8.溶解


「ねぇ、怒ってる?俺がキスしたせいで最後の花火を見逃したこと。」
「…怒ってない。」
「なら、こっち向いて欲しいなぁ?」

ホテルの一室。ここは、思い出のホテルではないけれど、そこに近い場所に建てられたホテルだった。広くて、ガラス張りの窓からは夜景が見える素敵な部屋だった。…こんな部屋を取ってくれていたなんて。

「ねぇったら。」

私はキングベットに彼に背を向けて寝ていた。そんな私の顔をこちらに向けようと、彼は情けない声をあげた。私は隠れて笑うと、もぞもぞと顔を向けてやる。

「やっとこっち向いた。」
「おやすみ。」
「えー、もう寝るの?」
「今日は楽しかったよ。久しぶりに。」
「それはよかった。」
「…。」
「…ねぇ。」

目を閉じれば、彼は顔を近づけて聞いてくる。

「俺と離れて一人でいるのと、俺とこうして楽しいことをするの、どっちがいい?」
「…っ。…毎日がこんな楽しいことばかりじゃないでしょ?」
「でも、久しぶりに楽しかったんだろ?俺といたからだよ。一人で世界を歩いていても、今日よりはつまらないだろ?」

答えられなくなって、黙る。すると、アーデンは私から始めて目をそらして、低い声で呟いた。

「もう、君の俺への誓いは解消されたってことなのかな?」

永遠に愛すと、そばにいると、あの時に見せた覚悟を問われる。私はどこか罪悪感を感じながら、また答えられなくなる。きゅっとシーツを握ってから、スッと仰向けになったアーデンの横顔を見た。彼の前髪が彼の目元を隠しているから、どんな目で天井を見つめているのかわからない。少し不安になって、口を開きかけたけど、それより先に彼が口を開いた。

「俺は君が俺よりも時間を割くものを見つけても、構わないよ。我慢して君が俺に戻ってくれるまでまってあげるけど…君はそうじゃないみたいだね。」

アーデンは私から背を向けるように寝返りを打った。私から許せなくて壁を作ってきたのに、彼から壁を作られるとすごく悲しくなった。
今日は20年ぶりに人といた。かつて愛し合った人といた。少しその愛に戸惑い、どこか警戒しながらも、私は人の温度や自然な笑顔を感じていて、本当は少し楽しかった。

「おやすみ。」
「…っ。」

まるで突き放されたような気持ちになる。低くて、そっけない物言いは、まるで他人に対する最低限の挨拶だった。自業自得なのに目頭が熱くなって、私も背中を向けた。でも涙は勝手に出てきて、ぐすっとかっこ悪く鼻をすする音が部屋に響く。決まりが悪すぎて身を丸めて目を閉じると、背中から大きなため息が聞こえた。

「なぁに?まーた泣いてるの?」

あの優しい声で振り向いて、私の顔を覗き込んでくる。夜景の灯りが差し込んで、彼の顔が少し見えた。もちろん、私の泣き顔だって見えているはず。

「んもー。素直じゃないんだから。」
「な、なぁに、すなおって、」
「俺に冷たくされて、ちょっと寂しくなったんでしょ?」

まるで最初から分かっていたように言うと、指の腹で私の涙を拭う。

「ほーんと、泣き虫さんだなぁ、俺のお嫁さんは。」
「試したの?」
「そ!よく言うでしょ?押してダメなら引いてみろって。でも、君が泣いちゃったから、作戦変更。やっぱり、俺が攻めた方がいいや。」

アーデンは私の隣に寝転ぶと私を遠慮なく抱きしめた。大人しく抱きしめられる私は、まるで怒られた子どもだ。ごめんねも言わずに、安心の中に素直に抱きしめられている子どもだった。

「多分、君は俺のこと好きだよ。」

語尾上がりにそういった彼もどこか安心した顔をしていた。私も、きっとそうだと確信する。

「ねぇ。」
「んー?」
「今日は、楽しかった?」
「もちろんだよ。…やっぱり、隣に君がいなきゃ、全部つまんないよ。」

後ろからあやされて、また涙が出ると、ふふんっと笑われた。
ずっと張り詰めて持っていた氷が溶けていく。






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