愛に揉まれる
その通りに入ると息を止めたくなった。なんとも甘い香りが立ち込める道だ。眉間を寄せて辺りを見渡すと店から出る女たちがチョコレートを手にしている。
…今日はバレンタインデーか。自分には縁のないイベントだから気づかなかった。
なら仕方ない。この道の甘ったるい香りをあと1日我慢するしかないらしい。足早に道を抜けて広い通りに出る。
「わ!」
ようやく香りから解放されたクルーガーが偶然出会したのは●だった。●は目を丸くしてクルーガーを見上げる。クルーガーは●を見てから●の片手に握られていたチョコレートの包に目をやった。
「ほぉ?お前も誰かにやるのか。」
「え!?…はわああ〜っ、いや、これは!」
もう遅いと言うのに慌ててそれを隠す●。クルーガーは「フッ」と笑って●の肩にポンと叩いて通り過ぎる。
「まぁ、うまくやれよ。」
●が密かに想いを寄せる相手はどんな男なのか想像もつかない。ただ、●と話す時、好きな相手がいることを匂わせることが何度かあった。話ぶりから両思いではなさそうだ。うっすら興味はあるが、自分が首を突っ込む話ではない。自分に出来ることは話しをされたら聞く、それだけだった。
(あいつもいい歳だ。こんな日を機に男と世帯をもつのか)
父親のような兄のような気持ちで肩越しに振り向いて●を見ると●はまるで振られた女のように店の壁に半身を預けていた。
(……。)
彼女の足腰に力が入っておらず、今にもずるずると崩れ落ちそうだ。
(何だ。どうしたんだ…。)
クルーガーは流石に驚いて立ち止まり、●の様子を伺うと今度は拳を握りしめて土壁を殴っている。怒りと嘆きの拳だ。
「おい、どうしたんだ。」
ダンダンと土壁を殴る●の肩を握ると「こんな物おおぉお!」と手にしていたチョコレートを振り翳して地面に叩きつけた。
その一連の構造はまったくの謎。
酔った人間の鎮め方は物理的に知っているが、こんな奇行に走る●の鎮め方は全くわからない。とりあえず、話を聞くと言って連行した。
ーーーーー
ーー
「まだ話す気になれないか?」
連行先はいつもの河川敷。●は体育座りをして膝上に顔を伏せてこちらを見ない。完璧に閉じこもっている。クルーガーは隣でタバコを吸っていた。
尋問するにもどうにもならない。事情聴取にもならない。
現場に残されたチョコレートをクルーガーは持っており、●と自分の間においておいた。それは痛々しく割れて崩れており、最早人にあげる形ではない。
(ああ。そうか。フラれてきたのか…。そこで俺と出会して俺が余計なひと言を言ったのか。)
クルーガーなりに推測をして申し訳なさを感じて●を見る。これほどしょげる●は初めてだ。相当好きな男だったんだろう。
「お前はまだ若い。他にも男はいるだろう。気に病むな。」
「……。」
「俺が話を聞く。だから、顔を上げろよ。」
「……。」
駄目だ。今は何を言っても無駄だろう。しかし、かといって女をこんな場所に置いて行けない。気になるが、今はもう家に帰してやろう。
「俺に何を言われても意味がないのかもな。家まで送る。」
「……。」
「●、ほら、立て。」
緩く腕を掴んで引くと涙に濡れた●の赤い顔が覗く。
「……。」
女の涙を見たところで特に心揺れないが、●の涙は自分のせいに思えて罪悪感と焦りが湧く。埒が開かないし無理にでも家に連れ帰ろうとしていたクルーガーだが、それ以上腕を引く気になれない。ただ、じっとこちらを見る●を見つめていた。
「クルーガーさん。」
「どうした。」
鼻声の●。傷ついた●。泣いている●。
妙だ。何故だ。●とは兄妹のような、親子のような、そんな仲だから●を女と見たことはない。だから戸惑った。
今の●には魔力とも言える魅力を感じる。今なら●をフった男の家に押しかけて殴り倒してやりたい。そいつが善良な市民でも何でも。●の怒りは自分の怒りだった。
「フッたのはクルーガーさんですよ!」
「!」
「私が好きなのはクルーガーさんですよっ!」
二つの衝撃。
●を想像以上に傷つけたのは自分だった。そして、愛されていたのも自分。これはもう自分を殴りたい。
と同時に泣きながら告白をした●の健気で無防備で愛らしい勇気に脈が速まる。
(まさか、俺にこんな感情があるなんてな。)
本当に驚きっぱなしだ。
少しの間を置いてから何をすべきか分かったクルーガーは草原に置いたチョコレートの包みを手にして齧り付いた。
●はそんなクルーガーを見て驚き涙を止めた。
チョコレートに砂が混じっていたが気にしない。甘いものはそんなに好きじゃないが全て食べ尽くす。●が作ってくれたチョコレートだ。粉々になっていても、潰れていても、●の想いの形は全て食べる。
「美味い。今度は叩き潰すな。」
すべて食べて口元のチョコレートを拭い、包みはなるべく綺麗に折って胸ポケットに入れた。
「俺はこういう行事に疎い。だから、来月何が欲しいか今から考えておけ。なるべく希望に沿うようにする。」
「欲しいって…それはもちろんクルーガーさんですよ!」
「……。」
バレンタインデーの女の勇気は目を見張るものがある。●は普段はこんなふうに大胆で情熱的な女じゃない。臆病で男から見たら守ってやりたい女だが、この日の女は男よりも勇敢で圧倒される。
「もう俺はお前のだろ。」
だから、こちらもつい本音で言い返せた。いつもの俺なら決してこんな言葉は出てこないだろう。だが、愛には愛を返したい。
…とは言え、●の満面の笑顔を見た俺は目を逸らして甘い口元を片手で隠した。
end
ALICE+