新しい主人


「そんじゃま、今日は帰るとするか。またな、●ちゃん。」

私を指名してくれるお客さんで、佐川さんという年上の人がいる。初対面の時の彼の話し方や過ごし方からキャバクラに慣れている人だと分かった。ただ、キャバクラに入り浸る男というわけではなく、そっちの世界に慣れている人だなと。そんな私の直観はあたり、彼と一定の距離を保ちながら話をしていたら褒められ、こう言われた。

「うちの店に来ないか?お嬢ちゃんみたいに弁えてるキャバ嬢は重宝するよ?」

タバコを口から少し離して試すように問いかけた彼にすぐに返事ができないでいると、まぁいいさ。気が変わったらいつでも声かけな。とやんわりと話を引っ込めてくれた。

そして、私はいまだに元の店で働きながら、たまに現れる彼の話し相手をしていた。彼は店の1番高い酒を頼み、タバコを何本も吸った。灰皿交換を何度もしていると、彼は私の顔をじっと見ていたことに気づいて首を傾げる。

「どうしました?」
「●ちゃんは人気なキャバ嬢の割に着飾ってねぇなと思ってね。ここは女に金をださねぇケチな店なのか?勿体ねぇな。」
「いや、そうではないです。私はただ、慣れてなくて、そういうアクセサリーとか。」
「なら今度試しに着飾ってみろよ。俺が用意しといてやるから。」

押し付けがましくはない。その方がいいだろ、と少し茶目っ気のある笑みを浮かべる佐川さんはすごく不思議な人で、もっと彼を知りたいと思ってしまうことがある。でも、彼がそれを許さない。アフターもつけず、肌を触ることもなく、何気ない話をして酒を飲み、ある時間になるといつもの調子で帰っていく。いつもそう。深い入りしない。

ただ、小さな変化と言えば、最近は帰る時に私に札を握らせるようになった。最初は封筒に数万入っているのを見て慌てて返そうとしたけれど、耳元に寄せた口から"それでうまいもん食えよ"と親戚のおじさんのような柔らかな口調を残すだけだった。

「男ってのは気に入った女に貢ぎたくなる馬鹿な生き物なんだよ。」

今夜も別れ際に渡され、ポンと肩を叩かれて去っていく。ただ、その金が私のものになることはなかった。店長が後から没収した。

ー そう言うのはみんな店の金だから。わかるよね?ああ、●ちゃんにはボーナス出しとくから、それでチャラね。

と、くだらない笑みを向けて、私から奪った封筒から札を取り出し、パラパラとめくるのが店長の習慣だった。ひどい時は勝手にロッカーを開けて封筒を隠していないかを確認している。
あのオッサンすげーな、と佐川さんを馬鹿にした言い方で店の金庫に封筒が入っていくのを見て心底目の前の男を馬鹿にした。

でも、同時に私は怖いなと思った。
店長の人を見る目のなさと佐川さんという底知れない人間から微かに見える恐怖を感じているから。佐川さんは絶対に怒らせちゃいけない人だと、根拠はないけれど私は知っている。普通と違うんだ、根本的に。それは"裏の人だから怖い"というわけじゃない。もっと、"人として何かおかしくて、それが怖い"から。

彼が私に貢いだ金全て他の男の手に渡っていると知ったら、どんな顔をするんだろ?


◆ ◆

「よぉ、●ちゃん。こんなのどうだ?」
「わぁ、すごく、綺麗です。」
「女の好みはわからねぇけど、似合うと思ってな?」

酒の席で彼は私に紫色のネックレスをくれた。さっそく身につけると首にヒタっと触れる冷たさに違和感を感じたが、それは一瞬。私はそれがすごく気に入った。
彼と話す時も指でネックレスをつまんでみつめたり、指で撫でたり、感触を楽しむほど。

「なんだよ、そんなに気に入った?」
「ええ。初めてですから。佐川さんがくれたものが私のものになったことは。」
「なんだって?」

あ。と思わず口を閉じる。幸せな気持ちが嘘のように冷たく凍りつき、血の気が引いた。彼はグラスを口に運びかけた手を止めてじっと私を見る。その目は疑心と怒りを孕んだ真っ黒い目で、私の口から真実が出るのを待っている。

