17


「今夜はヴァーサタイルと会議があってね。行かなくちゃなんだ。」
「早く帰ってきてね。」
「勿論。いい子で待っててよ。」

アーデンをベッドの中から見送った後また目を閉じる。アーデンは部屋を出ると隣の自室へ向かって出勤の準備をはじめた。

今日もたくさん嘘をついた。愛してる、好きだと。そういえば言うほど彼は私を満たすから。
最近はもう薬が切れたと言われ薬を飲んでいないけど、高揚感はずっと続いていて心地いい。

朝日が昇る前の空を見つめながら、飲みかけのワインを傾ける。かつて空を見上げて涙を流した自分がいたが、今はこのベッドから出ようとは思わない。

ーコッコッコッ

重い金属音が廊下を歩いている。魔導兵の足音だ。
魔道兵の靴音が寝室を通り過ぎ、アーデンの部屋の前で立ち止まるとそのドアをノックした。間を開けて魔導兵が部屋に入り、しばらくして退室した。
再び魔導兵が寝室の前を通る時に不気味な音がした。

ー ウウゥゥ…。

人の呻き声が聞こえる。病人のような、老人のような声。その声の後には重い足音が続いた。

不気味で仕方なく、足音と声が通り過ぎたら隣にいるアーデンの元へ向かいたくなってベッドから降りる。

ゆっくりと部屋のドアを開けて、わずかな隙間から廊下を覗くと床に黒い液体が落ちていた。石油のようなギラギラした水溜り。アーデンの部屋から出てきた魔導兵に何があったのか…?アーデンに聞こうかと彼の部屋のドアノブを見つめたけれど、そのドアは重く閉ざされて見える。
さっきまで情をかわしていた相手の部屋なのに、その部屋の前から点々と黒ずんだ液体が続いていると気味が悪い。

「…これはなに?」

床の液体を屈んで見ようとすると、アーデンの部屋から物音がしたので反射的にドアを閉める。
なぜアーデンから隠れようとしたのかは分からない。でも、今は彼に会ってはいけない気がした。

彼の部屋のドアが開いて寝室の前を彼の靴音が通り過ぎる時は息を止めていた。ドキドキしていて、まるで得体の知れない魔物が通り過ぎるのを待つ緊張感に縛られる。

アーデンが部屋から出て階段を降りていく音を確認すると、静かに窓際に移動してカーテンの隙間から玄関をみる。
まだ暗くて外の様子はよく見えないけれど玄関でおかしな動きをする魔導兵がいた。

目を凝らしてみると、ドロドロとした液を体から流し、背中から角のようなものが突き出ていた。その姿はまるで…化け物であり、シガイだった。

「え、やだ、…なんでシガイがこんなところまで入ってきてるの…!?」

シガイは狂暴で人を襲う。もし屋敷に入ってきたら戦えない私は殺されてしまう。でも、この屋敷には電話がない。アーデンはもう出ていってしまっている。アーデンもあのシガイに襲われるんじゃないか…急いで服を着て屋敷内の魔導兵に助けを求めようとしたが、玄関から出てきたアーデンがそのシガイの目の前を通り過ぎた。片手を上げて挨拶でもするような彼の態度に思考が停止する。残されたそのシガイはまるでこの屋敷を警備するかのようの玄関の辺りを往復し始めた。

「魔導兵をシガイにしたの?…どうやって?」

謎が謎を呼ぶ。

「…アーデンは時間をとめる。幻も見せる。なら、人をシガイにする力もある…?」

自分で言っていて怖くなる。でも、今体験したことはそういうことかもしれない。

そして、そんな人間に飼われていたことが恐ろしい。もし彼の機嫌を損ねたら私もシガイにさせられるのかもしれない。

「…やだ、やだ…ありえない!…逃げなきゃ!」

もうあんな危ない男とは一緒にはいられない。どんな秘密が隠されているのかわかったもんじゃない。逃げなくては。でも、どうやって逃げればいい?

「……!」

途方もなくたたずんでいると、垂れさがっていた手が下腹部へ向かう。アーデンに何度も出されたここ。避妊なんてしていない。もしかしかたら、孕んでいるかもしれない。

もし、いるのなら下ろせるだろうか?いや、私がアーデンから逃げたられたところで医者になんて行けない。

「…どうしたら…。」

今更そんなことを考えて言葉を失う。

「いや、この先のことなんて私に考える権利がなかったから私は悪くない!」

頭を抱えながらずるずると壁に沿って床に座り込む。言い訳を繰り返して自責の念を追い払い、外にいるおぞましいシガイを思い出す。

「あんなおかしな力を持った男の子どもは本当に人間なの?アーデン…アーデンは何?…人間、なの…?」

頭が追いつかなくて、自分でも意味がわからない疑問ばかり口にしていた。混乱しすぎて考える力が消えていく。感情さえどこかに消えていきそうになった時、下腹部に痛みが走った。つったような痛み。

この痛みはよく知っている。そして、あぁ…と口角を吊り上げながら、急いでトイレに駆け込んで下着を下ろす。便座に座ると下着についた赤い色を見て目をホッと息を吐いた。

「…はっ…まだ、私は…」

安堵の涙が溢れて脱力する。そこに染みる赤は私の体がまだ自由である証拠だった。

久々の痛みが私を叱りつけ、希望をくれた。
私はアーデンと会ってから全ての人生が狂い、平和な時間を根こそぎ奪われ、醜い人間に質を落とした。でも、まだ這い上がれるかもしれない。

「しっかりして…、戦え、私…!」

酔いを追い払うように頬を叩く。これが最後だ、と再びこの檻からでる決意を抱いた。




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