01.大都会ってちょっと怖い
雲ひとつない晴天に、宇宙船が数隻泳いでいる。途方もなく高いビルが建ち並び、天人と人間が入り混る街、それがここ、江戸だ。
この大都会、江戸がこれからの私の生きる街。……に、なる予定だ。
何せ厳密に言えば、今来たところなのでその様相を先刻知ったばかりである。
田舎から宛てもなくにげだしてきた計画性のない私は、ただいま絶賛迷子なのだ。そして、ちょっと帰りたいとか思い始めている。
田舎とは別格の慌ただしさを見せるこの街の雑踏と喧騒に足が竦んでしまいそうになる。知らない世界に独り取り残されてしまったかのような感覚は、田舎と都会の差をまざまざと実感させた。誰もが皆、忙しなく闊歩している。
どうして私がこんなところにいるのか。それは、職場でよくある上司のセクシャルなハラスメント問題が原因で仕事とんで逃げてきたから。自分でもちょっと最低だとは自覚している。仕事は始めてから三年、頑張りなさいとはよく言うけれど実際そんなに勤めていないし、私は耐えかねて上司を殴ってしまったし。小さい田舎だったからそんな噂は瞬く間に広がって、とうとう私は住んでいるのも辛くなった。そういうわけで、今ここにいる。
静かに肺いっぱいに空気を取り込むと、僅かに漏れる声と共に一気に吐き出した。なけなしのお金で来たのは失敗だったなと思う。タクシーは使えない、宿には止まれない。帰りたいって思う気持ちも半分、けれど戻るのも癪だと思うのも半分で心中は複雑だ。馬鹿だなあ、私
「はあ、どうしようかな。もう……やだな、歩くの疲れたよ」
一人ごちながら歩む速度は、自分の自信と比例しているように思う。とぼとぼ、と歩を進める。兎にも角にも日が沈むまでに、その日泊まれる宿を確保できれば万々歳だ。……むしろ、できないと困るのだが。明日からのことは、その後ゆっくり考えようじゃないか。
空に浮かぶ宇宙船の数を数えながら、自分の浅はかさに薄い笑みが浮かぶ。私の気持ちとは裏腹な空は眩しいくらいに青々とどこまでも澄んでいる。じゃり、と使い慣れた靴が砂の路を一歩、一歩踏みしめる。視線を四方に投げて目的地を探す。
そうして暫くしてから一軒、道の奥に古びた瓦屋根に白の半暖簾のかかった店を見つけた。伊勢屋、と書かれたその店は、江戸で唯一の知り合いの和菓子屋さんだ。特にここの練り切りは一つの芸術作品のように美しい。
無計画に田舎を飛び出した、とは言っても住む場所も働く場所も見つけないままここへ来たわけではない。祖父と旧知の中だというこの店の店主は、昔から私を娘の様に可愛がってくれていた。江戸で店を開いてからも連絡を取り合い、人生相談や時には恋バナだって聞いてもらっている。
軒先の看板が、商い中になっていることをちらりと確認する。入口の柔らかな白木綿の半暖簾を軽く押し上げて店内へ入った。店の外とは違う内装に驚いた、洋物のテーブルや照明が置いてある。外壁の脆さはどこにもなく、塗装は美しく塗り替えられた白。外と中の違いの差に些か驚きを隠せない。
肝心のお客は一名もいない。店員もいない。あれ?おかしいな。
「こ、こんにちはー。誰か、いますか?」
「当たり前だ、商い中なんだから当然だろう」
「わっ、 」
「バケモン見たような顔するな」
「おじさん!お久しぶりです!」
突然、嗄れた声と共に色白白髪のお爺さんが出てきたら誰でも驚く……というかほんとにお化けかと思った、というのは内緒で。折角の感動の再開なんだから。ここ数年は、とんと電話連絡だけだった事もあって、いざおじさんの顔を見ると懐かしさと安堵がひしひしと込み上げてくる。
「江戸は、田舎とは全然違うんですね。道中、心細くて仕方なかったです」
「おつかれさん、よく一人で来たね。大変だっただろうに」
「でも、おじさんの顔見たら安心しました。今日からお世話になります」
「歓迎するが、この店もいつまで持つかわからんのでな。やりたいこと、きちんと見つけるんだぞ応援するから」
「あ、ありがとうございます!頑張りますね、根性ないですけど」
「いや最後のは、言わんでよかっただろ。とりあえずの住むところはこの店から近いから。これもって、荷物おいてきな。ほれ、」
