せめてもの


「…はぁ。違いますよ、全然わかってない。」

人から心底呆れられると言う体験はあまりなく、この時耳に届いた深いため息は記憶に刻まれた。私は彼女の背中を見つめながら好奇心から聞く。

「では、どう言う意味ですか?金があればやり直しがききますし、チャンスではありませんか?」
「立華さんって、自分がどこで生きてても別に良いって人よね。土地に愛着がないみたい。思い出もないみたいだもの。」
「……。」

振り向いて言った言葉は的を得ていてしばらく沈黙する。彼女の言う通りだ。私は唯一の居場所を必要としていない。目的や望みがあり、そのために捨てるべきものは捨てていくし、決まったものがなくても構わない。金があれば立て直せるのだから。

「あなたは違うと?」
「私はこの街が好き。クズが多くて仕方ないけど、私の生きた場所だから。だから、金で釣られて立ち退けと言われても立ち退きたくない人の気持ちがわかる。故郷とか思い出の方が大事だもの。」
「金よりも?」
「思い出が金で買えるの?」
「…そうですね。」

彼女が私のやり方に反対しているのはよくわかった。反論も出ず、彼女の伝えたいことをゆっくり理解していく。
そして、職場に帰ってからも不思議と彼女が言った言葉を反芻し、横を通り過ぎて立ち去った彼女を思い出した。

「…金で買えない…か。」

そんなものはないと思っていた。皆綺麗事を言い、結局大金をチラつかせば大体は靡き、すぐに別の場所に根付く。しかし、●さんのように一部の人間はどれだけの大金をちらつかせても頑なに金に靡かない者がいる。それが厄介で、結局は脅すか更に金を積むか嫌がらせをして追い払うことが最終手段になっていた。

彼女はいつも私のやり方を冷たい目でみていた。その度に私が罪を犯したような思いになるのは何故か。●から非難されると黙ってしまうのは何故か。
彼女は何の立場も力もない女性だと言うのに、彼女と分かり合えないと思うと妙に心に残る。

(●さんが生活していた場所を歩いてみよう)

翌日、残っていた●さんの言葉に動かされるように出歩いた。●さんが生まれ育ったその地域は大した名物もなければ人通りもあまり無い。飲食店がいくつかあるが寂れているし、道に捨てられたゴミもあって冴えない。近くに川があるが綺麗とは言えないので何の名所でもない。ただ、●さんにとってこれが金で買えない場所なのだ。

(…こんな土地でも壊したくない、か)

権力者同士が勝手に手を伸ばして奪おうとしている土地は誰かの大事な場所。

土手に佇んで夕日を眺める。ここで子供の時の彼女は遊び、夕日を見て誰かと語らったのだろう。女性になった今でも時折立ち寄って癒されているのかもしれない。
そんな場所を奪ってしまったら彼女は傷つき、私ともう目も合わせなくなる。

(このままでは私が立ち退かされそうだ)
「立華さん…?」

聞きたかった声がして振り向くと●さんがスーパーの買い物袋を持ってこちらを見ていた。パンパンに膨らんだ買い物袋から察するに1週間分の食料があるらしい。
彼女の生活はまだここで続く。

「貴女が過ごしたこの地域は私がもらいます。」
「なっ…まだそんなこと言って!私たちはここから立ち退く気なんてっ!」
「ええ。ここにいてください。」
「え?」
「私がこの地域の地主になります。管理をしますが、貴女方の生活を侵害しません。何も変わらずに過ごしてください。」
「…で、でも、それって…?」
「この場所は私が取らなければいずれ違う権力者、恐らくヤクザが取りに来るでしょう。そうなればシノギのための場所として使われ、貴女たちの居住区ではなくなる。私はそれを阻止したい。だから、私がこの土地の管理者になります。あなたの思い出を守るために。」

手のひらを返すような申し出に狼狽えた●さんは首をかしげる。そして、スーパーの買い物袋を握り直しながら聞いた。

「少し前の立華さんは自分たちのためにこの土地が欲しいって言ってたのに急にどうしたの?…そんなこと言ってまた都合よく方針を変えるんでしょ?」
「変えません。約束します。」
「でも、立華不動産は極道みたいな酷いやり方で立ち退かせるって聞いた。」
「貴女が信じられないことは百も承知です。今までのやり方を考えれば危機感や不信感を持たれてもおかしくはない。ですから、見ていてください。私の覚悟が本物だと言うことを。」

まだ不信感を浮かべる目を向けられるが、まっすぐな視線で見つめ返した。●さんは軽い人ではない。脅しに臆することはなく、誘惑にも揺らがずに守り抜く人だから。その姿に惹かれたのは私がかつてそれが出来なかったから。自分の幸せを求めて守るべき者を捨ててしまった。家族も思い出も故郷も、金があってももう戻らないのに。

「私は貴女が眩しいんですよ。」
「私が?」
「ええ。揺るがない想いをあの時の私も持てたら…。」

彼女に聞こえるか聞こえないかの声で言う。金があればやり直せるだなんていいながら、私はそれが通用しないことをよく知っていた。

「償い、ですかね。」
「…よく分からないけど、立華さんの覚悟、見せてよ。」
「ええ。護りますよ。」

貴女が昔の自分と重なったのかもしれない。いや、貴女ほど立派ではなかった。寧ろ、こうなれたらよかったという理想だった。
●さんの故郷とこれからの思い出を守りぬく。なんとしても。


end

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