に手を宛てて考える。自分は何故嫉妬なんてしているのか。嫉妬している相手は誰なのか。一海なのか、出雲なのか、それとも世界なのか。ふ、と思考の海に沈んでいれば、渦中の一人から、ぽんと肩を叩かれる。

「戦兎、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫、」
「だよな戦兎」
「お兄ちゃん、邪魔……」

 心配をかけまいと咄嗟に口から出た言葉を一海に奪われた戦兎は、今考えていたことも一度忘れ、一時停止する。

「……戦兎?」
「……何でもない」

 ふ、と落ち着かせるようにゆるい溜息を吐く。とりあえず今だけは、出雲が笑っているから。


「あれで出雲に恋してないとか、意味わかんないし」
「あいつも俺がみーたんにアタックするように二瀬にアタックすれば……あっやっぱり駄目だ二瀬は渡せない」
「……うざいし……」
「湿布ってなんだ」