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あの夜、佐川さんと再会するなんて思いもよらなかった。

久しぶりに彼を見た時、彼は驚いた目を向けたけど、それは束の間だった。さっと視線を吾朗ちゃんにもどすと私のことを無視して2人で話していた。その時私はすごくショックで、自分の中にある彼への恋心が冷め切っていないことを嫌でも自覚した。

私にはもう興味がないのかな。…佐川さんとの恋愛はすごく大事で切ない思い出。
佐川さんが私に別れを告げた理由は分かっているつもりだった。飽きて捨てるような目つきじゃなかったもの。あれは、真剣で、真剣に…私を守ろうとしていた目だった。

だからこそ、余計に私は拒めなかった。私が彼の弱みになって彼を危ない目に遭わせたくない。私は彼の判断を信じて、大事な人を考える間もなく諦めなければならかった。まるで事故で大事な人を失うかのような早さで。

その痛みや苦しみは時間が癒してくれた。いや…吾朗ちゃんだ。彼の存在が私を支えてくれた。最初は友達として、だんだんもっと近い理解者として。そして、特別な人として。
これからは吾朗ちゃんを大事にしようと思って、佐川さんのことは過去にしたのに、突然の再会で昔の思い出がたくさん蘇ってしまった。

本当は吾朗ちゃんにたくさん聞きたかった。
佐川さんとはどんな関係なの?佐川さんにはもう相手がいる?って。
でもそんなこと絶対しちゃダメ。

吾朗ちゃんは私が過去に辛い失恋をしたことは知ってるけど、それが佐川さんだとは知らない。
吾朗ちゃんはどん底にいた私にとても優しくてしてくれて、ここまで立ち直らせてくれた恩人のような人だから、絶対に傷つけてはいけない。

「しっかりしないと。」

とはいうものの、何をしっかりしないといけないんだろう?
心はこんなにかき乱されて、混乱して、動揺して、疲れてて、もう一度彼に会いたいと強く求めているのに。

仕事を早めに終えて浮かない顔で帰路についていた私は、まるで能面のような顔で街を歩いていた。すると、濃いタバコの匂いが風に乗って私の鼻を掠めた。

「…これ…。」

どこにでもあるタバコの匂いのはずなのに。人間の嗅覚って不思議で、タバコに詳しくもない私がこれは昔嗅いだ匂いだと嗅ぎ分ける。これは…、彼が吸っていた匂いだ。

「傘ねぇのか?そろそろ降る頃だぜ。」

3日前に聞いた声がする。ハッとして顔を向けると路地裏にタバコを吸っている佐川さんがいた。
…まともに話したのは1年ぶりだ。何一つ変わっていない。彼は私をじっと見つめていた。彼の手には紺色の傘が握られていて、その視線はそっと鉛色の空を見上げる。

「お前ってかわんねぇな。どうして天気予報見ないんだろうな?」
「…もう…梅雨が明けたと思ってたから。」
「そうだな。そういや昔、夜には大雨だってのに傘も持たずに仕事行って案の定濡れたまま走って帰ってきてたよなぁ。俺に呆れられて鼻水垂らしてガタガタ震えて…おもしれぇよな、お前って。」

彼が昔を思い出しながら傘を開けると、ポツポツと雨粒が落ちてきた。私が少し近づくと、彼はタバコを捨てて私を傘に入れた。
少し近い距離で、彼を見上げると彼は真剣な目をしていた。あの頃と同じ…強くて不動の存在がすぐそこに在る。

「は、鼻水は垂らしてない…。」
「ん?そうだった?悪いな。ただ他の女と勘違いしたわけじゃねぇよ。」
「…佐川、さん…。」
「元気そうじゃねぇか。オマケにいい男を捕まえたな。」
「吾朗ちゃんと知り合いだったなんて。」
「吾朗ちゃんねぇ。教えたのか?俺たちの関係。」

首を横に振った。教えられるわけないと。佐川さんは、そっか、だよなぁ。とゆったり答える。

「まぁ、教えてどうするって話だよな。で、お前は隠したいの?」
「隠すというか、いう必要はないと思うの。でも、私、昨日吾朗ちゃんの隣でうたた寝して…佐川さんの苗字を呼んだみたい。」
「なんでだよ。」
「わかんない。」
「…で、真島ちゃんは?気づいたの?」
「はぐらかした。だから、嘘をついたことになちゃった。佐川さんのことは知らないって、伝えちゃったから。」
「そうか。なら、俺たちは他人のフリしなきゃな。じゃなきゃ泣いちゃうよ?アイツ。俺はアイツにとって嫌な上司だからさ。そんな奴が自分の女の男だったなんて知ったら、お前捨てられるかもしれねぇしな。」
「……。」