「あ、あの、実は、その、」

この人に嘘はつけない。敵に回したくない。本能的にそう思って、しどろもどろになって訳を説明すると、

「なんだよ。しょうがねぇなぁ。」

天井を仰ぎながら、首を軽く回す彼は怒ったようではなく、おいおい、とだるそうにため息を吐く。私は怒られると覚悟して身を固めた。緊張と恐怖から心臓が巨大化して全身を震わせてるような脈動を感じていたし、その拍動からか膝の上に重ねていた指先が震えて止まらない。

「好きな女に渡していた札がこの店の男の手に渡ってたってわけか。まぁ、●ちゃんは悪くねぇよ。」
「は、はい、でも、ごめんなさい。」
「女を殴る趣味はねぇから安心しろ。そうだ、新しい灰皿と日本酒頼んどいてくれる?俺は少し用を足してくるからさ。…ちょっくら行ってくるよ。」

彼が席を立って去っていく。私は彼の背中を肩越しで振り向きながら見送り、口早に灰皿と酒をボーイに頼むと立ち上がって彼を探しに行った。
本当にトイレに行っただけなら引き返す。でも、トイレを思い切って覗いても彼はいない。慌てて店長の姿を探すと、彼は佐川さんに肩を抱かれたまま店の外に出て行った。

怖い、とても怖い。私になんて何もできない。でも、私が絡んでる話だし、止められるのも私だけ。
何が起きてどうしたらいいのかなんて分かってないけど、慌てて後を追って姿を消した2人を探すと路地裏から大きな音が響く。何人かの男女が路地裏から逃げてきたので、そこに向かうと、

「あのなぁ。俺は女に札握らせたの。わかる?誰がお前みてぇな汚ねぇ野郎に金やるんだよ。」
「す、すすすみません、で、でも!あれです!あいつが俺にって自分から渡したんですよ!」
「へぇ。今度は女を盾にするってわけか。」

切れかけの街頭が映し出したのは、佐川さんから蹴りを入れられて地面に丸くなりながら言い訳を叫ぶ店長の姿だった。ひぃひぃ、と怯え切った声が漏れ、割れたメガネが散っている。脱ぎかけの靴は逃げ出そうとしたのか余計に惨めだった。
それらを見下ろしてタバコを吸い始める佐川さんは足を店長の頭の上に乗せていた。
まさに弱肉強食の図だ。誰も助けに来ないし、入り込めない。

「●ちゃん、俺がやった金、やったの?」
「違います、わ、私はとられました。代わりにボーナスやるからチャラにしろって。」
「全くしょうがねぇなぁ。…なぁ、●ちゃん、本気で俺の店に来ない?」

闇の中でぼうっと光るタバコの火。彼の口元と目元だけを照らしたそれはやがて灰が落ちて店長のスーツにかかる。そして、大して吸っていないその火のついたタバコを店長の背中に押し当てて消した。

「なぁ、来いよ。」

佐川さんが隠し持っていたこの恐怖と強さに惹かれた。理由はわからないし、いつその一瞬の爆発が自分に向かうかもわからない危ない人なのに、私には強くて惹かれる男として映ってしまう。
私はその場で頷くと、彼は怒りがおさまったのか、最後に店長の頭をひと踏みして汚い水溜りの中に沈めてから路地裏から出てくる。

ネオンの光に照らされた彼はいつもの彼だった。ニッと目元を緩めて私のネックレスを撫でて言う。

「やっぱりお前は俺が磨いてやるよ。」

怖いのに、どうしてだろうか、彼から逃げたくない。私は彼の手を自分から取ると、彼は慣れた動きで私の肩に腕を乗せて自分の店へ歩き出した。
彼に肩を抱かれながら、まっすぐ前を向いている彼を見上げて期待していた。彼のテリトリーで働けることが、ひどく嬉しくて興奮した。


end

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