本当の恋人に


エルヴィン・スミスという男を愛した時点で、深い愛を求めることは間違いだとわかっていた。
こうして、彼が恋人という関係を許してくれたこと自体が奇跡で、ほんの一瞬でも私との時間を作ってくれることが奇跡なんだから。

だから、嬉しいのだけれど、時々すごく辛くなる。彼との恋はあまりに刹那的で、閉鎖的で、制限がつきまとっていたから。人は私たちを恋人とは言わないだろう。愛し、愛される、そんな甘ったるくも永遠の、安心する絆なんて、私たちにはどこにもない。

そんなことは最初から知っていたことなのに、それを感じるとすごく辛くなった。常に私は天秤に乗せられている。そして、天秤にかけられれば、私なんていとも容易く浮き上がる。

ー はぁ。

ひどい雨の中。私はフードの奥深くでため息を吐いた。何かがいきなりプツリと切れて、涙が流れていた。ここには誰もいない。どんよりとした曇天が頭上を覆い、光さえ遮断する、夜。兵舎への足を止めて、大木の下で佇んだ。

覚悟をしていたのに。束の間でも、彼のそばにいて、彼に触れられて、彼に触れて、その時間だけでも彼を愛することを望んだ。でも、それは限りなく短い時間。彼の中でなによりも大事なものは彼の夢であり、人類の未来であり、壁の外にある真実。それ以上の価値は、私にはない。
私はそばにいたけれど、やっぱり彼の背中しか見えなかった。

ー そんな男だと、わかっていたのに、…ああ、なんて、辛いんだろう。

フードをとって、雨粒を顔に受ける。このまま、泣いていたくて、つめたい風と大粒の雨に叩きつけられながら、大きく息を吸い込んだ。

◆◆◆◆◆

ただ、なんとなくの直感だった。その日、脈絡もなく外の寒さが気になって、なぜか彼女が心に浮かぶ。まだ書かなければならない書類があるのだが、確認の意味を込めて立ち上がり、彼女の部屋へと足を向けた。

夜、雷がなって豪雨が木々を揺らしている。ギシギシと軋む廊下を歩き、彼女の部屋をノックしたが返事はない。寝たのか?と部屋を開けても誰もいなかった。
こんな時間に一体どこへ?…何故か、胸騒ぎがした。彼女を探しに廊下へ出た時、視界に入った彼女の姿を見て驚く。

「…どうした?」
「エルヴィン…?」

ずぶ濡れの彼女が立っていた。髪が顔に張り付き、真っ青な顔をしている。ボタボタと足元に雨水が落ち、すぐに水たまりを作り出した。

「外にいたのか?」
「そう。買い出しに行っていたの。」
「早く着替えるんだ。風邪をひく。」
「うん、ごめん。」

虚ろな目は腫れていた。何があったのか、自分から言う気は無いらしい。彼女は私の隣を通り過ぎて、部屋へ入った。弱く、ドアを閉めながら。

バタン。
ドアが目の前で閉まる。今から着替えるのであれば、当然ドアは閉める。だが、まるで私が遮断されてような気持ちになった。そのドアの奥にいる彼女は、私の恋人だ。だが、大半のソレとは違うもの。私という男と擦り合わせながら、浅い愛を断続的に紡いでいるものだった。

いつか、彼女は泣くだろう。そう思ってはいたが、それが今日だった。…ということか。

ウサギのような赤い目は濡れていた。その孤独を味あわせているものは、紛れもなく俺だ。身勝手なのだろう。この場所から、今、彼女の名前を呼ぶことは。

「●…ちゃんと着替えているか?」

ドアに向かって話しかける。返事はない。ドアノブを回せば、彼女は泣いているだろか?俺は、彼女を慰める立場にない。彼女が俺といて負担なら、離れるべきだ。…それなのに、ドアノブを握っているこの手は、何故だ。