差し出された手書きの地図。さらさら、と手短に書いてくれたその地図は簡素だがわかりやすいものだった。地図は、店出て右を直進し、突き当たりを左で花屋の三軒隣の建物を示している。まだ見ぬ家に、胸が高鳴る。純粋にわくわくしている。
「長いこと使ってない家だから、使いやすいようにしてくれたらいい。前もって電気とか水道は復活させてあるから、その辺は問題ないんじゃねえかな。はい。鍵は、これね」
「どうして、家に帰ってないんですか?」
金属の輝きを失い燻んでいるそれを受け取り、壊れ物のようにそっと握りしめれば早々に手の温もりに馴染んでいく。
「仕込みとか、店のことで忙しいから店の裏の一室で寝泊まりしてるからな」
「ん?忙しいんですか、このお店」
「そういうわけじゃないけどな、俺のこだわりだ。できる限り和菓子と向き合っていたいんだよ。たかがお菓子、されどお菓子。練り切りは芸術品、おじさんだって勉強してかないとな」
伊勢屋の練り切りは将軍様にも献上する程のものなのだとか。おじさんの目が一層輝いてその熱を饒舌に語る。その道一筋の職人はやはり胸に秘めているものが熱いのだと思う。普段、聞き手に徹するおじさんが和菓子のことになるとこうも変わる。私はそういうおじさんが好きだ。
「おっと、こんな話ばっかしてちゃいけねえやな。家の表札には“伊勢”って書いてあるから。凛ちゃん、間違えても他人の家に入ったりしないようにな」
「私、そんなに鈍臭くないですよ!」
「どうだかな、明日の朝十時に開店するから。適当に来てくれたら、色々教えるよ」
「わかりました!」
「ははは、気をつけてな」
そうして、おじさんに手を振りながら元気よく店を出た。足取りは軽く、心は何とも言えぬほど嬉々としていた。さっきまで帰りたいって思っていたことが嘘のように軽やかに踏み出した歩は確かに前に進む。
伊勢屋を出て、すぐに居酒屋やキャバクラの大人の夜の嗜み広がるかぶき町歓楽街に辿り着いた。昼間だけあって、人通りこそ多いが多くの店は閉店、準備中と開いてない店が軒を連ねて並び立っている。地図を見ればここを真っ直ぐの花屋、三軒隣に赤印がつけられている。
「あった」
蔓のようなものが自由に伸び、絡みついている門や外壁と所々に見受けられる錆をみれば手入れされてないことは明白だった。夜になれば、肝試しができるんじゃないかってぐらいには荒れている。
「ほんとに、使ってないんだ……」
信じていなかったわけではないが、民家なのか幽霊屋敷なのか問われるとちょっと戸惑うレベルだ。中途半端に開いている背の低い門を手前に引けば、キキキと嫌な金属音をたてた。ぼろぼろと触れたところの錆が地へ落ちる。日は高いのに、その雰囲気の恐怖心から警戒しながら入っていく。
玄関扉の鍵穴に燻んだ鍵を差し込んだ。右へ回す、かちりと小気味良い音が鳴った。
ドアノブをゆっくり引いた。湿り気を帯びた空気が体に纏わりつき、古本のような匂いがする。
開けてすぐに細い廊下があり、三歩、四歩進むと八畳程のリビング。家具は、テレビと机にソファ。すぐ側のキッチンには冷蔵庫がある。必要最低限の家具だけしかないようだ。家電の類に至っては、稼働するかどうか試してみなければ。
「とりあえず使える程度まで、掃除してかないとね」
よし、と気合を入れた。リビング奥の窓を開け、外の空気を取り込むと、とても気持ちがいい。地図と鍵を机の上に置き、家中の窓を開けた。散在していた掃除道具をかき集め、大掃除に取り掛かる。何度か虫を見かけたが、そこは田舎娘の実力を発揮しておいた。
淀んだ空気を感じなくなる頃には、大方の掃除は済み日も暮れていた。戸締りを終え、壁際のスイッチをぱちりと押した。ゆっくりとぼんやりした電気がつき、辺りが明るくなる。
「ああ、疲れたっ」
大きめなソファに体を預ければ骨組みの軋む音がした。今日はこの埃をはたきにはたきまくったソファで眠るとしよう。大仕事を終え、私の意識は緩やかに睡魔に襲われていく。心地良い微睡みの中で明日からの生活に胸をときめかせた。
こうして私の江戸暮らしは少しの不安と大きな期待を胸にこうして幕を開けたのです。