俺たちに惚れるな


「え?佐川さんって…そうだったんですか?」

目を丸くして無意識に口に手を当てた●に佐川は「おう、そうだよ?」となめらかに答える。

●は佐川がヤクザだとは思わなかった。今も思えない。だから、この話も悪質な冗談かと思って佐川が否定することを待ったが、彼は●をじっと見つめるばかり。

彼はすんなりカタギに溶け込めるカメレオンだ。
キャバレーで飲んでいる佐川は少し態度はでかいが、反社会的な危険はうまく隠されており、カタギの人間と思える時がある。彼の殺意や狂気は表向きの顔という回転扉の裏にしっかり隠されている。
しかし、●はその二面性を見抜けず首をかしげたまま佐川を見返していたので佐川は笑って言った。

「何てな、冗〜談だよ。何本気にしちゃうのさ。」
「あ、やっぱり!?ですよね!そんなわけないですもん!佐川さん優しいから。」
「優しいねぇ。お前の目にはそう見えるわけだ。…はは、お前もほんと見る目がねぇよなぁ、全く。何で俺なんか好きになるのかねぇ。…ああそうだ、真島ちゃんなんてどうだ?歳も近いだろ。」
「支配人ですか?ああ、いや、私はちょっと。」
「へぇ、あんないい男の何が気にいらねぇの?」

真面目すぎるからと言う●に彼は呆れる。真面目すぎるくらいがちょうどいいんだよ、と緩く指摘するが●は受け流す。

「お前ならあの男をそっちの世界に連れて行けそうなんだけどな。」
「そっちの世界?」
「…いや、何でもねぇ。まぁ、若い女に気に入られるのも悪くねぇな。でも、本気になるなよ?お前の周りにいる男はズルくて汚いんだよ。」

佐川の言葉の意味を半分も理解出来なかった●だが、酒がその微かな違和感を誤魔化してしまう。
その日、初めて佐川が彼女に本音を口にしたのだが、●は気づくことができなかった。

ーーー

「佐川さん、遅いな。…あ…、もしもし!」
「おお、●か。悪いな、今夜会えそうにねぇんだ。用事が入ってよ。」
「え…は、はぁい…。あの、今度はいつ会え「飯は真島ちゃんから奢ってもらえよ。言ってあるからよ。」
「え?いや、私は別に「じゃあな。」
「さが、…もしもし!?…ああ、切れちゃった。」

●の返事を待たずに切れる電話。最近こうしてドタキャンが続く。今日こそはと着飾った●は受話器を置いてため息をついた。
すると、タイミングよくアパートのチャイムが鳴り、真島がドアの前に立っていた。彼は外行きのサングラスを身につけてスーツの上にジャンパーを羽織っている。何で彼がここに?と驚く●に彼は口を開く。

「さが…いや、オーナーに言われてのぉ。●ちゃんに夕飯奢ったるで。外出る準備ええか?」

真島と外食にいくことは考えていなかったので●は断ったが、真島は「もう焼肉屋に予約しとるんや!頼む!1人でフルコースなんて食べ切れへんし、なぁ?」と脚本でもあるかのような頼み方をして●をなんとか納得させる。
真島は内心、(結構無理やりやったで…)と自分の押しの強さに呆れたが●を外に出せて安堵する。


ーーーー

「いっぱい食べるんやで?太るから肉は食わんっていう女の子もおるけど、女の子でもちゃんと栄養取らなあかんからな?」

まるで優しい母親のような言い方をする真島に●はくすくす笑い、佐川の不在の寂しさが消えていく。本当は今この時間を佐川と過ごせたのにと思うことはあったが、それを払うように真島はたくさん●に話しかけ、明るい話を提供した。

しかし、好きな肉をたくさん食べて気持ちが前向きになれた時、真島のトーンが変わり、その和みが陰りをみせた。

「なぁ、●ちゃん。なんで佐川はんみたいなおっさんがええんや?」
「うーん。歳は関係ないんです。佐川さんと話すと楽しいし、ダメなことは諭してくれるし、励ましたり、アドバイスくれるし、頼れるんです。」
「まぁ、人生の先輩として頼れるところはあるか。ほんでも、怖ないか?」
「いや?優しいですよ?冗談も言うし。優しい目を向けてくれます。」
「ほんでも、佐川に深入りせんほうがええで。●ちゃんのためや。」
「えっと、どうしてですか?」
「実はあいつはな……、…妻子がおる。」
「え?…ほ、ほんとですか!?全然そんな気配ないですよ?」
「おるで。佐川に深入りしたらあかん理由はそういうことや。嫁さんは弁護士やし厄介なコネをぎょうさん持っとる。●ちゃんのことを不倫相手とおもたらバンバン慰謝料とってくるで?でも、今は嫁さんは●ちゃんに気づいとらんから引くなら今や。」
「え…え。」
「実は今日佐川がここにおらんのも家族と過ごすためや。」
「そんな……。」
「…急にこんなこと言われて●ちゃん傷つくのはわかっとる。」
「……。」
「でも、いつか佐川に裏切られる●ちゃんを思うと黙っとれんくてのぉ。」

楽しかった時間が幻のよう。●は箸を置いて静かに俯くと涙をぽたりと落とした。真島はハンカチを差し出し、●が泣き止むのを待った。

●が泣いている間は鉄板の上にあった肉は焦げ、無意味な蒸気が2人の間を漂った。さっきまでのお喋りやごく普通の夕食が一気にどんよりして暗い雰囲気に一転する。
周りの席の笑い声が●をより孤独にさせているのはわかったが、彼女にかける言葉はなかった。彼女には彼女の保身のためにも佐川を諦めてもらうしかないのだから。

勿論、真島の話したことは全て嘘だ。
佐川に妻子はいない。だが、こんな作り話よりも恐ろしい力が佐川の周りでは蠢いており、それが●に向かうかもわからない。
●を佐川から離すこと…、これは佐川からの頼み事なのだ。

ー 俺をひでえ男にして2度と顔も見たくないようにしてやってくれ。
ー 自分でやらへんのか。
ー 悪いな。あいつは本当に俺のこと好きでよ。俺が言ったところで引き下がらねぇんだよ。ほんと困っちまうよなぁ。

佐川は笑いながら言ったが、その目には愉快さとか滑稽さとか●を馬鹿にするようなものは映っていなかった。寧ろ、虚しさがほんの少し見えた。

ー あんたでもそんな顔するんか。意外やったわ。
ー うるせぇよ。…まぁ頼んだよ?

真島の横を通り過ぎる佐川の背中は覚悟を決めた男の背中。彼がもう●の前に現れることはないのだろう。●がどれだけ恋しがっても彼は心を鬼にして突き放す。

(…悲しむ●ちゃん、みとぉないのぉ。)

人の女を取る気はないが、人から捨てられた女を見ると心が痛む。ましてや純粋な想いを嘘で押しやられるなんて痛々しく可哀想だった。

「なぁ、●ちゃん。もうお腹いっぱいやろ?少し歩かんか?」
「…っぅ、はい…。」

●の失恋した表情を見ていると真島の心は助けたいという気持ちに掻き立てられる。だが、いずれヤクザに戻る自分だって●を愛せる立場にない。なんて無力なのか。

(もっとええ男みつけぇや、●ちゃん。)

落胆する●の肩に手を添えかけて引いた真島は初めて佐川に同情した。



end



ALICE+