交際まであと半歩


あの夜、初めて客にドキドキした。
客といっても若くはなく、見た目も特別に目を引くような男ではない。渋さと柔和さを掛け持ったオジサンで語り口調に古臭さがある。

端的に言えば好みでも何でもなかった。なのに、彼の相手をするために隣に座った瞬間、まさに"勝手に"脈が速まって体が痺れた。それは頭を置き去りにして体が主導権を握った瞬間。
彼の一挙一動に反応して、見惚れて、渋い声をもっと聴きたくなった。そんな私を見た彼に訝しがられたので慌ててホステスとしての自分を呼び起こし、仕事をする。
でも、頭の中では彼に対する好奇心でいっぱいだった。普段は何をしてる人?奥さんはいるの?趣味は?好きなお酒は?と個人的なことが知りたくてたまらなかった。

一目惚れ…なんだろう。本能的に「この人がいい」って脳が叫んで司令を出して私を支配した、強烈な堕ち方だった。


◆ ◆

「来なかった…。」

更衣室で独り言のように呟く。
新しく買った口紅。彼が今日店に来た時に最高に綺麗な自分でチョコを渡せるように懸命だった。でも、肝心の彼が店に来ないんだからどうしようもない。もうこんなに遅い時間だし客足は減る一方。外も雨だし、わざわざ飲みに来るわけがない。
気持ちが沈んで正直がっかりした。ポケットに入れておいた口紅をロッカーの化粧ポーチに片付けて、カバンの中に入ったチョコレートを見る。
直接は渡せなかった…でも、捨てたくはない。自分の中で始まった恋は最後まで大事にしたい。

意を決して真島さんに会いに行った。

私は年下だし、容姿も接客も平均的なホステス。年配の佐川さんにこんな年下の私が本気で好きになってもらえるわけがない。
でも、佐川さんにチョコを届けたい…。

願掛けのように真島さんに声をかける。

「真島さん、今日は佐川さんは来ますか?」
「ん?佐川はんか?いや、特にそんな予定はないで。」
「そうですか…。なら、お願いがあるんですが…。」

佐川さんを思うと言葉が詰まる。顔が赤くなるのがわかる。でも、伝えたくて真島さんに佐川さんに渡して欲しいと伝えたら、

「おう。ええで。…にしても、真面目やなぁ。いくらオーナーやからって、佐川はんにもちゃんとチョコを用意しとるとは感心や。」

真島さんは完全に勘違いしてた。私は店のオーナーである佐川さんに礼儀としてチョコを渡そうとしてると思ったらしい。だから、思わずいってしまった。

「違います!私は本気です!」
「おう、そうなん…、え…?…。え、…えええっえ!??!●ちゃん今のホンマに!?ホンマか!?」

あの真島さんが驚いてる。狼狽えて私をガン見してた。信じられないと絶句してから何とか立て直して言葉を吐く。

「…そ、それじゃあ、そ、その、伝えとくわぁ。」

絞り出すような言い方はいろんなショックを受けているようだった。そうなるのもわかる。
私と佐川さんじゃ釣り合うわけない。親子ほどの歳の差だし彼を堕とせる気はしない。
でも、今日くらい好きと伝えたい。

「……。いや、やめや。」
「え?」
「●ちゃん、本気なんやろ?」
「はい。」
「ほんなら、自分で渡さんと。佐川呼んでくるわ。」
「え!?いいんですか!?」
「おう。事務室で待っとれ!」

真島さんは親指を立てて走り出す。
これからここにやってくる佐川さんを思うとテンパった。緊張で頭が真っ白になる。セリフを考えては消え、考えては忘れ、何も思いつかない。

それから20分後。

2人分の足音が事務室に向かってくる。間違いなく佐川さんの声がした。指先が震えてくる。怖いのに嬉しい!でも怖い!

「事務室にはいりゃいいの?一体何なんだよ」

うんざりしたような怪しむ声がしてドアが開く。
少し険しい顔つきの彼と目が合った。私を見るなり片眉をピンと釣り上げて、「ん?こんな所でどうしたお嬢ちゃん。」と演技がかったセリフを吐く。

「あ、あの、私は…」

彼の背後でドアが閉まる音がした。
真島さんが空気を読んで閉めてくれた。
…ど、どうしよ、固まって…何も声が、

「嬢ちゃん、俺に何か用?」
「あ、あの!さ、佐川さんにどうしても渡したいものがありまして!…今日、バレンタインなので、良かったら食べてください!」
「へぇ〜っ。こんな別嬪さんがわざわざ俺に?嬉しいねぇ。」

何故呼び出されたのか分かった彼は険しさをなくして柔和な声を出す。私が差し出したチョコをヒョイっと取り、面白そうに包装紙を見てから私の顔をしげしげ見る。

「この店の支配人に頼み込んでオーナーの俺を呼び出させる…か。まあ、真島ちゃんの計らいもあったんだろうけど、なかなか度胸のある女じゃねぇか。」
「……。」
「たくさん話してぇけど、今日はもう店終いの時間だ。日を改めて飲みにくるよ。そん時は相手してくれよ?」
「も、もちろんです!是非…お相手したいです!」
「ふっ。俺の目も節穴かねぇ。こんな可愛い子がいたのに気づかねぇなんて落ちたもんだなぁ。」

褒められた。口紅のおかげかな。おしゃれした甲斐がった。好きな人から見つめられたり褒められたり次の約束をしてもらえた…。もう、十分だよ…しあわせ。

「その笑顔、もう俺以外に向けるんじゃねぇよ?」

悪戯っぽく笑う彼は今から仕事だから帰ってしまったけど、大きな一歩に間違いはない。
満足から思考停止した私は部屋の真ん中で天井を見つめながら固まっていた。

心配からゆっくりと入室した真島さんが驚いて駆け寄る。

「なんか変なことされてへんやろな!?大丈夫か●ちゃん!?…ん?●ちゃん?聞こえとる?●ちゃん!?」

ガクガク揺さぶられる。「やりきった…」と感無量で呟いた私はフッと目を閉じてその場に崩れ落ちた。


end


「バレンタイン…女の子にとってめちゃ神経使う日なんやな…」

真島は事務室のソファーで爆睡する●を見守りながらバレンタインに計り知れない力を感じた。


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