吾朗ちゃんと離れるのは寂しい。
でも、仮に吾朗ちゃんと別れることになって感じる痛みがあの頃の鋭く重く長い痛みと同じかと思えば違う気がする。私は佐川さんのことを本気で愛していたから。ずっと一緒に居たいと思っていた唯一の人だから。

「お前、今幸せか?」
「え?…何で急にそんなこと…。」
「俺はお前の幸せのために俺は身を引いたんだぜ?」
「…分かんないよ。」
「……。」
「佐川さんのこと大好きだったから。やつれた私を初めて見た吾朗ちゃんはすごく引いてたよ。」

私は自嘲気味にふふと笑って話すのに佐川さんは笑わず、真面目な顔で私を見つめる。その真剣な眼差しが好きだった。何をどこまで深く考えているのか言ってくれないけれど、大事にされてる気がしたから。

「アイツとは幸せになれそうか?」
「そんなの誰も知らないでしょ?自分が幸せになれるかどうかなんて。」
「そうだな。」

会話が止む。雨がザーザー降って少し寒い傘の中で私は何かを期待していた。その想いはきっと私の瞳に映っているはず。時間が経とうとも、愛は変わらないこと。いや、変えられないことを。知って、気づいてほしい。

「お前…そんな目で俺をみんなよ。お前の恋人は俺じゃねぇんだからさ。」
「……。」
「おいおい。」
「……。」
「…はぁ。」
「……。」
「…もし、俺があいつより必要になったら言えよ。」
「え?」

彼が折れたように言った。私は希望で目を輝かせて、胸を熱くする。

「俺があの時ふっといてこんなこと言える筋はねぇけどさ、どうしてだろうな。失敗だった気がするんだよ。だって、お前はまだそんな目で俺を見るんだからな。」

佐川さんは私の頬を撫でる。
少し冷たくて、ゴツゴツしてる手は久々で…懐かしい。私は押し戻される覚悟で抱きついたら、彼は黙って受け止めて背中を撫でてくれた。あの時みたいに。

この人とやり直したい。彼に身をゆだねたい…でも、今したら浮気だ。裏切りだ。
吾朗ちゃんには最低なことをしてるのはわかってる。だから、決断しないといけない。吾朗ちゃんにこれ以上嘘をつかないように、

「佐川さん、私、吾朗ちゃんとわ、」

決意を言いかけたらポケベルが鳴った。ふっと緊張と熱の糸が切れる。放っておこうとしたけど、鳴ってるぜ?と言われてそっと佐川さんから離れた。
ポケベルの相手は吾朗ちゃんで体を気遣ってくれるメッセージが来ていた。佐川さんは察したらしく、佐川さんの手が背中から離れた。たったそれだけなのに熱かった体が嘘のように冷たく感じる。

「歳を考えりゃ当然俺よりアイツの方がいい。俺はこの歳だし、お前の望みを全て叶えられるわけじゃねぇんだ。一緒に生きてお前が幸せになる男はどっちか、ちゃんと考えた方がいいぜ。」
「佐川さんは…、司さんは私が嫌いならそう言って!」
「俺は…お前のことを愛してるぜ。あの時から、今もずっとな。」

その言葉が聞けただけで嬉しくて、ドキドキして、すごく切なくなった。
彼が真剣に伝えてくれて嬉しくて、迷うこともなくなった私だけれど、急に至極冷静な私が顔を出した。

「…吾朗ちゃんは司さんの部下、何だよね?」
「今はそうだな。」
「…もし、吾朗ちゃんが司さんの足を引っ張ったら、司さんはどうなるの?ケジメとか取らされるの?」
「内容によるが、かもしんねぇな。」
「……。」
「何だよ。そんなことまで考えてんのか。…って、待てよ。お前、まさか俺のためにあいつの機嫌を取ろうってのか?」
「……。」

難しかった。どちらも嫌だった。吾朗ちゃんをまた騙すのも、司さんを素直に愛せないのも。
でも、司さんが追い詰められるなんて嫌だ。極道の世界じゃ殺されることは珍しくない。

「おいおい、お前は自分のことだけ考えろ。下手な芝居打つんじゃねぇぞ。お前はカタギ。俺たちのことは考えんな。分かったか?」
「……。」
「…とにかくだ。行ってやれよ。あいつのところ。この傘は職場の置き傘だって言っとけ。それか近くのゴミ捨て場で捨てておけ。そん時は少し体を雨に濡らしておいた方が怪しまれねぇぞ。」

彼は強引に私に傘を握らせると雨の世界に身を晒していった。



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