2人の匂い


「……。」
「……。」

居酒屋のカウンター席で1人酒をしていたら、隣の席に客が座った。目の端に派手な黄色いジャケットがチラつき、覚えのある匂いが漂った途端酔いが覚めて胸の奥がザワっと騒ぐ。この匂いは好きな匂いで私が一時期香水として愛用していたもの。しかし、寂しい思い出も思い出すからもう使わないままでいた。

「……。」
「……。」

隣に目を向けなくともわかる。誰が隣に座ったのかなんて。彼は昔付き合っていた自慢の彼氏だ。お互い大事に想い合っていたのに私が欲しがりすぎて続かなくなった人。

「……。」
「……。」

久しぶりに彼を感じながら頬杖をついてゆっくり過去を思い出す。別れた後は後悔したけど、彼は一度決めたことを曲げる男じゃない。私としても自分から別れ話を切り出したので修復は不可能だった。だから、こうして隣り合うのは1年ぶり。

「……。」
「この店で一番ええ酒をくれや。」

私の好きな低い声が聞こえる。私は心拍数が上がるのを誤魔化すためにお猪口を傾けた。少しして彼に酒が渡され、彼はそれを静かに注ぐ。騒がしい居酒屋なのに酒が注がれる微かな音が私の耳に鮮明に聞こえるのは、彼を意識しすぎだろうか。

「……。」
「……。」

あの頃の私たちなら会えた日はずっと話してた。この距離が遠いと感じるほど、私は常に甘えて寄りかかるし彼は肩を抱いてくれて甘やかしてくれた。彼は優しくて、厳しくて、一途で、男らしくて、豪快で、とても楽しい人。こんな完璧な人は他にいない。自慢の彼氏で日に日に好きになって独占したくなったけど、彼を頼る人や憧れる人は沢山。男女問わず多くて、私にはライバルが多くいた。

「……。」
「……。」

例えこうして再会しても、もう無理だろうなって思ってた。でも、そんなの嘘で、こんなに近くに来たら復縁を望んでしまう。

隣の席に座ったのは何故?私の後ろ姿を見て気づかなかったの?ていうか、私だって気づいてる?実は吾朗も気まずい?もしかして、今から人と会う約束してる?なら、私は居た堪れないよ。そんなの見てらんないよ。

ぐるぐるいろんなことを考えた結果、声をかける勇気はなく、彼を見届ける気持ちもなく、あの日ようにあきらめた。

「すみません、お勘じ「待てや。」

明らかに私にかけられた言葉に振り向く。眼帯の横顔がこちらに向いているので彼の表情が読めないけど声は真剣だった。その低い声で静止されると何も言えずになり、黙って彼の言葉を待つ。

「そないな安酒でお前が足りるわけないやろ?」

彼が頼んだ酒を差し出される。空のお猪口を躊躇いがちに差し出すとそこにトクトク注がれる。彼はボトルを置いてお猪口を口元に持っていくから、私も自分のお猪口を口に運ぶ。傾けたのは同時だった。

「……。」
「……。」

ここにいていいの?なら、何を話せば良い?何を話してくれるの?今私は困ってる…。
いや、違う、期待してる。
手放してしまった人が自分の足で私を探して来てくれたんだって思いたい。そこにかつての恋心がなくても。幻滅されてるのは分かってるけど、こうして話しかける価値はあると思ってもらえて嬉しかった。

「その匂い好きなの?」
「せや。お前はもう飽きたんか?」
「好きだよ。」
「なら、なんでつけへんのや。」

カッコ悪くて答えられない。口籠って天井を見上げると彼はそれ以上聞かなかった。…いや、もともと質問じゃないのかも。さっきのは批判してたのかも。

私は香水の場所を思い出す。机の奥、…ずっとずっと奥に仕舞い込んだ。忘れようとしたのに今だにどこにしまったのか覚えている。また同じ匂いを漂わせれば、気持ちだけでも昔に戻れる気がする。

「……。」
「……。」

流石に会話は乏しい。それからまた暫く無言で酒を飲んでいた。 やっぱり難しいか。それはそうだ。何話したらいいのかもうわかんない。もどかしいけど、変なこと言って今度こそ嫌われるのもやだ。

「楽しかった。」
「おっちゃん、2人分の勘定頼むわ。」

私が立ち上がると彼も立ち上がる。私は彼が払うまでそばに立っていた。そして、「行くで」と言われて2人で店を出る。暖簾をくぐって私よりずっと背が高い彼の背中を見上げると彼は肩越しに振り返り、やっと目が合う。それは真剣な瞳で私が求めていたもの。もう向けてもらえないだろうと思ってたものがそこにあって今ならきっと求めてもいいんだろう。いや、もう今しかない。これ以上、吾朗が女々しく何度も縋ってくれるわけない。

「吾朗。私、あの時、ごめ、」
「もうええ。女に謝らせる趣味はない。…ほんで、それだけか?」
「……帰らないで。」
「おう。」

彼の手を引いたら彼はなんの躊躇いも咎めもなくついてくる。すぐ隣に立つから彼の香水が私にうつる。離れないようにと彼の手を強く握りしめるとぐいっと引き寄せられた。よろけた私の肩を抱き止めた吾朗は無言のまま立ち止まる。
久々の抱擁が嬉しくて彼に身を預けていると彼は言う。

「たとえ相手がお前でも、納得がいかんことはもう頷かんことにした。」
「ど、どういうこと?」
「別れたくない女とはもう別れへんっちゅうことや。」

抱擁されながら空いていた方の手にも指を絡めると彼は応えてくれる。このままひとつの匂いになりたい。
香水を探すのはやめた。こうして彼と絡み合って同じ匂いを纏いたい。そのための時間は十分にある。



end



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