最初から芝居などでは


「右に曲がるぞ。」

クルーガーさんが私にだけに聞こえるような音量で指示する。助けてもらっている手前、暗い路地裏へ入ることは躊躇われたが渋々足を向けた。ゴミが転がって光がまともに入らない暗さで、まさにそこだけでもこの街の治安の悪さを描いていた。
暗さのせいで余計に狭く感じる。身を縮めながら後ろに続くクルーガーさんの歩調を気にかけながら奥に進むと「止まれ」と言われた。

振り向いた私が気にかけたのはクルーガーさんではなく私をストーカーしている男。
男に追われるなんて恐怖そのもの。そのことに気づいてどうしようか分からなくて固まっていた時にクルーガーさんに声をかけられて本当に良かった。彼なら立場的にも身体的にも強いし味方になってくれると信じられたので打ち明けると助けてくれると言ってくれた。

「一芝居打つか。」

彼は帽子を脱いで片手で髪を軽く掻くと私を壁に追い込むように壁に手をつく。微かな街の光を頼りに彼の顔を伺うといつものように真剣で真っ直ぐな目を私に向けていた。芝居?と繰り返すと唇が落ちる。ドックンと脈が高鳴る。驚いて目を丸くし、反射的に押し返そうとしたけど彼に手首を握られて抗えない。

こんなことする人じゃない。
さっき言ってた芝居って?な、何でこんなことを。

「お、おい、お前、何してんだよっ。」

ストーカーが路地裏を覗いて慌てて叫んだ。薄目でそちらを見るとクルーガーさんが離れて男に向き合う。

「見てわからないか?俺は今、自分の女に手を出している。」
「…お、お前、彼女の男っ?いや、嘘だろ…彼女に恋人なんてっ。」

狼狽えるストーカーにコツコツと靴音を響かせながら歩み寄るクルーガーさん。一歩近づくたびに男は一歩も二歩も後ずさり、クルーガーさんに胸ぐらを掴まれた時、男は噛まれた犬のような甲高い声を出した。

「お前は俺の女をつけ回し怯えさせた。その罰をその貧弱な体に教え込んだほうがいいか?それとも、これが最後の警告だと理解する頭くらいあるか?」
「す、すみませんっ、軍人の男がいるなんて知らなくてっ…!すみません!殴らないで!」

クルーガーさんの影で男の顔は見えないけど、焦りと恐怖から泣いて許しをこう声を聞けば十分だった。震えて青ざめてるに違いない。

「2度とその面を見せるな。俺にも俺の女にも。」

乱暴に突き飛ばされた男は尻餅をついてから一目散に逃げ出した。クルーガーさんは男が姿を消すまで男が逃げた方を見据え、やがて私に振り返った。

「出てきていいぞ。」
「あ、ありがとうございましたっ…!本当にっ。」
「また何かあったらすぐに言え。」
「そうしますっ。」

一仕事終えた彼はタバコを口に咥え、帽子を被った。
私のためにやってくれたことに感謝してる。まるで小説のような守り方をしてもらって感動したし夢見心地になった。そのくらいロマンチックだったから。この人が本当に彼氏ならどれだけ信じられて頼もしいか…。

「悪かった。」
「何がです?」
「キスだ。」
「!?…あ、イェッ、いえ、全然全然!嫌じゃないです!寧ろ、クルーガーさんに申し訳ないというかっ!」

裏声になりながら否定する。キスが嬉しかったなんてバレたら…!軽い女だと思われるに決まってる!

「もう遅い。家まで送る。」

私は頭を下げてお願いする。彼はタバコを踏み消すと歩き出した。
彼の口はタバコで塗り替えられたけど、私はいまだに先ほどの感触を覚えている。タバコの匂いと味がした。ストーカーが覗きに来なかったらもっと長くしていられたかな、なんて。

「他にも心配事があるのなら言えよ。ついでだ。」
「いえっ、悩みではないです…。ただ、」
「何だ。」
「クルーガーさんからのキス、よかったなって。…あ。」

彼の目が丸くなった。私の目も丸くなった。さっき隠したのに口からポロッと本音が出た!!

「あ、じゃ、じゃあ、私はこれで!」
「おい、待て「家すぐそこなんで大丈夫です!!じゃあ!」
「……。」
「!」
「待てよ。」

彼は落ち着いた声を出し、パニックになった私の片手を握って走り出さないように軽く引く。
彼に手を握られてるのは嬉しい…けど、振り向けない…顔が赤くて熱い。穴があったら入りたいほど恥ずかしくて恥ずかしくて、もうだめだ。合わせる顔がない。

「こっちを向け。」
「…私、なんてことを…恥ずかしくて向けません…っ。」
「そうか。」

片手で顔を覆って俯いていると私を握る手が解かれ、そっと背後から抱きしめられた。ハッと顔を上げる。

「あの時と違って抵抗しないのか。」

反則だ。キスが嬉しかったと言った女が抱きしめられて嫌わけない。硬い胸板に背中と後頭部を預けながら喜びと驚きで興奮した。
そして、好奇心から腹部にまわった彼の手に手を重ねて握ってみる。

「誘惑だと受け取っていいんだな?」
「ゆ、ゆうわく!?というか好意ですっ!」

何だかんだたくさんの本音を伝えてしまう私。それがおかしいのか彼は微かに揺れた。笑われた?

「お前が沈んだ顔で街を歩いていた時、男に捨てられたのかと思った。そんなお前に声をかけた時点で俺は付け入る隙を探っていたんだろうな。」
「じゃ、じゃあ、クルーガーさんも、私を?」
「ああ。芝居どころではなくなったな。」



end

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