「入るぞ。」

一言告げて、部屋に入る。彼女は暗い部屋で、窓の外を見て立っていた。もちろん、濡れたまま。足元に水たまりを作って闇を見ている。

「着替えないのか?」

ドアを閉めて、彼女へ歩み寄った。窓に映る彼女は泣いてはいなかったが、いくつもの水が額から流れて頬を伝っている。

「エルヴィンは、何か用だったの?」

肩越しに振り返って俺に聞く。俺は、彼女の胸の前の上着のボタンを外しながら、答えた。

「特に用はない。」
「…そう。」
「着替えは?」
「…さぁ、あったかな。」

俺は黙って服を脱がせた。彼女は黙って脱がされ、ずぶ濡れの体を見つめていた。棚にあるタオルを手にとって、その体を包みながら拭いてやる。

「変なの。」
「何がだ?」
「エルヴィンは、こんなに気が効く恋人だっけ?」
「…そうだな。」

自嘲気味に笑って、水を含んだ長い髪を絞る。そして、冷え切った体を後ろから抱きしめた。驚いた彼女の顔が窓に映った。

「買い出しは嘘だろ。どこに行っていた?」
「…なにも。ただ、兵舎の周りを歩いていたら雨にあって、何故か帰る気持ちもなくてずっと打たれていた。」
「おかしいのは、俺だけじゃないようだ。」
「ふふ。…でも、こんな時に限ってエルヴィンがこんなに優しいなんて…困った。」
「どういう意味だ?」
「……。」

おし黙る●。軽く唸って、視線が落ちていく。でも、それで十分だった。彼女は、恋人だ。なにを考えているか、分からなくもない。

「俺は自分勝手な男だ。俺という男を恋人に持った女性は、幸せにはなれない。…すまないと思う。」
「…これが、最後の優しさかもね。」
「……。」
「着替えは、…一人でできるよ。ありがとう。」
「……。」
「エルヴィンも濡れるから。離れて。」
「……。」

初めての拒絶。これが、彼女が雨の中で下した決断だろう。彼女は俺を愛していた。俺もそれに応えていた。だが、俺の頭の中にある決意や夢が、誰かを愛することを阻む。
きっとこうなるとわかっていた。それなのに、俺は恋人という存在をつくることを許してしまった。
何故か?決意が揺らいだからなのか…?傷ついてもそばにいる彼女に同情したのか…?愛されることに安らぎを見出したからか…?

「まだ、すこし、いいか?」
「え?」

冷たい唇が振り向く。俺は躊躇いもなく、その唇を奪った。抵抗はないが、驚きを感じる。はぁ、と氷のような吐息が鼻先にかかり、目を丸くした彼女を見た。

「どう…したの、エルヴィン…?」
「分からない。」
「分からない…って…。」
「身勝手な振る舞いなのは分かっている。だが、今、この瞬間、私が優先しているものは君だ。」

彼女は力が抜けていた。口を開いたまま、俺を見つめて動かない。俺はその冷たい体を抱きかかえると、ベッドに足を向けた。

◆◆◆◆◆◆◆

「変な感じ…。」
「今度は何がだ?」

すこしは体が温まっただろう。赤い顔の●は、ランプに照らされる部屋の天井を見つめながら口にした。

「何だか、恋人といるみたい。」

皮肉か。いや、事実だ。不思議と、俺も同じ思いだった。彼女が立ち去る。そう捉えた時、頭ではなく心が動いた。心臓を捧げて真実に手を伸ばすときと同じような覚悟を持って、彼女を引き寄せた。
そして、今、この腕で抱いている。疲れを浮かべた彼女は、目を細め俺を見た。

「君に負けたよ。あれほど頑なに目指していたものが、微かに揺らいだ。命をかけて追い求めてきた夢を捨てることはできないが、それでも、君を…失いたくはないと。」
「…、ほんとうに?」
「ああ。」

彼女は信じられないという目で俺を見つめる。そして、疲れた顔で笑いながら、そっと俺の手を握った。

「こんなこともあるんだね。」

彼女はそういうと、静かに眠りに入る。俺は握られた手を握り返しながら、目を細めた。
体から伝わること熱が心地よく、手放しがたいと強い思いが育っていった。


end

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