新世界より
「おやすみ、お兄ちゃん」
どう頑張ったって割り切れない記憶がある。兄が消え、氷室幻徳が消え、私さえも。あの時の戦兎の顔は見ていられなかったし、まさか私がそんなことをするとは思いもしていなかったのだろう。天才物理学者が心理学者ではないと立証された瞬間であった。
私がライダーシステムを扱えないのは周知の事実だったし、それゆえに私が戦うという事象を勘定に入れていなかったのだろうことも頷ける。しかし私は、戦いへの覚悟を決めてしまった。だからこそどれだけ戦兎の悲愴な顔を見てもそれを止めることはしなかったし、止められもしなかった。
そうして生を終わらせたはずの私が、新たな場所で、新たな記憶と共に、この場所に存在している。それは奇跡であり、戦兎が創った幸せな世界の欠片ということだ。
nascitaのことを知らぬと言い切った兄に嫌な予感がした。それまでは皆私と同じで、この世界の10年間と、あちらの世界の10年間の記憶を有しているのだと思っていたから。だから、あんなことを言ったのだからお兄ちゃんに怒られても仕方が無いなあとか、殴られる覚悟もしてあったのに。まるで初対面のように話す美空。一目惚れだと言うお兄ちゃん。その時点で察してしまった。この世界の住民は、あちらの記憶が無いことが当然なのだと。
――では桐生戦兎は?私の将来を預けたあの男はどうなる。最後までラブアンドピースの為に戦ったであろう仮面ライダービルドは。葛城巧の脳を持つ佐藤太郎というイレギュラーな桐生戦兎は、今どこに居るのだと。そう思った矢先のことだ。nascitaの扉が開き、そこには戦兎の姿がある。
「……せんと」
「、出雲?」
思わず椅子から立ち上がった。この世界の私は誘拐されていなければ記憶喪失になっている訳でもないし、マスターに拾われてもいないし、名前が変わった訳でもない。だからあちらの世界の記憶が残っていなければ私のことを出雲と呼ぶのはおかしいのだ。
「お兄ちゃん、ちょっと」
「あ?おい二瀬、どこ行くんだよ」
「すぐ帰るから」
戦兎の腕を掴んでnascitaから出る。誰も居ないような路地裏を目で探し入り込んだ。戦兎の瞳はゆらゆらと水のように揺らいでいる。
「戦兎――……桐生、戦兎だよね」
「ああ。……っ、そうだ。天っ才物理学者の、桐生戦兎だ」
「私のこと、分かる?」
「葦原出雲。猿渡二瀬。俺の大事な、出雲、」
「……泣かないでよ」
こつり、と額を当てた。戦兎のことだから、皆に記憶が無くたって、それでも良いって言うんだろう。だから私は、私だけは覚えておく。桐生戦兎という男が居たと。私の大事なひとなのだと言うことを。
ずっと支えてくれていて、二年を共に過ごした。涙なんて零さないつもりだったのに、あちらを知っている人物だということに加え、イレギュラーであった桐生戦兎が居るということに涙腺が緩んだのか。ぼろぼろと一歩遅れて流れる涙を戦兎が指で拭った。
「出雲」
「……はい」
「遅れてごめん。俺と――……」
「――喜んで」
この世界で生きた10年間は味気ないものだった。戦兎が居なかったから。あちらの世界の方が良かったとは嘘でも言えないけど。
「戦兎、大好きだよ」
割り切れない記憶があった。今でも、それは頭の隅に存在している。けれども、私の隣に、戦兎が居るのならば。これから彼と共に歩めるのだと思えば。
その辛さも、痛みも、いつか、愛せるようになるのだと――